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超訳 純粋理性批判 117 序説編 42 純粋な自然科学にたいしては、その存在が現実的なものかどうか、それに疑問を持つ人も多いに違いない。けれども、(経験として観ることができる)適切な物理学の事象についての命題を調べていけば、その疑問は解消していくはずだ…


本文中の [nnn] 表記は、原書第2版のページ番号を示している

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VI. 純粋理性の普遍的な課題

 かなり多い探求を、一つの問題の形に還元できることは、とても大きな利点になる。なぜなら、そうすることが、課題を明確に定義するからであって、ぼくたちの作業が簡素化されるだけでなく、それを検証する人が、ぼくたちではなくても、ぼくたちが目的が達成されたかどうかを判断しやすくなっているからだ。だから、純粋理性の真の課題は、「総合的なア・プリオリ判断はどうすれば可能になるか」、この問いに集約される。

[019]
 これまで形而上学は、不確実であり多くの矛盾を持ちながら動揺しつづけてきた。その最大の原因は、分析判断と総合判断の区別すら、まったく検討されることがこれまではなかった、この事実にだけにある。だからこれからも形而上学が存在していくためには、この問題を検討して解決できるか、もしくは、この問題を解決する可能性は、じっさいには、まったく存在しないかを証明できるかに、かかっている。
 哲学者の中では、この問題に最も近づいたのはデイヴィッド・ヒュームだった。しかしけっして、その問題に十分で正確に、さらに普遍的に捉えたわけではなかった。それは、たんに結果と原因の関係(原因と結果の規則)、そうした総合命題にとどまっただけだった。そしてヒュームは、こうした問題は、ア・プリオリには、まったく不可能なことが推論できると信じていた。
 ヒュームの結論では、ぼくたちが形而上学と呼んでいるものは、すべて、実際には経験から得たものあって、習慣を経て必然性の外観を得たものに過ぎなかった。そして形而上学は理性が考察しただけの幻想に過ぎないことになってしまった。
 もし彼が、ぼくたちの問題を普遍的なものとして考察していたなら、純粋な哲学を根底から覆す、こうした主張はけっしてするはずはなかった。なぜなら、彼の議論の先には純粋数学も存在し得なくなることに、気づくはずだからだ。純粋数学には、たしかに総合的なア・プリオリ命題が含まれているからなのだ。彼に優れた理解力があったなら、そうした主張から彼を守ることができただろう。

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 この問題が解決できれば、対象に関係する理論的なア・プリオリな認識を持つすべての科学の根拠を示すことも可能になるだろう。そして同時に、ぼくたちの考究では、純粋な理性の使用が可能となることも疑いない。それは、以下の問いに答えることだ。
 
 純粋な数学はどうしたら可能なのか?
 純粋な自然科学はどうしたら可能なのか?
 
 こうした科学の部門は、それが現にぼくたちに与えられて存在しているからは、どうしたら可能になったのかを問うのは、当然なことだ。なぜなら、そうした存在自体が、それが可能なことを証明しているからだ。
 しかし、形而上学については、今日までの進歩がとても緩慢なだった。だから、形而上学の本質的な目的も、他の科学のようにこれまでに明確に提示されたとはいえない。そのために現に主張されている事柄で形而上学が、じっさいに存在してるとも言うことができない。こうした事実から、形而上学が可能なのかそうでないのかを、だれもが疑う十分な理由があるってことになるのだ。

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*純粋な自然科学にたいしては、その存在が現実的なものかどうか、それに疑問を持つ人も多いに違いない。けれども、(経験として観ることができる)適切な物理学の事象についての命題を調べていけば、その疑問は解消していくはずだ。たとえば、物質の量の持続性、慣性、作用反作用の法則など、物理事象として現れているいくつかの命題を検証することで、それが純粋(あるいは合理的)な物理学を構成していることがすぐに理解できるはずだ。その範囲が、狭いとか広いとか違いがあるにしても、独立した科学として確立される価値があると、多くが確信する結果になることは疑いない。

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