建築には足場と材料が必要ですが、それがあるだけで、建築が進むわけがありません… そこに建築のための作業が伴わなければ意味が… 形而上学ではその作業が「事前に純粋な理性から証明」となる… 連載 超訳プロレゴメナ 171 読書会編119
超訳プロレゴメナ読書会 第十三回から
ディスカション(承前)
曽根康夫:
山際さんが指摘した個所にある「建築していくための足場と材料にというに過ぎない」ってところ重要なところだと思います。建築には足場と材料が必要ですが、それがあるだけで、建築が進むわけがありませんからね。そこに建築のための作業が伴わなければ意味がありません。形而上学ではその作業が「事前に純粋な理性から証明」となるわけですね。
桐川夢見:
そう読み取るんですね。曽根さんの指摘で、ここを十分に納得することができました。
この段階で君たちが総合的な判断を提示したとしても(理性の法則などついてはそれが真実であることを喜んで認めるが、事前に純粋な理性から証明したのではなければ)、使用する段階で君は破綻を味わうことになるだろう。
池田幸男:
それが正しい方向で実践された作業なら、形而上学の建築が可能になるはずなのですけれど… カントがそこを書いていた時代には、けっして正しい方向で実践されていたわけでは、なかったのですね。
山際このみ:
それが、つぎにつながるんだよね。ここはカントの憤りや絶望の表明が観えるような気がしない?
こうした疑わしい主張の証明がなされるのは、いつの時代でも、ある形而上学がその主張またはその証明などが、矛盾したままで改善することもなく、永続的な同意を得ようとする自身の要求を、自らが破壊してきたからだった。
その結果が、科学を確立しようとするまさにその試みに対して懐疑論をもたらしたのだった。懐疑論は、ぼくたちの最も重要な願望を満たそうとする完試みに完全に絶望した結果だった。
須田隆雄:
しかし、希望もあったわけですね。その見通しが立ったとき、次が書かれたって、ぼくは思いました。
すべてのア・プリオリな認識の中では、純粋な数学的認識の本質的で際立った特徴をもっている。
それは概念からではなく、概念を構築することから開始されなければならないということだ。概念を構築とは直感のことだ。言葉を変えて言えば、形象ともいうべきものを対象に思い描くことで認識が確立するといえる。
そういうことで判断では概念を超えて、直感が含むものが何なのかを求めることが必要となる。これらの判断は、概念を分析しても生まれはしない。つまりここには分析から生まれるのはないということだ。
結果として判断とは、総合的なものと理解しなければならなくなった。
前島幸太郎:
ここにきて、形而上学で分析と総合を語っていく主旨が明確になったと捉えることが可能になったいえませんか? それでは、カントが第4節の後半に移動したと思われる、第2節の後半を振り返ることにしましょう。
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