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ぼくたちの感覚の対象としての物体は与えられているが、ぼくたちはそれらが、それ自体がどのようなものかは、何も解ってないし知ってもいない。知っていることは物体の外見、それがぼくたちの感覚になにがしかの影響を与えていることで、ぼくたちの中にそれが引き起こす表象を知っているだけにすぎない… 連載 超訳プロレゴメナ 251 本編42

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第13節 補足2

 ぼくたちに対象として与えられるものは、そのすべてが直観で与えられなければならない。しかし、ぼくたちの直観はすべて感覚が行う仕事なのだ。それは理解されたものではなく、表象の反映でしかない。知覚として確立したものがある訳でもない。
 さらにぼくたちは物を、それ自体として知ることもできない。感覚は単なる現象としてだけ物自体を知っているに過ぎない。ぼくたちを取り囲むこの空間とともに、そこに存在する物体に関しても、ぼくたちの中にある単なる表象だと考えなければならない。
 物体も空間も、ぼくたちの思考の中だけに存在するものなのだ。この表現に対して、君たちのなかにこう言う者もいるだろう。
 それは隠れもなく観念論じゃ、ないのかい?

 観念論の主張を端的に表すと、下記のようになるだろう。
 前提となるのが、思考するだけで、ぼくたちの直観で知り得たものだけを信じている状態だ。それに属さないものは、思考での存在の表現にすぎず、実際にはそれらは外部に対応可能な対象は存在していない。
 ぼくが言っていることは、これとは全く違う。
 ぼくたちの感覚の対象としての物体は与えられているが、ぼくたちはそれらが、それ自体がどのようなものかは、何も解ってないし知ってもいない。知っていることは物体の外見、それがぼくたちの感覚になにがしかの影響を与えていることで、ぼくたちの中にそれが引き起こす表象を知っているだけにすぎない。当然にしてぼくたちの外に物体があることを、ぼくも認める。そしてそれ自体が何であるかは、ぼくたちはまったく知らないが、その表象がぼくたちの感性にある影響を与えていることを知っている。この表象を物体とぼくたちは呼んでいるが、ぼくたちにとっては未知の物の外観を単に意味する用語すぎない。だがそれこそが現実の対象を意味するものなのだ。
 これを観念論と言えるだろうか? まったく反対の考えではないか。

 外部の事物の実際の存在を損なうことなく、多く人たちがそれらを述語として語ることができている。この事実は対象の事物に属しているのではなく、事物の表象(現象)にのみ属しており、ぼくたちはその表象の外にはどのような固有の存在も持ってはいない。
 これはロックの時代よりも前から受け入れられていた考え方であり、ロック以降では一般に受容されたものになっている。熱、色、味などがこれに該当している。そして重大な理由から、ぼくがさらにここに踏み込んで、延長、場所、一般的に空間など、主要と呼ばれる物体の残りの性質も、それに属するすべてのもの(不可侵性または物質性、 スペースなど)をも単なる表象(現象)に加える。これを容認できない人がいたとしても、その人たちは、不承認の根拠を語ることはできないだろう。
 色が物体それ自体の特性ではなく、視覚の変容と認める人は観念論者と呼ばれることを嫌っている。ぼくの考え方も同じように、観念論と呼ぶことはまったくできないのだ。
 身体の直観を構成する性質は、単にその外観に属するだけである。それによって、現れる存在は、本物の観念論のように破壊されるのではなく、それ自体をそのままでは感覚によって知ることは不可能なことが示されるだけだ。

 ぼくの主張が観念論でないとするためには、どういうものでなければならないか。ぼくは知りたいとは強く思う。
 空間の表象は、間違いなくぼくたちの感性が対象に対して持つ関係に完全に一致している。これはすでにぼくが言ったことだ。さらにその表象は空間の概念そのものであると主張すべきかもしれないが、これに意味を持たせるのは不可能だ。
 ぼくの想いつきで、赤の感覚が朱色の賢者の石の性質に似ている、と言うのと同様で、まったく意味がないことなのだ。

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