超訳 純粋理性批判 120 序説編 45 純粋な理性は、絶対的にア・プリオリに何かを知るための原理を含んでいる。そしてここから、純粋理性の機関(オルガノン)が、すべての純粋なア・プリオリな認識を獲得する。この機関のいっさいを、ぼくたちの考究に漏れなく適用していけば、その結果として、じっさいに実現可能な原理を体系としてまとめたものが、でき上がることになる…

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VII.純粋理性批判という名前で呼ばれる特別な科学の理念と分類
これまでに多くを語ってきたが、そのすべてを総合した結果として純粋理性批判と呼ぶことができる科学の構想が生まれてくる。なぜなら、ここでの理性とは、ア・プリオリな認識の原理を与える能力だ。だから、純粋理性とは、絶対的にア・プリオリに何かを知るための原理を含んでいる。そしてここから、純粋理性の機関(オルガノン)が、すべての純粋なア・プリオリな認識を獲得する。この機関のいっさいを、ぼくたちの考究に漏れなく適用していけば、その結果として、じっさいに実現可能な原理を体系としてまとめたものが、でき上がることになることは疑いない。
しかしこの試みは、かなり野心的なものであって、認識の拡張が、そもそも可能かどうか、また、どんな場合に可能になるのかは、まだ決定されてはいない。だから、純粋理性の体系を確立するための前段階として、純粋理性、その源泉と限界を評価するための予備的な作業として考察を行うことになる。こうした作業を純粋理性のための科学(学問)とは呼ばないで、たんに純粋理性批判と呼ぶことにしたい。これは思弁的な観点からは、じっさいに消極的なものであって、知識を拡張することはなく、理性を浄化して、誤謬に陥ることを防ぐことにはなる。それでもここで獲得できる成果は、ぼくたちには、とても大きなものと言っていい。
また対象そのものよりも、対象全般に関係する認識のすべてを、それがア・プリオリに可能である限りにおいて、ぼくは超越論的認識と呼ぶ。そして、こうしたものが集まってできる概念の体系を超越論哲学と呼ぶことになるだろう。しかし、これはこれからの作業の出発点としては広すぎると言わなければならない。なぜなら、そうした科学は分析的ア・プリオリな認識と総合的ア・プリオリな認識の両方を完全に包含しなければならないからだ。だからぼくたちの目的からすれば、その範囲は広すぎることになってしまう。ぼくたちに今の時点で必要なのは、ア・プリオリな総合の原理、それがなぜぼくたちの唯一の関心事となるのかを理解することにある。だから、全体として理解するためにも広い範囲からではなく、絶対的に必要な範囲のなかだけで分析を追求しなければならない。
この探求は、認識そのものの拡張を目的とはしていない。それよりも、いままでに誤謬が重ねられ不明確なっている形而上学の修正を試みること目的にしている。そのためにもここでは、すべてのア・プリオリ認識にたいして、価値があるのか、ないのかを的確に判断するための試金石を提供することを目的にしている。だから、ここで始める作業は、そのための準備と言っていい。そういう訳だからここで遂行することは教則的なものとしてではなく、超越論的批判と呼ぶことができるだろう。これこそが今、ぼくたちが最大の関心を寄せているものなのだ。
以上のことから、この批判は、機関(オルガノン)の準備となることを期待したものとなる。しかし、それが成功しなくても、少なくともその規範への準備とことは疑いない。その規範に従うことになれば、少なくとも純粋理性哲学の完全な体系(それが知識の拡張であろうと、たんなる制限であろうと)として、いつの日か分析的にも総合的にも(記述として)提示される可能性をもっている。
またこうした体系の完全な完成をじっさいに期待するにはためには、けっして過大な範囲を覆うこと期待してはならない。ここで対象となるのは。尽きることがないのはオブジェクトの本質ではない。必要なのはオブジェクトの本質を判断できる理解力なのだ。その理解力とは、そのア・プリオリなの認識に関してだけ、対象を構成することになる。またその対象は、外部に求める必要もないものであり、ぼくたから隠されたものでなく、どの観点から見ても、完全に確認が可能なものであり、その数も、適切な評価を受けるのに十分なほど限られたもののはずなのだ。
ここで期待することは、純粋理性の書籍や体系に対する批判ではなく、むしろ純粋理性そのものに対する批判なのだ。この批判を土台として初めて、この分野での新旧の著作の哲学的内容を評価する確かな基準が得られことになる。もしそうでなければ、無資格の歴史家や裁判官が、他者の根拠のない主張を、根拠がない自分の主張で判断することになってしまうだろう。
