考えるということは、判断すること、あるいは表現を判断一般に参照することと同じものだということを受け入れられるだろう。だから判断は、表象がただ一つの主体における意識に言及し、それに統一されている場合には単に主観的であるか、または表象が意識一般に統一されている場合、つまり必然的に客観的であるかのどちらかになる。 すべての判断の論理的機能は、意識における表現を統合するさまざまな様式にすぎない… 連載 超訳プロレゴメナ 332 本編54
第22節
ここでの問題を要約すると、次のようになる。
感覚の仕事は直観することであり、理解の仕事は考える、つまり思考することにある。思考とはいくつかの表象を一つの意識として結合する意味を持っている。
この結合はたんに主体に対して相対的なものであって、偶然的で主観的なものであるか、あるいは絶対的であり、必然的または客観的なものであるかのいずれかとして生まれたものであって一つの意識における表象の結合が判断を示している。
したがって考えるということは、判断すること、あるいは表現を判断一般に参照することと同じものだということを受け入れられるだろう。だから判断は、表象がただ一つの主体における意識に言及し、それに統一されている場合には単に主観的であるか、または表象が意識一般に統一されている場合、つまり必然的に客観的であるかのどちらかになる。 すべての判断の論理的機能は、意識における表現を統合するさまざまな様式にすぎない。しかし、もしそれが概念として機能するのであれば、それは意識における必要な結合の概念であり、客観的に妥当な判断の原則となる。意識でのこの結合は、同一性による分析的なもの、またはさまざまな表現を互いに組み合わせたり追加したりする総合的なものなのだ。 経験にはこの結合が続が必要であり、意識における現象(知覚)の総合的な結合で構成される。
そういうことだから、純粋な理解の結果としての概念とは、すべての認識が経験の判断に役立つように仕組まれた概念でなければならない。この結果、認識での総的に統一されたものが、普遍な形で表されていることを、君たちは観ることになる。
しかし、経験の判断には認識の統合における必然性が含まれているというこの命題は、「事後的な認識としての経験は偶発的な判断しか与えられない」、以前からぼくの発言として何度も書いてきたこれと、どう一致するだろうか?
「経験がぼくたちに何かを教えてくれる」とぼくが言うとき、それは経験の中にある認識だけを意味している。たとえば、石に太陽が当たるとそこに熱が生まれるというような状態を指している。したがって、経験の命題は常に偶然に過ぎない。
太陽の輝きに必然的に熱が伴うことは、確かに(原因の概念による)経験の判断に含まれているが、経験によって学習されたものではない事実である。逆に経験はまずこの概念の追加によって生成されるものだからである。
知覚がどのようにしてこの追加を達成するかは、『純粋理性批判』の判断力の超越論的論理に関する箇所(第2版176ページ以降)を読んでもらいたい。それで君たちの理解が進むのは間違いないはずだ。
