ぼくたちは、じぶんの頭でまず考え判断しなければならない。そして、じぶんで考え判断することに、苦悩するぼくたちを観ながらカントは、ほくそ笑んでいるのではないだろうか。それに間違いないと思いながらも、繰り返し読んでいると、人間の可能性に大きな期待しているカントも観えてくる… 連載 超訳プロレゴメナ 337 プロローグ編 56
第21節で、カテゴリー表が登場したが、それは項目を列挙したものに過ぎなかった。これを、じっさいにどう使っていくのかは、ほとんど書かれていない。第22節にその解説でもと、期待したものの、そこでは、カテゴリーという言葉すら出てこなかった。
カテゴリー表の使い方くらい読者がじぶんで考えればいい… カントはそんな気持ちだったのだろうか? いや、じょうだん抜きに、そうだったのかもしれない。第22節に観える下記から、それが窺がえる!
考えるということは、判断すること、あるいは表現を判断一般に参照することと同じものだ…
だからぼくたちは、じぶんの頭でまず考え判断しなければならない。そして、じぶんで考え判断することに、苦悩するぼくたちを観ながらカントは、ほくそ笑んでいるのではないだろうか? それに間違いないと思いながらも、繰り返し読んでいると、人間の可能性に大きな期待をしているカントも観えてくる。
それは読書会では多くが、22節の後半の下記から読みとることとなった。
「経験がぼくたちに何かを教えてくれる」とぼくが言うとき、それは経験の中にある認識だけを意味している。たとえば、石に太陽が当たるとそこに熱が生まれるというような状態を指している。したがって、経験の命題は常に偶然に過ぎない。
太陽の輝きに必然的に熱が伴うことは、確かに(原因の概念による)経験の判断に含まれているが、経験によって学習されたものではない事実である。逆に経験はまずこの概念の追加によって生成されるものだからである。
つまり、経験とは偶然的な出会いともいえるが、そこに、なぜが加わって、しぜんに人間はその理由を探求していくことになるわけだ。そしてその結果が、普遍的なものとしての経験判断に繋がっていく、そう考えていくのは、自然なのことであり、そこには、いっさいの押しつけはないとの確信を、持つこともできることになる。
ただしこれは、先の引用の行間を読むことで得られることなのだ。カントの文章とは、こんな具合い読むように書かれていると、断言することもできる。
そして第23節では、人間が生まれつきに持っている思考のルールが語られることになる。
これについても、読書会の参加者が、行間を読んでいく努力を惜しまないことを、大いに期待したいのだが…
