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プロレゴメナが『純粋理性批判」とは異なり教育的な見地に立っていることが伺える 連載 超訳 プロレゴメナ 92 プロローグ編 17

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 序説も終わりに近づくにつれてその文章が、確信的なものに変わった感がある。概念の演繹の結果を総集したカテゴリー表を、頭に浮かべてここを書いたに違いない。そして『批判』が確立した解析法が語られ始める。

 しかし、その前に以前の解析法がいかに不完全だったことにも触れている。とつぜんにカントの解析法を語るよりも、比較することでその優位性が明確になると判断したに違いない。
 カントの自負心が垣間見えて興味深いところだ。

 純粋理性の批判よりも前に先行して行われた単なる計画は、以下のように不適切なものとなっているはずだ。理解できない。信頼できない。役に立たない。だが純粋理性の批判の後に続くのであれば、それは有益なものになるだろう。なぜなら、純粋理性の批判によって、全体を概観し、この科学において重要な主要点を一つひとつ検討できて、本格的な研究の準備よりも、さらに整理できる立場にいるからだ。

 第93回 本編14

 さらに、一つの科学を確立するための手順をも語られる。ここにプロレゴメナが『純粋理性批判」とは異なり教育的な見地に立っていることが伺える。

『批判』自体は総合的な方法にしたがって構成される必要があったが、ここでいう計画は、分析的方法にしたがっている。科学がそのすべての関節を手足の構造として理解できるように、『批判』自体が合成方法に従って構成する必要があった。非常に特別な認識能力によって、自然にそのつながりの視覚化が可能になる。

 第93回 本編14

 どの科学も形成された結果は総合的なものとなる、そうでなければ科学とは言えない。しかし、形成以前の段階では、始めから総合的であることは不可能なだ。対象の科学に関連する種々の事項・事象について細かい分析を行なっていなければ、それは不可能なことなのだ。
 これは科学を志向する者には、とうぜんにして所持していなければならないものだ。
 
 この分析から総合の過程を、『純粋理性批判』の完成のために、概念の演繹ら始めれたと、ぼくたちは観なければならない。

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