承認ゲームとしての『note』に隷属しないために【思想記#5】
最近、私は宇野常寛さんの著書『庭の話』(講談社)を読んでいる。
この本では、今日の情報社会におけるSNSプラットフォーム論が展開されており、簡単に言えば人々が情報発信による承認の中毒となっていることが指摘されている。
私は思った、
自分の情報発信の拠点である『note』とどう付き合っていけばよいのだろうか?
というわけで、今回は『庭の話』に沿って『note』の現状を分析したうえで、私が一人のユーザーとして『note』とうまく付き合っていく方法について考えてみたい。
1.承認ゲームとしての『note』
まずは、『庭の話』において宇野さんがどのような問題を提起しているかを見ていただきたい。
今日の人類社会はインターネット上で、Facebookの、Instagramの、X(Twitter)のプラットフォーム上で展開されているユーザー間の情報発信による相互評価の連鎖と、その結果としての世論形成が支配的な力をもっている。それはいわば、すべてのプレイヤーが参加する相互評価のゲームにほかならない。(中略)誰もが他のユーザーからのリアクションを潜在的に期待している。(中略)各プラットフォームは人間が情報発信によるインスタントな承認の中毒に陥っていることを経験的に知っている。そして「Like」や「Repost」というかたちでその承認を可視化することで、より人びとをその快楽の虜にした。
ここに書いてあることは、今日の情報社会を生きる人であれば誰しも心当たりがあるようなことではないだろうか。
誰もが他のユーザーからのリアクションを期待していることは言うまでもないだろうし、より多くのリアクションがもらえるような発信をしたいと思っているだろう。
ここでは、プラットフォームの例として、Facebook、Instagram、X(Twitter)が挙げられているが、同じことは相互発信、相互評価のプラットフォームである『note』についても言えるだろう。
この問題を『note』について考えてみる。
まず、『note』について提起される問題は、「スキ」、「コメント」、「フォロワー」の数として承認が可視化されることによって、人々が承認の快楽の虜になっているのではないだろうかということである。
「スキ」、「コメント」、「フォロワー」といった承認可視化の仕組みは、noteユーザーの行動を明らかに捻じ曲げている。
名前に「フォロバ100%」と入っているアカウントや読まずに記事にコメントやスキを付けているアカウント、このようなアカウントの行動には何か違和感を感じるだろう。
ただ、勘違いしてはならないのは、「スキ」、「コメント」、「フォロワー」といった仕組み自体が問題なわけではないことだ。
もし、私が「スキ」も「コメント」も「フォロワー」も無くすべきだと言えば、皆さんはそれに対しても違和感を感じるだろう。
なぜなら、それは創作にとって大切な要素である読者の存在(リアクション)が切り捨てられているように感じるからだ。
『note』の理念に沿って、「創作を楽しみ続ける」ためには、創作する喜びだけでなく読まれる喜びも必要なはずである。というよりも、むしろそれを欲求する人々が『note』に集まっているとさえ言えるだろう。
読まれる喜びがない『note』は、自分一人で紙のノートに創作するのと変わらない。それでは、『note』である意味がない。
読まれる喜びは、読者からのリアクションを通じて感じられるものであるからこそ、「スキ」、「コメント」、「フォロワー」をなくしてしまうわけにはいかないのだ。
承認の可視化によってユーザーの一部が承認中毒になっていることは明らかだ。しかし、創作と読者は不可分であって、承認の可視化をやめることも出来ない。
この問題に私たちはどのように向き合うべきだろうか?
その糸口を掴むためには、まず本質的な問題点が何かを特定しなければならない。
宇野さんは、政治哲学者ハンナ・アーレントの著書『全体主義の起源』における〈グレート・ゲーム〉(19世紀の英露の植民地争奪戦)についての考察を参照する。
その存在が世界に確実な影響を与える大規模なゲームに匿名のプレイヤーとして参加したとき、人間はゲームの攻略が、高いスコア(賞金)を上げることが手段ではなく、目的となる。そのために、そもそもこのゲームが何を目的に運営されているかには関心を払わなくなる。自分たちが依存する国家や、その背景にあるイデオロギー、加担しているシステムなどゲームの外部には関心を払わなくなる。アーレントの考えでは、人びとのゲームのプレイを通じた、生の実感への欲望の追求こそが、帝国主義の拡大の原動力にほかならないのだ。
ここで問題にされているのは、ゲームの攻略が目的となり、そのゲームが何を目的に運営されているかには関心を払わなくなるということである。言い換えれば、それはゲームのためのゲームであり、自己目的化したゲームである。
これを踏まれば、先ほどの『note』における承認中毒と承認の可視化の何が問題であったか明らかだろう。
つまり、承認のゲームが自己目的化していることが問題なのである。
『note』という自己目的化した承認ゲームのプレイヤーは、そこでより多くの承認を集めること、すなわちより多くの「スキ」、「コメント」、「フォロワー」を獲得することを目指す。
このゲームにおいては、スキが1件の記事よりもスキが100件の記事の方が100倍優れている。従って、ゲームに忠実であるならば、1件でも多くの「スキ」、「コメント」、「フォロワー」を得るために努力しなければならない。
このような目的が明らかなゲームはプレイヤーによって経験的にハックされていく。
つまり、先程挙げたような名前に「フォロバ100%」と入っているアカウントも読まずに記事にコメントやスキを付けているアカウントも、それがこのゲームを攻略するために効率的な方法だと知っているからそうしているのだ。そして、それはある意味で極めて正攻法なゲームプレイであり、ルールに則った健全な競争戦略である。
しかし問題なのは、このゲームプレイには創作の喜びの居場所がないことである。
それは『note』において最も大切なものであるはずだ。
もし、『note』を創作の喜びを感じられる場所として維持し続けたいのであれば、そこは承認ゲームのためにより多くの注目を集めることが目的化してしまうような場所であってはいけないのだ。
このような自己目的化した承認ゲームとしての『note』に隷属しないために、私がひとりのユーザーとしてどのような方法をとりうるかというのが、この記事で考えたいことである。
2.承認の奴隷を脱するためのアイデア
自分の作品が誰かの心に響いたり、より多くの人に受け入れられたりすることは、私たちに喜びを与えてくれる。
これを否定することはできない以上、より多くの承認を求める欲求自体を無くすことは難しい。
しかしながら、自己目的化した承認ゲームの中で、承認の快楽の奴隷になってしまうことは避けねばならない。
このような状況で取るべき戦略は、承認の快楽を相対化することである。
つまり、ある快楽に対抗するために他の快楽に頼るのである。
以下に書くのは、『note』において承認の快楽を相対化するための暫定的な方法であり、効果も不明であるが、私がやってみようと考えている方法である。
(もしもっといい案を思いついたらぜひ教えてほしいです。)
【案1】自己採点&自己批評(自己評価による相対化)
ここまで扱ってきた承認というのは全て他者からの承認であった。
考えてみれば、『note』には他者以外による評価システムがない。「スキ」、「コメント」、「フォロー」、すべての「ものさし」が他者からの評価である。
安直な考えだが、私はここに自己評価があってもよいのではないかと考えた。
自分の記事を書き上げ、読み直したときに、誰しもがそれに対する自己評価を行っているはずである。
私はいい記事が書けたと感じれば少しいい気持ちになるし、そうでなければ少し落胆する。
この自己評価のささやかな快楽を意識的に保持することによって、他者評価の快楽を相対化することが出来るのではないか、これがこの案の試みである。
このための具体的な方法は色々あると思うが、私は自己採点&自己批評を実践してみたい。
まず、記事を書き終わって読み直すときに、自分で点数をつける。そして、短くていいのでその評価の理由をつける。これだけである。
自己評価は、記事の末尾につけ足しておこうと思う。(自分で記録しておくだけでもかまわないだろう。)
果たしてこの方法にどれほどの効果があるかは分からないが、他者評価の絶対性を突き崩す一助になる、と私は考えている。
【案2】コメント&引用(質的な他者評価による相対化)
承認ゲームの問題点は記事の内容が無意味化することであった。
記事を読まずに見返りを目的に押したスキと、しっかりと読んで良い内容だと思って押したスキとの間に重さの違いは無いのである。どのような意味のスキも、「1」という量として処理される。
つまり、「スキ」は承認ゲームの攻略者にとってハックしやすい量的なコミュニケーションなのである。
だからこそ、コメントや引用などの質的なコミュニケーションが重要になる、と私は思う。
コメントは質的なものであるからこそ、営業目的のものと本当に読んで感想を書いてくれたものの見分けがつきやすい。そして、読んだ人が記事の感想を率直に伝えてくれることは、書き手にとっては大変な喜びである。
誰かの記事を読んでいいと思ったら、その気持ちを積極的にコメントしていくことが、noteという創作を楽しみ続けられる場所を豊かにすることにつながるのではないかと思う。
さらに言えば積極的に他の人の記事の引用や紹介もしていこうと思う(もちろんルールの範囲内で)。
たとえスキがあまり多くない記事(量的には承認されていない記事)であっても、その内容に価値があると思えば、引用・紹介していこうと思う。
他人の記事だとしても、価値あるものを紹介してそれが広まる手助けをすることは、自分にとっても喜びである。それは創作が生まれる土壌としてのnoteを耕すような営みだろう。
とにかく、noteをよく読んで、よくコメントし、よく引用しよう、というのが第二の案である。
ただし、この案には注意しなければならないことがある。
それはコメントや引用・紹介も他者からの承認であるということだ。
そもそも、私は他者からの承認(評価)の快楽を相対化するための方法を考えていた。
だから、なんでもコメントで褒めるとか、有名だから引用するとかではダメなのである。なんでも褒めるのは記事を開いていないのと一緒である。
つまり、ここでしなければならないのは、内容を見てコメントや引用をするということである。
この内容を見たコメントが、コメントされる側に対して自分の記事の内容に向き合うきっかけを提供する。
これこそが質的な他者評価による相対化である。
【案3】AI採点&AI批評(第三者評価による相対化)
この案は、note上の利害関係の無い他者(第三者)としてAIを使ってみようというアイデアである。
AIはこちらの頼み方(プロンプト)次第では、自分よりも他の人間よりも内容に対して公正なジャッジをしてくれるのではないかと期待している。
採点、批評の方式は自己評価と同じ形式にしようと考えている。
AIに評価されるのが気に食わない人もいるかもしれないが、依存先を増やすことによって、1つに依存し過ぎない(相対化)くらいの軽い気持ちでやってみようと思う。
以上に挙げた3つのアイデアはいずれも個人次第で実践可能なものである。
というのも、ユーザーが承認ゲームの支配を脱するための方法を、はじめからプラットフォーム側の改善に頼ることは現実的ではない、と私は考えている。
なぜならば、『note』の運営側は金融資本主義という別のゲームのプレイヤーなのである。
それは、毎年成長し続けなければならないゲームであり、現状維持は後退を意味する。そのようなゲームのプレイヤーが自らの強力なエンジンである承認のゲームを解体するはずがない。
この意味で、承認ゲームへの没入からのユーザーの撤退は、金融資本主義ゲームにおける『note』の成長戦略と利益相反を起こしている。
例えば、記事を開かなくてもスキを付けられる仕様を、記事を開いて最後までスクロールしなければスキを付けられないように変えれば、相手からの注目を得るためだけの「未読営業スキ」は減るだろう。
この改善は『note』という承認ゲームにおける未読営業スキ戦術の効率を下げる結果へとつながり、単純な承認ゲームとしての攻略難易度は上がるだろう。
そしてこれはスキの総量のうち記事を読んだ読者のスキの割合が高まることを意味し、『note』が大切にしている「創作を楽しみ続ける」という理念の実現に有益な効果を生み出すはずだ。
しかし、それはプラットフォームとしてのnoteの規模の拡大には、悪影響を及ぼすだろう。
つまり、金融資本主義ゲームにおいては悪手である。
このようなわけで、私たちが『note』で創作を楽しみ続けるためには、まず自分から変わらなければならないのである。
もし、この個人の変化が積み重なって大きな流れとなったならば、金融資本主義ゲームのプレイヤーはその流れに彼らのルールで反応してくれるだろう。
最後まで読んで頂き本当にありがとうございました。
▼ 自己採点&AI採点
【自己採点】6点(10点満点)
自分でもやもやしていたnoteとの付き合い方をある程度言葉に出来たのはよかった。前半のnote分析パートで出てこなかった「質的/量的」な評価という概念が解決策の段階になって持ち出されていて後出し感がある。評価と承認という概念についてもう少し意識的になったほうがいい気がする。
【AI採点】7点(10点満点)
宇野常寛氏の著書を軸に、「承認ゲーム」というフレームワークを用いてnoteが抱える問題を構造的に分析し、具体的な解決策まで提示している点は高く評価できます。一方で、やや専門的な議論が先行するため、冒頭で読者が共感できるような個人的な体験談を簡潔に加えると、より多くの読者の関心を引きつけられるでしょう。提案されている解決策は具体的かつ独創的で、読者にとって実践的な価値を提供しています。
▼ 参考文献
(1)『庭の話』, 宇野常寛、講談社
※記事サムネイルの書影は本書より引用
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