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ぼくたちの周りのオブジェクトが実体として、ぼくたちにその存在を明らかにしているのではない。またぼくたち自身も、オブジェクトから、直接得るものはない。ぼくたちの感性がオブジェクトにたいしてもつ現象として、形態をオブジェクトそのものようにとることで、あたかも、まわりにオブジェクトが実体として存在しているような状態の中にいるといっていい… 連載 超訳プロレゴメナ 249 プロローグ編 38

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 空間や時間は人間が考えるからこそ存在することが、ここまでで秋からにされてきた。またそれを、カントは「コペルニクス的転回」にたとえて、判りやすく説明してくれた。ぼくたちの周りのオブジェクトが実体として、ぼくたちにその存在を明らかにしているのではない。またぼくたち自身も、オブジェクトから、直接得るものはない。ぼくたちの感性がオブジェクトにたいしてもつ現象として、形態をオブジェクトそのものようにとることで、あたかも、まわりにオブジェクトが実体として存在しているような状態の中にいるといっていい。
 現象を捉えて実体の存在を認識することになるが、これは幻想ではない。人間の感性が捉える、オブジェクトの現象は、追求し拡張し総合していくことで、オブジェクトそのものに、かぎりなく接近していき事が可能なものものだ。
 なぜなら、物体も空間も、ぼくたちの思考の中だけに存在するものだからだ。

 第13節の補足2の冒頭は下記のように始まる。そこにはカント特有の言い回しも含まれているが、編纂者は上で言ったことと、まったく同じものと言っていい。

 ぼくたちに対象として与えられるものは、そのすべてが直観で与えられなければならない。しかし、ぼくたちの直観はすべて感覚が行う仕事なのだ。それは理解されたものではなく、表象の反映でしかない。知覚として確立したものがある訳でもない。
 さらにぼくたちは物を、それ自体として知ることもできない。感覚は単なる現象としてだけ物自体を知っているに過ぎない。ぼくたちを取り囲むこの空間とともに、そこに存在する物体に関しても、ぼくたちの中にある単なる表象だと考えなければならない。
 物体も空間も、ぼくたちの思考の中だけに存在するものなのだ。この表現に対して、君たちのなかにこう言う者もいるだろう。
 それは隠れもなく観念論じゃ、ないのかい?

第249回 本編

 上記の引用が興味深いのは、カントの考え方が当時ではマイノリティだったことを、教えてくれることだろう。
 もっとも、ものを深く考えない人間が多い状況では、哲学の本道も形而上学も、マイノリティから、脱することじたいが不可能とさえ思うことも多い。

 この補足2では、カントは自分が観念論者でないことを強く自覚していたように観える。それが当時としては、カントをマイノリティにしていたのでないかとも思われる。ここで観られるカントの主張は観念論にたいする侮蔑ともとれるのだ。観念論とは、カントにとっては、思考した結果から直観が捉えたものだけを信じているだけの小児病的な姿勢を指してものであり、とうていカントが受け入れることができないものだった。しかしそれが、当時のカントを取り巻く風潮でもあった。ときおりカントが、大衆的な興味に触れることあるが、それはこうした内容を含んだ侮蔑的表現と観るべきものだろう。

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