犠牲の深淵その参 最終章 〜犠牲の美しさと感動〜
犠牲を愛といえなるなら
世界は愛でできている
愛ほど大層なものじゃない
信じれたのは
犠牲まみれで
残酷な世界
だけれども
どうしようなく
美しいだけだ
こんにちは
こんばんわ
ともひろです。
ついに最後です。
犠牲の深淵編最終章です。
前回、前々回はこちらからどうぞ
読んだほうがより楽しめます。
光がない犠牲の深淵の先で
最後に私が掴んだものとはなにか?
それが希望かさらなる絶望か
共に見届けましょう。
それではどうぞ。
愛というのなら
犠牲の深淵に囚われて
死ぬこともできずにただただ生きていた私
私の心に変化はなくとも
世界や見るものは変化していく。
そんな中でこんな言葉に出会った。
世界は愛で出来ている。
この言葉をあなたは信じられますか?
多くの人が鼻で笑うか嘲笑うのような綺麗ごと
そんな印象を受けて私も笑っていた。
ただ、よくよく考えていみると
この言葉は私の絶望でもある。
世界は犠牲で出来ている
この考えとも一定の関連性があったのだ。
というのも簡単で
犠牲 = 愛
この式が成り立つと思ったからだ。
犠牲と愛は似ているというよりかは
この表現のほうが近しいだろう。
愛がなければ犠牲はできない。
つまり犠牲の根幹には愛があるということだ。
子育てなんて分かりやすいだろう。
親は子にこれでもかというくらいに
自分を犠牲として子を育てる。
そこに利害関係なんてものはない
無償の愛ゆえの犠牲だ。
他には仕事の選択についても愛がある。
お金をもらえるなら何でもいいのに
なぜ今の仕事をしているのか?
それは金額や場所、待遇などの条件もあるが
もし同じ条件で他の選択であったとして
あなたはそちらにいくだろうか?
その仕事を選んだのには
あなたが気になった何かか
それを望んだ理由があったはずだ。
仕事を選ぶとき
つまり犠牲の先を選ぶときは
ある程度、自分が犠牲になる先を納得して選べる。
多少なりとも自分から
犠牲になることに納得し了承をしているのだ。
それは自分が愛のある先にしかできないことだ。
もうちょっと言うなら縁があることである。
それこそが仕事を選ぶ
犠牲という仕事によって社会が作られる。
その根幹には愛の選択があり
それによって作られる社会は
全てに愛が内包されている。
そうやって見ることもできるのだ。
一つ例を挙げるなら
都会のビルは犠牲の塊であり愛の塊でもある。
作った人の犠牲はたくさん詰まっているが
同時に作った人がこれからビルを使う人を思い
丹精と技術を込めて作ったものたちだ。
これを愛と呼ばずに何と呼ぶ。
単なる仕事と言ってもその中には
必ず自分が選んだ愛のあること
それを教えてくれた。
これが愛が犠牲であり
世界が愛で出来ているということだ。
それでも
私の心はそれでも晴れなかった。
愛というものを信じられなかったのか
それとも信じたくなかったのか。
愛という考えを得てもなお
結構は犠牲がある。
そのことからは逃れることができなかった。
頑固といえばそれまでだろう。
頑固であるというよりは
犠牲を認めたくはない
その犠牲のもとで成り立っている世界を
私が犠牲があることを許容できなかった。
私が犠牲なんてものはがない
綺麗な状態でいたい。
そんな執念や信念ともいえる
ただの執着が心にこびりつく。
それが心を腐らせるとしても
離すことができなかった。
唯一の心の拠り所になっていた。
長い事居すぎたからなのだろうか。
信じられるものがそれだけになってしまっていた。
犠牲の深淵は深まるばかりか
私の心を侵食していく。
その淵に立たされた私が次に触れたものは……
美とは
その時は突然きた。
私が思いもしない時に
思いもしない形でやってきた。
やっていたというより授かった。
私は寂しがりやなのは
もはや言うまでもないだろう。
それについてはこの記事を読んでくれ
その寂しがりやのいたずらか
私のこの絶望を話すときがあった。
人生で初めて話した。
自分でも苦しくて
泣きながら話したのを覚えている。
ずっと誰にも理解されなくて
話すことすらしなかった私の闇。
それをさらけ出してただただ話した。
世界が犠牲で苦しくて辛いのもで
生きてるだけでそれが心に刺さる。
それを初めて人に吐露した。
そしてひと通り話しあと
ある人からこの言葉を言われた。
美しさってそういうもの
その側面がなければ美しさを感じられない
初めて聞いたときは
どういうことなのか分からなかった。
でも1つ体感として感じたのは
それがやけにしっくりきたことだ。
その言葉が私には嘘には思えなかった。
そしてなぜか安心感があった。
美しさ
そんなこと考えたともなかった。
犠牲と結びつけようともしなかった。
このとき初めてその2つが結びつき
私の心の深淵に
一筋の紐となって目の前に垂れ下がった。
紐の先にあった世界の半分は
今とは対して変わらなかった。
でももう半分は
私とって安らぐ場所だった。
犠牲と美
この2つはどちらとも必要だ。
片方だけでは成り立たない。
両方揃ってこそ意味があるのだ。
私の心の世界には
今までどおりの犠牲の世界と
その犠牲があるから見えた美しい世界
この2つが共存したのだ。
人は変化や状態というのを
差を通してしか認知できない。
犠牲の世界が見えているからこそ
美しい世界がより見える。
私はその言葉を言われた帰り道
いつも通りの道を進んでいたが
とても満たされていた。
見える景色全てが美しく感じたからだ。
そこには犠牲もある。
でもそれと同じくらい
小さいけれども強く輝く美しさが
私の瞳を照らしていたからだ。
多くの人が通るその道の真ん中で
私は静かに泣きながら歩いた。
恥ずかしいなんて微塵も思わなかった。
むしろこの美しさを感じられて
今泣けることが誇らしい。
私の世界が変わったときであった。
2つの狭間の中で
結局のところ
私がただ勝手に絶望して追い詰められて
1つの考えにこだわった結果で
こんな苦しむことになった。
そう言われても否定はできない。
でもその時間は決して無意味でもなく
私にとっては必要な時間だった。
最も危険だったのは
1つの解釈にこだわることだった。
事実は1つでも解釈は無限にある。
私はその中の1つに固執して苦しんだ。
でも今ならいえるが
解釈は2つ以上同時に存在ができる
私の中の犠牲の深淵の世界が無くなった訳では無い。
今でもその考えや苦しんだ時間は
確かにこの胸の中にあり続けている。
でも同時に
その世界があるからこそ
美しい世界が存在できるし
その世界がより輝いて見える。
今の私はこの2つの考え方
両者を正しくも言えるし
否定をすることもにできる。
そんなどちらも選べる2つの狭間にいる。
善か悪、正か邪
その二元論ではなく
どちらとも選択ができるのが人間だ。
私は今のこの立場でいたい。
どちらも選択できてどちらの世界も見れる
単純に世界が2つになって広がった。
犠牲の深淵にいても
その後ろには美しさがあった。
その世界の真ん中で私は生きる。
だから私は私を犠牲にする
そして私は私を美しくあれる。
犠牲と美しい世界の法に従い
私はそんな人生が生きたいと思った。
自らの犠牲も愛の証明となるだろう。
世界の美しさを感じつつも
犠牲を忘れることはない。
美しさを感じることができるのは
そこに犠牲があったからだ。
だから私はこの世界をもっと美しく感じたい。
そのためにはこの身を犠牲にして
体感して初めて新しい美しさに出会うことができる。
そんな人生を送りたいものだ。
この美しさと出会うこともまた
1つの感動なのだろう。
さて
ここまで読んでくれたあなたは
きっとこの3部作を読み切ってくれた人だろう。
ありがとう。
そしておめでとう。
私の深淵を追体験をして
苦しみながらもここにたどり着いた。
勝手ながら私は
あなたを共に苦しみを乗り越えた
戦友のように思っている。
あなたが今どんな心境なのかは分からない。
ただ、ここまできて
犠牲の世界と美しい世界
その2つが今のあなたには宿っている。
どうかその世界を大切にして欲しい
どうかその世界を無視しないで欲しい
それはあなたの心の光にはなれないかもしれない。
でも心の支えにはなれる。
犠牲だらけで残酷なこの世界で
美しさを分かち合える人が1人増えた。
その事実が私は嬉しい。
あなたがこの世界から
どんな世界を新しい作って出会ってくのか
好きに使って欲しい。
あなただけの世界を作って
その世界を広げて欲しい。
それは他人のためにもなるから
この世界はどうしようなく残酷だ
だけれどもどうしようなく美しい
そんな世界であなたと出会えたことが
私にとっての感動だ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
感想やスキを残してもらえると
私も書いた甲斐があるというものです。
次回は2025/03/24月曜日更新です。
それではまた

