見出し画像

今までの考え方を捨ててしまい、対象のほうがぼくたちの認識に適合しなければならないと、想定する。この想定の下に形而上学での多く問いを追求し、そこから新しものが生まれるかを検討していくことしたい。この考え方が生まれた前提は、ある一致が観えたことにあった…  連載 超訳プロレゴメナ 231 特別編 1

230

※  下記は荒川先生が、超訳した『純粋理性批判』第二版の序文から抜粋したもの。カント自身が『コペルニクス的転回』を語っている個所となる。

 形而上学の進化は、数学や自然科学の進化とはどこが違うのだろう。数学と自然科学では、突然の起こった革命とも言える出来ごとで現在の形が確立している。そこに観えるいくつかの例からは、大きな恩恵を導いた思考の変化を観ることができる。この思考の変化こそが、科学の進化での本質を顕すものであり、ここの注目しなければならないとぼくは実感した。
 形而上学を理性の変化という側面から観れば、数学や自然科学の進化との類似も観られるのではないだろうか。そしてこの類似が許す限りで、形而上学でも、数学や自然科学が試みたことを、模倣してもいいのではなだろうか。ぼくはそうしなければならないと強く思っている。
 ぼくたちは、これまでは人間の認識は、現に観測している対象に適合して従うもの(想定)してきた。けれども、概念を対象にして、ア・プリオリにあるものを創りだし、認識を拡張しようとした試みは、すべてが失敗に終わっている。これは、対象に適合しそれに従う、この前提が、そもそも間違っていたということではないだろうか。
 そこで、この今までの考え方を捨ててしまい、対象のほうがぼくたちの認識に適合しなければならないと、想定する。この想定の下に形而上学での多く問いを追求し、そこから新しものが生まれるかを検討していくことしたい。この考え方が生まれた前提は、ある一致が観えたことにあった。対象が確立するためにア・プリオリな認識が必要なもの、その可能性に一致するものが、認識の考え方の逆転のなか観えたからだった。
 そしてこれは、コペルニクスが考えついたこととまったく同じだった。コペルニクスは、天体を観測しながら多くの星のすべてが、観測している自分の周りを回っていると考えると不合理なことに気づいた。つまりそれでは天体の運動を、悦明できないことに気づいたのだった。そこで彼は、星のすべてを静止させてしまって、観測している自分のほうを回転させることを考えはじめた。これが天体運動の理論に有意義な結果を与えたことは、ここに書くこともないだろう。
 コペルニクスの考えは形而上学にも適用できる。対象の認識での直観の考え方で、コペルニクス同様に逆転してアプローチを試みることができるはずだ。もし今までのように、直観が対象に即し適合するものだとしたら、そこからア・プリオリに何かを知ることができるだろうか。ぼくにはそれは、とうてい理解できないことだ。ところが、対象そのものがぼくたちの直観の対象として規定され適合するとしてしまえば、形而上学の可能性も容易に観えてくることになる。
 ただし、形而上学の可能性が観えただけでは認識そのものが正しく捉えられたとはいえない。直観が正しい認識になるためには、ぼくは、こうした直観だけに止まっているわけにはいかない。そこで得られたものを表象として、対象の何かに関連付けた結果で、この対象を決定しなければならない。そこでまず、決定に至った概念を対象に適合すると仮定するしてみる、だがこれでは対象がア・プリオリに何かを知ることができるかどうかが観えなくなって、ぼくはまたも窮地に陥ることになる。そこで対象(与えられた対象として)概念にしたがって規定された結果の認識がその概念に一致していると考え方を変えてみる。その結果、この仮定こそが、納得できる答えを導きだす、それが容易なものになっていることが判るはずだ。
 経験そのものが理解力を必要とした認識の一種であって、その規則は対象が与えられる前からア・プリオリに前提になっていなければならない。だから経験のすべての対象は必然的に一致するものとしてのア・プリオリな概念で表現される。これが、対象を直観に先立つものとしてきた従来の方法と大きく違っている。また対象に関しては、ここでの思考方法(対象は思考されなければならないものだから)が、思考様式の試金石を今後も提供していくことになるはずだ。その方法とは、ぼくたちがオブジェクトのついてア・プリオリに認識するものは、ぼくたち自身がオブジェクトに与えたものだけにする、そうした方法なのだ。

232

いいなと思ったら応援しよう!