超訳 純粋理性批判 118 序説編 43 形而上学は自然な性向として、どんなふうにして可能なるのだろうか? これは、下記のように言いかえることができる。 純粋な理性が提起し、自分の欲求にたいして可能な限り答えようとする問いは、普遍的な人間の理性の本質からどんなふうにして生まれるのか?…

VI. 純粋理性の普遍的な課題(承前)
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一方ではこうした認識は、ある意味ではすでに与えられているとみる立場もある。だから、形而上学が科学でないといわれてもしかたない面もある。しかし、自然な素質(自然の形而上学)としては実在しているとは言えるのだ。言うまでもないが、人間の理性って言うものは、自分の欲求に駆り立てられるものだ。だから理性は、知識を増やそうとする欲求を、虚栄からでなく、理性の経験的な使用やそこから導き出される原理では答えられない問いへと必然的に進んでいくのは、とうぜんなことなんだ。
こうした事実に注目すれば、理性が自身の中で思弁へと拡大する限り、すべての人間の中には何かのスタイルとして形而上学が常に存在することになる。そしてこれは、今後も常に存在し続けるはずだ。そうしてここに下記の疑問が、生まれることになる。
形而上学は自然な性向として、どんなふうにして可能なるのだろうか?
これは、下記のように言いかえることができる。
純粋な理性が提起し、自分の欲求にたいして可能な限り答えようとする問いは、普遍的な人間の理性の本質からどんなふうにして生まれるのか?
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ここに掲げたのは、自然的な問いと言える。なぜなら、以下の自然な疑問と類を同じくしたものだからだ。
世界には始まりがあるのか?
そうではなく、永遠の昔から続いてきたものなのか?
こうした自然的な問いに答えるために、これまでも多くの試みはあったけど、そのどれも必然的に矛盾を露呈して、答えを導きだすことはなかった。そのために形而上学に対しては、たんに自然な素質、つまり理性の純粋な能力そのものに頼ることなんかできないってことが、現状の結論になってしまっている。
しかし、理性の純粋な能力からは、ある形をもつ形而上学(それが何であれ)が必ず生まれるのは事実なのだ。だから、反対に理性を使うことで、対象が認識できるか、できないか、それを決定しなければならない。つまり、問いの対象を確実な形で決定する、あるいは、それについて理性が何かを判断する能力の有無について、決定する必要がある。
以上のことから、純粋な理性を確実に拡張するか、または明確で確実な限界を設定することが、可能でなければならない。こうして、上記の一般的な課題から生まれてくる最後の問いは、とうぜんに次のようになるだろう。
形而上学はどんなふうにして科学として可能になるのだろうか?
