人間の認識対象としての物体は、オブジェクトとして与えられはしているが、それ自体がどんなものなのかは、人間はまったく判っていないし知ることさえできない。しかし、それが人間の感覚に何かを与えているらしいことだけで、対象のオブジェクトの存在を認めるのが、人間の認識での世界観の礎となっている… 連載 超訳プロレゴメナ 250 プロローグ編 39
補足2の後半の叙述、後に『純粋理性批判』第二版で、新しく追加することになる「観念論の論駁」のほうがと言っていいものが観えている。
カントが「コペルニクス的転回」として展開したものは、オブジェクトの現象としての表象から捉えた世界観を、空間や時間に適用したものと言ってもいい。
そこには、オブジェクトの実体を、人間は認識できないとする基本姿勢がある。だから、表象にたいして感性だけで、もの事を総合として捉える姿勢は、観念論に分類されても、間違いとは言えないことになるだろう。しかし当時、カントが自分の周囲で観ていた観念論と思わしきものは、けっして空間や時間の及ぶような世界観を持ったものなかった。だから、カントは補足2で、以下のように書いたわけだ。
観念論の主張を端的に表すと、下記のようになるだろう。
前提となるのが、思考するだけで、ぼくたちの直観で知り得たものだけを信じている状態だ。それに属さないものは、思考での存在の表現にすぎず、実際にはそれらは外部に対応可能な対象は存在していない。
ぼくが言っていることは、これとは全く違う。
そして、この説明として登場するのが、また「コペルニクス的転回」と言えるものだ。
人間の認識対象としての物体は、オブジェクトとして与えられはしているが、それ自体がどんなものなのかは、人間はまったく判っていないし知ることさえできない。しかし、それが人間の感覚に何かを与えているらしいことだけで、対象のオブジェクトの存在を認めるのが、人間の認識での世界観の礎となっている。この事実が、曖昧かもしれないが反論も出来ないものであり、けっして疑うことはでないのだ。
そして補足2は、下記で結ばれる。
空間の表象は、間違いなくぼくたちの感性が対象に対して持つ関係に完全に一致している。これはすでにぼくが言ったことだ。さらにその表象は空間の概念そのものであると主張すべきかもしれないが、これに意味を持たせるのは不可能だ。
ぼくの想いつきで、赤の感覚が朱色の賢者の石の性質に似ている、と言うのと同様で、まったく意味がないことなのだ。
つまりは、実体を認識できない人間としてのぼくたちは、この世界観にたいしても意味を持たせることはできはしない。それでも、世界を観測していくこともけっして不可能ではないと言っていいことになる。
