暗中模索でなく、先には明快な立証が提示されることを確信するには、今の段階でもその予見を、見出していく作業、考察が必要なのでないか?… それは、結果として独りよがり終わるものかもしれない。しかしこの思考の探求こそが、カントがぼくたちに求めているのものではないだろうか… 連載 超訳プロレゴメナ 296 プロローグ編49
改めて17節に眼を通していると、カントにとって自然とは、ぼくたちを囲む自然、自然環境と言っていいだろうか? その範疇を超えたものではないかとさえ思えてくる。だから、自然科学もある意味では狭い領域のものでしかないのかもしれない。
それは経験を通しながらも、多くの事象を分析して抽象化した物から、けっして誤謬にならないものを、総合していった果てに地上してくるものを示しているのではないか?
しかし、プロレゴメナでの「自然」に関係する記述は、39節までつづくことも配慮しなければならない。いまは、まだ17節に進んだだけにすぎない。
さらに、分析結果を総合し、誤謬がないものでの体系を確立するには、弁証論の作業も必要となる。
そのためには、アンチノミーの構造の理解も必要であり、テーゼ/アンチテーゼを基にした、真理への近接が必要となる。
しかし、プロレゴメナでアンチノミーが登場するのは、43節以降であり、テーゼ/アンチテーゼは51節以降だ。
だから、いまの段階では、それを突き詰めても意味がないことはたしかなことではある。
しかし、暗中模索でなく、先には明快な立証が提示されることを確信するには、今の段階でもその予見を、見出していく作業、考察が必要なのでないか?…
その意味でも、17節の最後にある下記は、その将来を予測しているようにさえ、ぼくには思えてならないのだ。
ぼくが言っていることは、(経験を通じて)どのようにして自然法則を研究できるかということではない。これらは先験的な法則ではないのだから、純粋な自然科学をもたらしはしない。
それに対して、経験の可能性というア・プリオリな条件こそが、すべての一般的な自然法則がそこから導き出さす源にほかならない。
経験と、ア・プリオリとは、互いを背反していないだろうか? それでもカントは「経験の可能性というア・プリオリな条件」を、衒うことなく書き表している。
これを、今のぼくたちの限界のなかでも、問い詰めていくことが、これからの道を暗中模索にしないのではないか?
それは、結果として独りよがり終わるものかもしれない。しかしこの思考の探求こそが、カントがぼくたちに求めているのものではないだろうか…
