60代のリアル|第2幕、第55話【実録・介護の崖っぷち】ソーシャルワーカーさんとの約束と、気が引けるお見舞いの日
前回までのあらすじ
8月28日(金)の退勤間際、手差し印刷で冷や汗をかきながら名刺作成を終えた安堵も束の間、告示メールにはもう一つの重大な事実が書かれていました。
それは、多忙な中で非正規社員へも気を配り、時にはぶつかり合いながらも手腕を頼りにしていた現総務課長の「降格・別部署への異動」、そして新課長には何でも人任せで言い訳ばかりの人物が着任するという衝撃的な人事でした。
巨大な波乱の予感と今後の総務課への不安を抱えながらも、目の前の業務に追われたまま重い週末を迎えるのでした。
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日曜日の午後、重い足取りで
8月30日(日)
母が介護医療院へと転院してから、初めてのお見舞いに向かう日でした。
面会時間は14時からです。
少しでも気を紛らわせようとしても、頭の片隅にはずっと母のことが引っかかっていました。 退勤間際に職場を揺るがしたあの告示メールの衝撃や、これからの総務課に対する不安も消え去ったわけではありません。けれど今の私には、それ以上に重く胸にのしかかる現実がありました。
退院したあの日、母はきっと「これでおうちに帰れる」と思っていたはずなのです。
それなのに待っていたのは、別の介護医療院への転院という現実でした。
先日、医療ソーシャルワーカーさんと電話でお話しした書類の件があったからこそ踏み出せた一歩ではあるものの、どんな顔をして母に会えばいいのか?
申し訳なさと切なさで、病院へ向かう足取りはどうしても重くなってしまいます。
混雑を避けるため、家を出たのは13時20分頃でした。
14時ちょうどに到着すると受付やエレベーターが混み合うかもしれないと思い、あえて少し時間をずらして病院へ向かったのです。
守衛さんの前で途方に暮れる
病院に到着すると、受付の守衛さんに声をかけられました。
「体温を測って、その用紙をお持ちください。そのまま病室のある階までエレベーターで上がってくださいね」
言われた通りに検温を済ませ、用紙を手に取ったものの、私は守衛さんのいるその場所でピタリと足を止めてしまいました。
転院してきた当日はあまりにも慌ただしく、ただ言われるがまま移動したため、どこにエレベーターがあるのかすら頭に入っていなかったのです。
広い案内スペースでどこへ進めばいいのか分からず、困り果てて立ち尽くしていると、守衛さんが心配そうに声をかけてきました。
「病室が分からないのですか?」
「……〇〇号室です」
そう答えた直後、私の後ろからお見舞いと思われる方が続けて2名入っていらっしゃいました。
その方々が迷いなく奥へと歩いていくのが見え、「あちらにエレベーターがあるんだ」と察した私は、小さく会釈をしてその背中を追うように歩き出しました。
手探りの到着と、静かな病室
エレベーターに乗り込むと、先ほど前を歩いていたお二人も続いて乗ってきました。それぞれが目的の階のボタンを押す中で、後から乗られた方が私と同じ4階を押したことに気づきます。
やがてエレベーターが4階に到着し、扉が開きました。
エレベーターを出たすぐの場所に面会用の受付用紙が置かれており、同じ階で降りた方が先にペンを走らせていました。
その方は手早く記入を終えると、「お先にありがとうございました」と一言添えて、隣のナースステーションへと声をかけに向かわれました。
私は受付用紙に向き合い、そこでようやく守衛さんに「体温を測って用紙を持って上がって」と言われた意味を理解しました。
用紙には体温を記入する欄がしっかりと設けられていたのです。
検温結果を書き込み、記入済みの用紙を回収箱に入れてから、私も同じようにナースステーションへ向かいました。
しかし、そこには誰もいません。
「こんにちは!……すみません、どなたかいらっしゃいませんか?」
と何度か声をかけてみましたが応答はなく、シーンと静まり返っています。
(あとで、医療ソーシャルワーカーさんから言われた書類をもらいに行かなくちゃ……それに、母の靴もどこへ置けばいいのか聞かないと)
心の中で確認事項を反芻しながら、私は母の待つ病室へと向かうことにしました。
すれ違いの中での手続きと、母との時間
病室に入ると、看護師さんが同室の方のお世話をしている最中でした。
部屋を見渡してもロッカーが見当たらなかったため、その看護師さんに「靴はどこに置けばいいですか?」と尋ねてみました。
すると「引き出しの下に入れてください」と教えてくれました。
見ると引き出しの下に扉付きのスペースがあり、どうやらそこに収納する仕組みになっているようでした。
尋ねたいことはまだありましたが、答え終えると看護師さんはすぐに作業に戻ってしまい、医療ソーシャルワーカーさんから聞いていた書類の件は聞けずじまいになってしまいました。
しばらくすると、先ほどと同じ看護師さんが2枚の書類を手にして戻ってきました。
「ここで書いていただいてもいいですし、ナースステーションでも構いませんよ」と言われ、私はその場で病室の机を使って記入することにしました。内容はレンタルパジャマや下着の手続きに関する書類でした。
書き終えてナースステーションへ提出しに向かいましたが、相変わらずそこには誰もいません。
仕方なく書類を持ったまま病室へ戻り、母と向き合うことにしました。
「お母さん、お昼は食べられた?」
問いかけると、母は
「まだ食べていない……あ、食べた!」
と思い出したように答えました。
どこか噛み合わない、けれど愛おしいそんなやり取りを交わしながら、少しの時間が過ぎていきました。
ナースステーションへ再度向かう途中、先ほどの看護師さんが廊下で作業をしているのが見えたため、無事に記入済みの書類を渡すことができました。
病室に戻ると、隣のベッドからテレビの音がかすかに聞こえていました。
耳が遠くなっている母には、きっとその音も届いていないのだろうな、と思いながら母の顔を見つめました。
「お母さん、もう帰るね」
そう声をかけて手を振りました。母の右手には、まだ包帯がぐるぐると重々に巻かれたままです。
手が不自由なために手を振り返すこともできず、母はただじっと、去っていく私の方を見つめていました。
🌿次回予告
転院先での母との面会を終え、重い余韻を抱えたまま迎えた9月1日(火)の朝。
出社後の朝礼で、思わぬ発表がありました。 それは以前、情報漏洩の懸念から使用が見送りになっていた「AIツール」に関する件でした。
「えっ、また何かあったの……?」
私自身は一切使っていないにもかかわらず、「もしかして自分が疑われているのでは……?」という唐突な疑問と不安が頭をよぎります。
職場の異動劇に続き、新たに浮上するAIを巡る不穏な空気。 平穏とは程遠い日常の中で、またしても波乱の芽が顔を覗かせていました。
次回、「9月1日(火)朝礼の動揺。AIツールの件で何が起きたのか?頭をよぎる疑念」。
次回もどうぞお楽しみに!
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