今岡愛理という人から手紙が来ていた。 ご無沙汰しています。以前は先生と佐伯義道の部屋で何度か会いましたね。佐伯先生の恋人だった人だ。住所は書かれていなかった… 再編 不器用な先生 第151回
九月十九日(火)
文理出版経由で今岡愛理という人から手紙が来ていた。
心当たりがない名前だ。
ぼくの本を買ってくれた人のようだ。
次のように書かれていた。
楽しく読ませていただきました。
ご無沙汰しています。
以前は先生と佐伯義道の部屋で何度か会いましたね。
わたしは今も佐伯を胸に抱きながら生きています。
その後は、祖母の描写に涙が零れたとも書かれていた。
佐伯先生の恋人だった人だ。住所は書かれていなかったが、消印を見ると横浜のようだ。
調べれば分ると思うが、果たして訪ねていくべきなのか考え込んでしまった。住所を書かなかったのは、今の生活に波乱を起こしたくないと思っているのかもしれない。
あのころ二十代後半だったから、まだ五十代前半のはずだ。
逢いに行きたくてしかたなかった。あの本は、佐伯先生の気持も含まれているんだから。
彩もその手紙を読んでいた。
「ご迷惑でなかったら、わたしも逢ってみたい」
「文理出版に住所を調べてもらったら、連絡してみるよ。
手紙をくれたからには何か話したいと思ってるんだろうけど、躊躇って住所を書かなかったんじゃ、ないだろうか?」
九月二十日(水)
ゼミナール
前回までは学生たちが分担でホワイトボードに書いていたが、今回はプリントが配られた。
幸太郎の提案で各人が書き写したものを、一つにしたものらしい。
確かにこれだけの量をホワイトボードに書くのは大変だ
空間および時間は物自体に属する性質として現実的に存在しているかのような考えをまだ捨て切ることのできない人は、自分の明敏さを次のような逆説について習練してみるがよい、そしてこの逆説を解決する試みがうまくいかなかったら、少なくともここ暫くはこれまでの成見を捨てて、空間および時間を我女の感性的直観の単なる形式に格下げするのには、それ相当の根拠があるのではなかろうか、というふうに考え直してみるがよい。
ここに二個の物があり、そのおのおのについておよそ認識され得る限りのすべての部分を較べ合せても(量および質に属するいっさいの規定において)なんら差異を認め得ないとすれば、一方のものをあらゆる場合と関係とにおいて、他方のものに置き換えることができるし、またこの置き換えは、およそ識別され得るほどの差異をまったく生ぜしめないであろう、と結論せざるを得ない。実際にもこのことは、幾何学の平面図形においてはまったくその通りである。しかし球面図形となると、内的には互に完全に一致するにも拘らず、外的関係においては差異が生じ、一方の図形を他方の図形に置き換えることのできない場合がある。例えば、地球の赤道の弧を共通の底辺とする両半球上の二個の球面三角形は、辺や角については完全に相等しいから、これらの三角形をおのおのそのあらゆる部分において完全に措くならば、一方の三角形の図形にあるもので、同時に他方の三角形の図形に見出せないものはーつもない筈である。それにも拘らず一方の三角形を他方の三角形の位置(すなわち対置された半球上の)に置くことはできない。この二つの三角形のあいだには、悟性が内的差異として指摘し得るようなものは何ひとつ見出せない、それだから両者の相違は、まったく空間における外的関係によってのみ明らかにされるのである。だが私は、日常生活から得られるもっと普通の事例を取上げてみたい。
