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科学としての存在を自らが言えることができる形而上学が本当にあるのだろうか。もしあるのならば、ぼくは… 連載 超訳プロレゴメナ 168 本編26

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第四節 形而上学はそもそも可能なのか?
 
 科学としての存在を自らが言えることができる形而上学が本当にあるのだろうか。
 もしあるのならば、ぼくはこういうことが言えるかもしれない。
「ここに形而上学がある。君たちはこれを学びさえすれば、形而上学の抗えない不変の真実を、納得できるだろう」
 もしそうならば問題がなくなり、残るのは形而上学の可能性と理性の形而上学への達成に限定して先に進むことが可能となるだろう… それは、物自体の存在の証明ではなく、ぼくたちの感性の鋭敏さの度合い求めることになるだろう。つまりは「形而上学はどうすれば可能なのか、どうすれば理性が形而上学に達するのか?」と、限定したものとして考えることも可能になりそうな気もしてくる。
 しかし形而上学に限って人間の理性は、それほど都合よく対応なんかできはしない。形而上学には、ユークリッドの原論のようなものは一切ないのだ。
 ユークリッドの原論のようなものが形而上学にあるのなら、それを指差して「これが形而上学だ。ここでは目的とする最高の存在と未来の存在に関する認識が、純粋理性の原理から証明されるのを見つけるはずだ」と言えるだろう。
 ぼくたちには明らかに確実であって疑問の余地もない多くの判断を掲げることができるが、そのすべが分析的なものであることを知る必要がある。形而上学を研究する際のぼくたちが適切な目的とするのは対象に関する知識の拡張なのだから、むしろそれらは形而上学を建築していくための足場と材料にというに過ぎない(第二節)。
 この段階で君たちが総合的な判断を提示したとしても(理性の法則などついてはそれが真実であることを喜んで認めるが、事前に純粋な理性から証明したのではなければ)、使用する段階で君は破綻を味わうことになるだろう。

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