超訳 純粋理性批判 123 超越論的原理論編 76 一般論理学とは異なって、超越論的論理学は、特定の内容、すなわち純粋なア・プリオリな純粋な認識に限られている。そのために、その区分を明らかにする場合に、一般論理学と同じ方法を用いることはできない。それは、理性についての超越論的な使用は。客観的には、すべて妥当していないからだ。つまり、超越論的論理学は、真理の論理でもなく、分析論には属さないことが明らかなものだ...

前回、序説編を終えた。しかし、今回はそれに続くものではない。理由があって、以前に超越論的原理論編を、途中で終えている。今回はそこから続くものとなる。参考のために、下記にそのページのリンクを貼っておく
第二部 超越論的分析論
原則の分析論
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一般論理学は、高度の認識能力の区分に正確に対応するスタイルの枠の上に構築されている。高度の認識能力とは、理解、判断、そして理性を指している。だから、一般論理学での分析についても、概念、判断、そして推論の分析を対象にする。この要因は、広い意味での「理解」というスタイルで一般的に広く捉えられている。これが、人間の心を表わすものとしての、精神的な能力の機能と秩序に表すものとして、正しい方向を目指すことは明らかだ。
一般論理学といわれるのは、たんに形式(スタイル)に従った論理学で、認識については、それが、純粋なものか、経験によるものかを、区別することはない。つまり、一般論理学では、すべての対象を抽象して、認識の内容(純粋か経験的かに関係なく)を取り扱うことになる。形式的とも呼ばれるのは、ここに所以があると言っていいだろう。
こうして、一般論理学は、思考の形式(言説的知識)一般だけを扱うため、その分析的な部分には、理性の規範も含めることを可能にしている。そして、その形式には確実な規定があり、使用する認識の特定の性質を考慮することなく、理性の行為の瞬間の要素に分解することも可能なのだ。その結果は、ア・プリオリなものとして、演繹的に理解できる。
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一般論理学とは異なって、超越論的論理学は、特定の内容、すなわち純粋なア・プリオリな純粋な認識に限られている。そのために、その区分を明らかにする場合に、一般論理学と同じ方法を用いることはできない。それは、理性についての超越論的な使用は。客観的には、すべて妥当していないからだ。つまり、超越論的論理学は、真理の論理でもなく、分析論には属さないことが明らかなものだ。それよりも、現象の論理学として、超越論的弁証論と呼んでいいものなのだ。したがって、超越論的論理学は、スコラ哲学の思想体系の特別な部分を占めるものとして、観ることができる。
[170]
こうして、理解力と判断力は、超越論的な論理学では、客観的に妥当として、その規準(カノン)を持つことになる。理解力と判断力を、真実のために利用すること目的としたこの規準(カノン)は、超越論的な論理学に含まれるもので、この考察は、超越論的な論理学を分析論で試みることになる。しかし理性が、対象についてア・プリオリに決定しようとすると、弁証論が登場してくる。つまり認識が、可能な経験の限界を超えて拡張を試みると、完全に弁証論的なものになるのだ。つまり、理性が主張するのは、仮象に過ぎない。だから、その主張は、分析的な論理が含む基準には、当てはまることはない。
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以上から、この原則の分析は、判断力にとっての規準となるものであり、その規準は、ア・プリオリな諸規則のための条件の基準を対象とすることなる。その条件とは、理解力の概念を現象に適用することを、判断力に教えるものだ。こうしてぼくは、理解力の実際の原理を主題にすることで、これを「判断の理論」という呼ぶことにした。この結果、これから先の課題をより明確に特定して示すことが可能になるに違いない。
