形而上学的な判断は、すべて総合的なものだ。ぼくたちは形而上学に関連する判断を、本来的な形而上学的判断と区別しなければならない…科学が最終的に目的とするのは、常に総合的なものでしかない… 連載 超訳プロレゴメナ 158 本編23
第2節(承前)
形而上学的な判断は、すべて総合的なものだ。ぼくたちは形而上学に関連する判断を、本来的な形而上学的判断と区別しなければならない。
前者(関連するもの)の多くは分析的ではあるが、科学の目的である形而上学的な判断に手段を提供しているだけでしかない。科学が最終的に目的とするのは、常に総合的なものでしかない。それは、形而上学に関連する概念(たとえば実体に関する概念)が存在する場合、それらの単純な分析から生じる判断も形而上学に属していることによる。
「実体とは主体としてのみ存在するものである」などの判断も、当然にして形而上学に属している。そして、こうしたいくつかの分析的判断によって、ぼくたちは概念の定義に近づこうとする。
しかし、形而上学に関係する理解の純粋な概念の分析は、形而上学に関係しない他の概念、さらには経験的な概念(たとえば、「空気は弾性流体であり、弾性は知られているだけの寒気で破壊されることはない」などの)は、分析的判断ではなく、本来は形而上学的であることに気づかねばならない。
この科学は、ア・プリオリな認識の生成で特殊なものを持っていて、それが他の合理的な理解力の知識と共通するものを区別されねばならないのだ。こうして「事物で実体をもつものは持続的である」という命題が、総合的で適切な形而上学的な命題と、確実に言えることになる。
形而上学を構成する素材としてア・プリオリな概念を、ひとつの原理に従って収集されていれば、その(概念の)分析は非常に価値のあるものとなるだろう。
それは、形而上学に関係する分析的判断のみを含む特定の部分として(明確に定義された哲学として)、形而上学そのものを構成する総合的な命題とは区別して、書き記されることもあるだろう。
実際にこれらの分析は、形而上学において顕著な効果を発揮する。すなわち諸概念から生成される総合的命題に役立つものであり、その他で価値あるものとなることはない。
ここである結論が得られた。
形而上学の究明の主たる目標は、ア・プリオリな総合的な命題にある。この命題だけに適切に関与することが、形而上学の目的を達成できる。
目的の達成には、形而上学の実際の概念、その分析と分析的判断が求められる。そこではさまざまな分析が必要となるが、その手順は ぼくたちがただ分析によって概念を明確に表現しようとする他のあらゆる方法と何ら変わるとこはない。
だが哲学的認識におけるア・プリオリな総合的な命題を導き出すものは何なのか。それは直感や概念だけでなく、その基となるものを具体的なイメージを背景にしたア・プリオリな認識を考えることに尽きるだろう。そうすることだけが、形而上学の本質的な主題を構成するのだ。
それだから、ぼくたちに何も教えない独断論にも、解明できないのを疑うだけで先に進もうとしない懐疑論と同様に、うんざりさせられている。
懐疑論は無知であることの安らぎすら約束しない。ぼくたちがとくに必要とする認識の重要性を教えてはくれない。ぼくは懐疑論の存在に不安さえ感じている。
ぼくたちが持っていると確信している科学、純粋な理性のもとに提示する科学について、ここまでの長い出来事が疑わしいものにしてしまっている。
だがぼくたちは、ただ一つの問い、批判的な問いが残っている。この問いに答えることが、今後の科学のあり方を決定づけると、ぼくは考えるのだ。その問いは下記のように現わせる。
形而上学は何なのか? それは可能なものなのか?
(ぼくたちは、その存在することさえ認めてないが)この答えは、とうぜんにして懐疑論からは生まれはしない。現状の不明確な形而上学に対する懐疑ではなく、この科学に対する、ある実在の概念から答えを求めなければならない。
