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超訳 純粋理性批判 121 序説編 46 純粋理性批判は、超越論哲学を構成するすべての要素を含んだものとなる。だから、それは、超越論哲学の完全な理念となるものだ。しかしそれは、ここに至っても、科学そのものではない。なぜなら、ここでの記述はすべての分析に立ち入るわけではないからだ…

本文中の [nnn] 表記は、原書第2版のページ番号を示している

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VII.純粋理性批判という名前で呼ばれる特別な科学の理念と分類(承前)

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 ここで超越論哲学と呼んでいるのは、一つの理念と言ったほうがいい。それは、純粋理性批判の考究を体系にする建築作業としての、原理から設計の過程での、この体系を構成するすべての要素について、完全性と確実性を保証するための科学の理念なのだ。それこそが純粋理性のすべての原理の体系なのだ。
 そしてこの批判そのものを、超越論哲学と呼ばないのは、体系としては未完成だからだ。完全な体系となるためには、人間のすべてのア・プリオリな認識全体にたいして、詳細な分析を漏れなく含まなければならない。だから、ぼくたちの批判は、構想された純粋知識を構成するすべての基本概念の完全な列挙も提示しなければならない。しかし、こうした概念そのものの詳細な分析、さらにそこから派生する概念の完全な検討については控えたい。その理由は下記に掲げることから言って、とうぜんなことだ。
 第一の理由: そうした分析では、批判全体が存在する目的の総合で出あう疑念を欠いているから、適切なものでないからだ。
 第二の理由: そのような分析と派生の完全性に対する責任を負い、その目的からすれば合理的に免除できる責任を負い続けることは、分量が多くなる上に、目的を失う可能性もある。これでは最初の計画にあった総合に反することになる。
 さらに、分析の完全性と、これから与えれるア・プリオリな概念からの派生する完全性は、すでに総合の詳細な原理として利用可能になっている。だから、本質的な目的について欠けたものが、まったく無ければ、いつでも容易に補うことができるものなのだ。

[028]
 以上から判るように『純粋理性批判』は、超越論哲学を構成するすべての要素を含んだものとなる。だから、それは、超越論哲学の完全な理念となるものだ。しかしそれは、ここに至っても、科学そのものではない。なぜなら、ここでの記述はすべての分析に立ち入るわけではないからだ。『純粋理性批判』の記述の範囲は、ア・プリオリな総合的認識の完全な評価を遂行するために必要な個所に限っているからなんだ。

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