見出し画像

形而上学には公理に相当するのものが存在しない… 形而上学の対象が多くの存在であって、それを分析し、拡張するために総合を行う、そこに簡明な規則が転がっているわけはあり得ない… 連載 超訳プロレゴメナ 170 読書会編118

169

超訳プロレゴメナ読書会 第十三回から
 
 超訳プロレゴメナの第十三回目の読書会が、2018年9月24日(月)に、文京区の公民館で開催されました。
 今回は先輩の牧野さんも参加してくれました。

 第4節が今回の対象ですが、現在は第2節の後半に移動している箇所にも言及したいと考えています。それは、その箇所がアカデミック版やドイツの哲学文庫では第4節の後半に掲載されているからです。
 多くの流布本では、第2節の後半に掲載されていて、超訳もそれに従った形になってはいます。しかし最近の荒川先生は、第4節の後半に移動したのはカント自身の意志によるのではないかと、考え始めているようなのです。

 今回は、こうした考えも含めてディスカションしていく予定にしています。

ディスカション
 
池田幸男:
 第4節の最初の個所に、こう書かれています。

 しかし形而上学に限って人間の理性は、それほど都合よく対応なんかできはしない。形而上学には、ユークリッドの原論のようなものは一切ないのだ。

第168回 本編26

 この箇所は形而上学には公理に相当するのものが存在しないと言っているわけですね。
 
前島幸太郎:
 形而上学の対象が多くの存在であって、それを分析し、拡張するために総合を行う、そこに簡明な規則が転がっているわけはあり得ないってことですね。
 
山際このみ:
 それは、さっき池田さんが言った個所の少し先に書かれいるんでしょう?

 ぼくたちには明らかに確実であって疑問の余地もない多くの判断を掲げることができるが、そのすべが分析的なものであることを知る必要がある。形而上学を研究する際のぼくたちが適切な目的とするのは対象に関する知識の拡張なのだから、むしろそれらは形而上学を建築していくための足場と材料にというに過ぎない(第二節)。

第168回 本編26

171

いいなと思ったら応援しよう!