見出し画像

オブジェクトそのものが実体として人間には把握できないものであっても、ぼくたち自身がオブジェクトにたいして与えたものが、認識の世界を形づくっている… 認識の世界じたいは、人間の存在で成り立つものって言っていい。それは、空間にも時間も適用できる… 連載 超訳プロレゴメナ 232 プロローグ編35

231

 前回は、『純粋理性批判』第二版の序文からの抜粋を掲載した。プロレゴメナ読書会の中で、コペルニクス的転回が話題になったことを踏まえての掲載だったが、『超訳 プロレゴメナ』の連載としては、あまりにも異例過ぎたことだった。

 カント自身がこの序文を書いたのは、『プロレゴメナ』を公表してから、なお4年を経た1787年だった。『批判』第二版を冷静な眼で観ながら、自分の考え方を、コペルニクスの方法に喩えた時だった。だから、「コペルニクス的転回」ということばにこだわるなら、ここで第二版の序文を掲載するのは、不適当とも言っていい。
 だが読書会では、「コペルニクス的転回」にたいして言葉への拘りなかった。ただ、カントが形而上学にたいして逆転の発想とも言えるものを持ち込んで、認識の世界を明確なものにしたことが、参加者の関心を大いに高めたていた。これに注目した結果として、多くがカントの最終的な考え方を、知りたいとする欲求に応えての掲載だった。
 それについては、カント自身の言葉が明快に示している。

 経験そのものが理解力を必要とした認識の一種であって、その規則は対象が与えられる前からア・プリオリに前提になっていなければならない。だから経験のすべての対象は必然的に一致するものとしてのア・プリオリな概念で表現される。これが、対象を直観に先立つものとしてきた従来の方法と大きく違っている。また対象に関しては、ここでの思考方法(対象は思考されなければならないものだから)が、思考様式の試金石を今後も提供していくことになるはずだ。その方法とは、ぼくたちがオブジェクトのついてア・プリオリに認識するものは、ぼくたち自身がオブジェクトに与えたものだけにする、そうした方法なのだ。

第231回 特別篇

 これで、オブジェクトそのものが実体として人間には把握できないものであっても、ぼくたち自身がオブジェクトにたいして与えたものが、認識の世界を形づくっていることが明快にされたことになる。
 つまり、認識の世界じたいは、人間の存在で成り立つものって言っていい。
 それは、空間にも時間も適用できることなのだ。

 第二版序文を対象にした、読書会は、この面からの意見も出てくるに違いない。
 それは、また『プロレゴメナ』をただ読んだだけで出てこないものだろう。一年近くをかけた読書会の成果が、ここに観られることは、疑いない。

233

いいなと思ったら応援しよう!