人々は自然を体系的に探究し始めるさらに以前から、抽象的な理性を考えはしていたが、それはは日常的な経験をもとになされたものだった。なぜなら理性は常に存在するが、自然法則の理解には労力を要するものであって、経験のみでは理解できないもの… 連載 超訳プロレゴメナ 169 本編27
第四節(承前)
こうした疑わしい主張の証明がなされるのは、いつの時代でも、ある形而上学がその主張またはその証明などが、矛盾したままで改善することもなく、永続的な同意を得ようとする自身の要求を、自らが破壊してきたからだった。
その結果が、科学を確立しようとするまさにその試みに対して懐疑論をもたらしたのだった。懐疑論は、ぼくたちの最も重要な願望を満たそうとする完試みに完全に絶望した結果だった。
人々は自然を体系的に探究し始めるさらに以前から、抽象的な理性を考えはしていたが、それはは日常的な経験をもとになされたものだった。なぜなら理性は常に存在するが、自然法則の理解には労力を要するものであって、経験のみでは理解できないものだからだ。
形而上学は泡のように表面に漂って浮かんではすぐに、くみ取られるように溶けていく。そのたびに新たな泡が表面に現れてくる。それを懸命に集めようとした者もいないではなかったが、多くは現象の原因を深く探求する代わりに、集める者を嘲笑することが、自分たちの知恵を誇示できると確信していた。
すべてのア・プリオリな認識の中では、純粋な数学的認識の本質的で際立った特徴をもっている。
それは概念からではなく、概念を構築することから開始されなければならないということだ。概念を構築とは直感のことだ。言葉を変えて言えば、形象ともいうべきものを対象に思い描くことで認識が確立するといえる。(p.713 [p.741])
そういうことで判断では概念を超えて、直感が含むものが何なのかを求めることが必要となる。これらの判断は、概念を分析しても生まれはしない。つまりここには分析から生まれるのはないということだ。
結果として判断とは、総合的なものと理解しなければならなくなった。
