見出し画像

ここにくるまでに、分析や総合、哲学と数学の関係などの触れてきました。それがぼくたちの、ここまでの思考を礎を築いてきたことを考えると、先に進むよりも振り返ることも多くなるとも考えれます… 連載 超訳プロレゴメナ 252 読書会170

251

 第24回目の読書会が、2019年2月23日(土)に、開催されました。今回は、Zoom使った3度目の読書会です。

 今回は、第13節の補足2を中心にディスカッションしていきたいと思います。けれども、この箇所だけを対象にすることもないと思われます。
 ここにくるまでに、分析や総合、哲学と数学の関係などの触れてきました。それがぼくたちの、ここまでの思考を礎を築いてきたことを考えると、先に進むよりも振り返ることも多くなるとも考えれます。
 それは、この読書会の主旨から言ってとうぜんなことなのです。決して先に進むことでなく、今のいま、ぼくたちは、確信しているものは何なのか、それを自信をもって振り返ることができるまでは、先に進むこともないからなのです。
 でも、じっさいには先に何が潜んでいるかにも興味が尽きないことも事実ですけれど…
 どこかで聞いた言葉に「一歩前進、二歩後退」ってありましたけど、それがこの読書会を端的に顕した言葉なのかもしれません。

曽根康夫:
 この補足2からは、「観念論の論駁」に似たものを感じませんか?

前島幸太郎:
 カントが『純粋理性批判』第二版で新たに「観念論の論駁」を追加したのは、ここを書いていた時に浮んだ構想を、さらに詳細に書く必要を感じた結果なのだと、ぼくは思っていますけど…

牧野照邦:
 その通りだと思いますよ! カントがプロレゴメナを書いたことじたいが、周囲の無理解への反駁とに、形而上学に潜んでくる浅墓な考え方を、駆逐する必要を強く感じたからだと、ぼくは確信しています。

須田隆雄:
 この文章なんか、なにか通俗的な観念論にたいしての憎しみさえ髣髴させるんじゃないですか?

 前提となるのが、思考するだけで、ぼくたちの直観で知り得たものだけを信じている状態だ。それに属さないものは、思考での存在の表現にすぎず、実際にはそれらは外部に対応可能な対象は存在していない。
 ぼくが言っていることは、これとは全く違う。

第251回 本編42

桐川夢見:
 それに続いたところで、人間の認識の限界と、じっさいの認識の方法に触れているんですね。

 ぼくたちの感覚の対象としての物体は与えられているが、ぼくたちはそれらが、それ自体がどのようなものかは、何も解ってないし知ってもいない。知っていることは物体の外見、それがぼくたちの感覚になにがしかの影響を与えていることで、ぼくたちの中にそれが引き起こす表象を知っているだけにすぎない。当然にしてぼくたちの外に物体があることを、ぼくも認める。そしてそれ自体が何であるかは、ぼくたちはまったく知らないが、その表象がぼくたちの感性にある影響を与えていることを知っている。この表象を物体とぼくたちは呼んでいるが、ぼくたちにとっては未知の物の外観を単に意味する用語すぎない。だがそれこそが現実の対象を意味するものなのだ。
 これを観念論と言えるだろうか? まったく反対の考えではないか。

第251回 本編42

山際このみ:
 そうだね! これって、先生も強く実感してたとこって思うよ…

253

いいなと思ったら応援しよう!