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超訳 純粋理性批判 122 序説編 47 人間の認識には二つの分野(幹ともいえる)がある。それは、感性と理解力であり、感性を用いることでオブジェクト(対象)が与えられ、理解力を用いればオブジェクトにたいして思考が展開される。人間の認識にオブジェクトが与えられる条件は、オブジェクトが思考される多くの条件に先行するもの…

本文中の [nnn] 表記は、原書第2版のページ番号を示している

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VII.純粋理性批判という名前で呼ばれる特別な科学の理念と分類(承前)

[028]
 以上から判るように『純粋理性批判』は、超越論哲学を構成するすべての要素を含んだものとなる。だから、それは、超越論哲学の完全な理念となるものだ。しかしそれは、ここに至っても、科学そのものではない。なぜなら、ここでの記述はすべての分析に立ち入るわけではないからだ。『純粋理性批判』の記述の範囲は、ア・プリオリな総合的認識の完全な評価を遂行するために必要な個所に限っているからなんだ。
 この『純粋理性批判』で科学の区分(分類)を遂行するときに、もっとも注意しなければならないことがある。それは、少しでも経験的な要素を持っているような概念を、いっさい含めないことだ。さらには、ア・プリオリな認識も、完全に純粋なものでなければならない。
 こうした前提のもとで行われる科学の区分には、道徳の最高原則やその基本概念を含めることはない。こうしたものは、ア・プリオリなものであっても、超越論哲学には属さないものだ。なぜならそこでは、ある概念から、多くの不随した概念が、新たに生まれてくるからだ。快楽と不快感、欲望と傾向など、すべてア・プリオリな起源を持つ概念であっても、それがすべての概念の基礎としては、確定していない。
 たとえば、義務という概念では、克服しなければならない障害、あるいは抑制しなればならない内的な動機(動因)、こうしたものは純粋な道徳体系の定式化で必然的に組み込んで行くものであって、超越論哲学の対象としてはならない。
 超越論哲学は、純粋に思弁的な理性が思惟する世界の知恵なのだ。そこでは、実践的なものはふくいまれない。なぜなら、実践的なものは動機を持つものであり、すべては人間の感情に関係しいるからだ。つまり、感情は経験的な認識に源泉に属するものだから、超越論哲学の対象とはなることができないってことなんだ。

[029]
 そこで、『純粋理性批判』の区分を、普遍的な科学の体系という観点から区分しようとするならば、下記の二つの分野に区分して扱うことになる。
 第一は、純粋な理性の原理論
 第二は、純粋な理性の方法論
 またこの分野のそれぞれで、さらに細分化したものに言及していくことになるが、その理由はここではまだ説明できない。
 ただし、次の点では、導入としての序論、もしくは予備的なものとしてのまえおきが必要と思う。
 人間の認識には二つの分野(幹ともいえる)がある。それは、感性と理解力であり、感性を用いることでオブジェクト(対象)が与えられ、理解力を用いればオブジェクトにたいして思考が展開される。
 ただこれだけのことなのだが、感性にオブジェクトが与えられる条件をかたち作るア・プリオリな表象を含む限りにおいて、それは超越論的哲学に属するものとなる。そして、感性の超越論的な論証は、基礎科学としての原理論の最初の部分に属することになる。なぜなら、人間の認識にオブジェクトが与えられる条件は、オブジェクトが思考される多くの条件に先行するものだからなのだ。

 ※ 今回で序説編は終了となる。以後は、超越論的原理論となるわけだが、これについては、本連載の冒頭で、すでに記載している。理由は序文や序論を読む前に、空間と時間の概念、および存在について触れておくほうが理解を容易くすると考えたからだ。
 その超越論的原理論の第一回について、そのリンクを下記に掲載している。

超訳者附言

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