超訳 純粋理性批判 119 序説編 44 形而上学は、人間の理性にとっては、ほんらいの観点からも不可欠な科学だ。だからそこに生え伸びている芽や幹を摘み取ることはできたとしても、根こそぎにして無いものすることはできない。だからここで必要なことは、これまでとは、まったく違う新しい方法を使用することだ。それが形而上学という樹の新しい成長を促すことになる…

VI. 純粋理性の普遍的な課題(承前)
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つまり究極のところ理性の批判は、最終的に科学へと必然的に導かれる。そして批判を持つことなく行われる独断的な理性の使用は、まったく根拠がない主張につながっていくことになる。そうした根拠がない主張は、見た目にはもっともらしい主張と対立する結果を導く。そしてこのどちらも、究極のところ懐疑論に到達してしまうことになってしまうのだ。
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だが安心できるのは、科学としての理性の対象は、ぼくたちをうんざりさせるほどに、無限に様々な理性を扱うことはないことだ。つまりそれは、理性自身の存在に関係することで生まれる問題だけを扱うことから、広大で圧倒的な範囲を持つことなんかできないのだ。
それは理性が、理性自身と違った事物の性質からでなく、理性自身の性質で問題を提示するからだ。なぜなら、理性が経験の中で生まれる可能性のある対象については、前もって自身の能力を限界をよく知っていることで、すべての経験の限界を超えて試みるための理性の範囲と限界を、完璧かつ確実に決定することは簡単なことになると、想定できるからだ。
以上より、形而上学がこれまでに教条的(独断的に)に完成させようと試みのすべては、無効になったとみることになる。なぜなら、どの試みでも分析的な要素、つまり、ぼくたちの理性の中にア・プリオリに存在する概念をたんに解剖(分析)することは、ここでの目標ではないからだ。なぜならここで行う必要なことは、真の形而上学、つまりぼくたちのア・プリオリな認識を総合的に拡張するためのものであり、現段階はその準備に過ぎないからだ。
またその準備は、対象の概念に何を含んでいるかを、示すだけでしかない。だからそこでは、ぼくたちがどんなふうにア・プリオリにその概念にまで到達するかは、まったく問題でない、その到達した結果が、その概念について有効であり妥当なものかを決定できるかが、重要なんだ。また、その決定がありさえすれば、すべての認識の対象についての概念も決定することが可能になる。
そして、ここに到達する過程では、独断的な主張を放棄していくことにもなる。しかし、これは容易なことだ。なぜなら、そこでの自己否定は、わずかなものでしかないからだ。なぜなら、放棄がもっとも難しく観えるもの、教条的(独断的)な手続きで避けられなかった理性の自己矛盾は、かなり昔にすべての形而上学を無価値なものにしてしまっているからだ。
形而上学は、人間の理性にとっては、ほんらいの観点からも不可欠な科学だ。だからそこに生え伸びている芽や幹を摘み取ることはできたとしても、根こそぎにして無いものすることはできない。だからここで必要なことは、これまでとは、まったく違う新しい方法を使用することだ。それが形而上学という樹の新しい成長を促すことになる。その結果として、形而上学に繁栄と実りを与えることになるのは疑いない。だが、その過程では、形而上学が持つ内的な困難、外部からの抵抗に阻まれることも多いはずだ。だからぼくたちは、さらに多くの忍耐を必要としながら探求を続けていくことになるだろう。
