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素敵な書き手たち Part1

先日、「てふてふ日和」さんから、ペイフォワード「恩送り」が届きました。

読みながら、こんなに胸がどきどきしたのは、何年ぶりでしょう。たいへん嬉しかったです。

ペイフォワードは、強制ではありません。もし紹介されたとしても、どうかご負担には思われませんように。こんな素敵な企画ですから、お気軽に。

純粋に、ラヴレターだと思って、読んでいただけたら幸いです。

(今回の企画ではご紹介できなかったnoterさんには、最後にメッセージを残しています)


幼稚園のお遊戯「むすんでひらいて」を、断固拒否。だって4歳にして、ちあきなおみの『喝采』を口ずさむ少女だもの。

そんな幼少期を過ごした北窓詩雨さん。
なるほど、あの文章が書けるわけだ。

映画、音楽、街の風景、家族、ふとした言葉。見過ごしてしまいそうなものを掬い上げては、自分の記憶と重ね、もう一度そこに光を当てる。

ときにクスクス、ときにしんみり、ときに情熱的。

深い話の途中で、ふっと力を抜く。その一言に、思わず笑わされる。そんなところまで含めて、彼女の文章なのだと思う。

そして、優れた「読み手」でもある。
あのコメントの、洒落ていて可笑しいこと。誰に対しても、その人にしかない魅力を見つけて、そっと手渡してくれる。人を見る目が、あたたかいのだ。

書く人としての彼女に憧れ、読む人としての彼女に励まされている。

私にとって北窓詩雨さんは、そんな美しい人だ。

「TODAY IS YOUR DAY!」

人生のある時期が、まるごと「消化試合」に思えてくることがある。

父を看取り、続いて母の介護。
それも少し手を離れ、自分の役割までぽっかり抜け落ちたあとの空白。この文章は、そこを正面から描いている。

人生を24時間にたとえれば、いまは「15時37分」。もう若くはない。けれど、まだ夕暮れでもない。

夕暮れが一日でいちばんいい時間だと、カズオ・イシグロ『日の名残り』の老人は言う。

失ったものを数える人生から、これから始まるものへ。その転換が、決意というより、少しずつ顔を上げていくように描かれている。

焦りも、諦観も、それでも消えない望みも。
そのすべてを抱えたまま、「きっとまだまだ、これからだ」と自分の人生へ戻っていく。

そんな一篇を、まずお薦めしたい。


なんとなく元気のないとき、私は、瀬戸細胞さんのエッセイを、とぼとぼ読みにいく。

題材はいつもささやかで、時にみっともない。素晴らしいのは、それを文章にする技術だ。

自虐も、くだらないことも、寂しさも、同じ温度でころころ転がしていく。さんざん笑わせておいて、最後には目頭を熱くさせる。

筆力が、すごいのだ。

下世話な言葉と、端正で古風な言い回しが平気で隣り合い、独特の速度を生み出す。書き出しの一行で引き込み、締めの一行で心をさらっていく。

何より、読者を幸せにしてくれる。自分の情けなさまで、読者への小さな贈りものに変えてしまうのだ。

語りは「私」から「あなた」へ。気づけばいつも、どうでもよくなって、元気玉までゲットしている。

「あなたもどうか呪われますように」

手術を前にした不安から始まる。怖い。ひとりぼっちだ。

切実な話なのに、数行後には「痔・エンド」、そこから「痔・シンクロニシティ」へと、話はおかしな方向へ転がり出す。

ユングもニーチェも召喚して、尻のための大規模呪術を大真面目に説明する。そのくだらなさに笑っていたら「ひとりぼっち」という言葉が胸に残る。

「私の尻のために祈ってほしい」という、しょうもないお願いが、いつしか「あなたがひとりぼっちにならないように」という祈りに変わる。

この振り幅で書けるのが、瀬戸細胞さんの魅力だ。

どれを読んでも抜群に面白い。タイトルでピンときたものを、ぜひ。


「とりあえず、歩いてみる。」
幸田マキコさんの文章を読んでいると、そんな生き方が見えてくる。

仕事を辞めて、バックパックで世界一周。カトマンズの古本屋で10冊の本を買い込み、チェコの小さな文具屋では、30コルナの古切手に目を輝かせる。

まず歩いて、出会って、面白がって、それから考える。

だから、文章にも予定調和がない。小さな出来事から、思いがけないところへ話が飛んでいく。

深いのに、重くない。
可笑しいのに、軽くない。

何より、上手いのだ。

27歳まで読書が苦手だったと聞いて驚いた。そこからの読み方が、よほど濃かったのだろう。

興味津々で、応援している書き手だ。

「澤子の『ほうかっ』と『胃痛い』」

「ほうかっ」という、たった一つの口癖から、祖母・澤子の人生が立ち上がってくる。

気の強さと、途方もない我慢強さ。戦争を生き抜き、ちゃぶ台をひっくり返す大酒飲みの祖父に連れ添い、晩年にはみかんを両ポケットに忍ばせていた澤子。その姿を、孫であるマキコさんは、可笑しさと愛情を込めて描いていく。

そして、最後に残るのが、「胃痛い」という言葉。

人は亡くなっても、口癖や仕草、食べ物の好み、家族の中で交わされた何気ない会話となって残っていく。

一人の人間を「思い出」にしてしまわず、家族の中で今も生きている人として描くところに、この文章の温かさがある。

その愛情の描き方が、なんとも幸田マキコさんらしい。


寝かしつけに、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』を語る父親がいる。

かと思えば、盆踊りの夜には蚊取り線香の匂い、手のひらにはカブトムシ。さかなクンの情熱に目を細め、ポケモン工芸展で見惚れて、迷子になる。

空月さん、という魅力的な書き手だ。

哲学に造詣が深く、聡明。言葉のもつ力をよく知っているからこそ、言葉を足しすぎない。一文一文が研ぎ澄まされていて、そっと置かれた言葉に、はっとする。

出会った一瞬を切り取った写真も、そこに添えられた文章も、しんと静かだ。その余白ごと、味わわせてくれる。頭で理解するより先に、心が動く。

人を読む。言葉を読む。

いつも大切に読んでくれているのが伝わってくる。その姿勢にも憧れる。

「一期一会の価値」

美術館で出会った、見知らぬ親子。
子どもたちが少し一緒に遊んだ。それだけの、ほんの短い時間だった。

帰り際、その親子から手渡された一枚のポストカード。
「一緒に遊んでくれて嬉しかったので」

空月さんの、その受け止め方に心惹かれた。

つい、出会いを「この先」へつなげようとしたり、大きな意味を持たせたりしてしまう。けれど空月さんは、そうしない。

ただ、その一瞬にあったものを、そのまま受け取っている。

長く続く関係だけが尊いわけではない。
一度きりの交差の中にこそ、消えない何かが宿る。

「一期一会の価値」

目の前の出来事を大きく意味づけるのではなく、そこにある小さな贈りものを、そっと手のひらに載せるように書く。その静かなまなざしが、空月さんの文章の魅力だと思う。


ふじの葉さんは、本格派だ。
そこはかとなく漂う美しさと、その人の声が聞こえてくるようなやり取り。一行一行が惜しくて、急いで読めない。

彼女が書くのは、たいてい何でもない場面だ。誰かの手の乾き具合。靴底の減り方。岩盤浴のマグロ。声にわずかに混じった湿り気。

こんなふうに書けるのか、といつも思う。読んでいると、自分の目がひとつ増えたような気になる。

掬い上げたものを、そのまま物語へと育ててしまう。シュールにくすりとさせたり、首筋をヒヤリとさせたり。そうして最後には、秘密をそっと手渡されて、きゅんとする。

エッセイも、掌編小説も書く。全国公募で最優秀賞を受賞している書き手だ。どうりで、と思う。

「素敵な読みもの」は、贈り物なのだと気づかされる。

「思い出せない名前の話」

駅前の信号で、たまたま耳にした「キンタッキーって、なんだったかい?」という、おじいさんのひと言から始まる。

買い物袋から覗く長ネギ、きちんと留められたシャツのボタン。隣にいた男の子とのやりとり、おじいさんがケンタッキーを食べることになったいきさつ、そして、胸に残る小さな物語まで。読んでいるこちらも、すっかり二人について行ってしまう。

ところが、物語がいちばん切なくなったところで、ふっと足場を外される。それまでに湧いていた気持ちが、かえって際立ってくるから不思議だ。見えていた景色が少し変わり、最後の一文で、またくすりと笑う。

人を観察する目と、そこから物語を膨らませる想像力。その二つを自在に行き来しながら、読者をその世界へと連れていく。


シン・東屋清酒本店さんの文章は、可笑しみと愛情の宝庫。比喩は数パターン用意され、至れり尽くせり。サービス精神旺盛だ。

三児の父親が書く日常には、家族への愛情とユーモアがはみ出している。妻が大好きで、子どもたちが愛おしくて、その気持ちが写真からも文章からも溢れている。

「好き」も「愛おしい」も、たいていの人は照れる。でも、シンさんは、さらりと書く。素直で、真っ直ぐな人だなぁと思う。

しかも、ただの「いいお父さん」では終わらない。
子どもとのスキンシップは「父の凄絶な片想い」。寝ている我が子に近づく手順は、ほとんど軍事作戦。公園で転んだ息子を抱えて走れば、世界一小さなダイ・ハード。

日常って、本当はこんなにも豊かだったのかと思わせてくれる。

「僕の書いた本は、母と一緒に灰になった」

「こういう女はな、一見、上品そうに見えて、腹黒いんじゃ」と初対面の男に言われたお母さま。

慣れない土地の鬱憤が積もったある日、母は新聞に投書した。富山はテレビが映らない、と。それが全国紙に載って騒ぎになり、問い詰められて一言。「書きましたけど。何か。」

そんな、気骨があって、茶目っ気のあるお母さま。その人柄が、息子の言葉から伝わってくる。

肺癌が見つかった母のために、シンさんは母の人生を聞き始める。古い写真を一枚ずつ眺め、家族の知らなかった物語を拾い集めて、一冊の本にした。

けれど、完成した本を母に読んでもらうことはできなかった。

母と祖母の人生を綴った本は、母の棺に入れられ、一緒に灰になった。

それから三年半。
もう一度、その本を作り直す。

書くことは、ときに、もう会えない人に会いにいくことなんだなと、感じた。


noteには、人の魅力を見つけるのが、とびきり上手な人がいる。

迷える大羊さんだ。
いつも、とっておきのnoterさんを紹介してくれる。「雑談のスタイルを保ちながら、深い考察をする人」「文化に対して雑食な人」短い言葉なのに、その人の輪郭が浮かぶ。

だから、大羊さんご自身の作品も面白い。よく寄り道をして、その脱線も味わい深い。洒脱で、しなやかだ。

新明解国語辞典の金色の文字が消えるくらい、辞書と親しんできた人だ。知識を、ちょっと可笑しく料理してしまう。料理もまた見事で、ときどき真似したくなる。

私も、noteの楽しさを教えてもらった一人だ。ちいさなコメント欄で。

人と人とを繋げる小道を、そっと照らして、待っていてくれる。

「好きな男」

タイトルからして、惑わせる。

おや。「羊子には好きな男がいる。」
しかも既婚者。交わる視線、廊下で囁かれる言葉。危険な恋の話なのか、と思って読んでいると——

「いやー、私はですね、この上司が大好き。」

チェシャ猫みたいに、ニーって笑う上司は、仕事はできるのに小学生のようにちょっかいを出してくる。けれど、面白いだけではない。

ある日、彼が音楽を続けていると知る。思わず配信を観たら、キラキラだった。そのあとに続く言葉が、この文章を、ただの「チェシャ猫上司」で終わらせない。

この人は、自分の機嫌を自分でちゃんととっている。仕事は大変で、責任も重い。それでも、大好きな音楽を諦めない。仕事も音楽も、丸ごと抱きしめるように楽しんでいる。

そんなおっさんて、素敵じゃないですか?

日常 20260603 / 好きな男

「わかるなぁ、こういう感覚」と思わせておいて、最後は悪ぶってみせる。そこが、なんとも大羊さんらしい。

情が深く、人をよく見ていて、好きなものを好きだと言える。大羊さんの魅力が、ぎゅっと詰まった一篇だ。


最後は、私を紹介してくださった「てふてふ日和」さんを。

彼女の文章を読むと、旅に出たくなる。蓮の花を見に、夫婦で朝の公園へ出かける。そんな何気ない一日を、息をのむような写真と一緒に届けてくれる。

澄み渡る青空が、彼女のイメージ。

予定どおりにいかないことさえ、「こういうのも旅の楽しさ」と笑ってしまう。てふてふ日和さんの文章には、人柄がそのまま写っている。

特別な場所へ行かなくても、特別なことをしなくても、誰かと笑って、おいしいものを食べて、きれいなものを眺める。

「今日も、よく笑った一日。」
そんな一日を、私も大切にしていきたい。

素敵な贈りものを、ありがとうございました。
てふてふ日和さん。


参加させていただいたイベント

#ペイフォワードプロジェクト


<編集後記>

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

「推し」を紹介するのは、とても楽しいひとときでした。何度も何度も読み返しに行ったりして、復習に余念がない書斎日和でした。

まだまだ大好きなnoterさんが、たくさんいます。とても一度では書ききれません。企画とは関係なく、あらためてご紹介するほうが、相手にとっても気楽かなと思ったりしています。

エッセイも小説も詩も短歌も俳句も、いろいろ読んでいます。

noteの海を泳いでいると、次から次へと素敵な文章に出会う。
そんな私の楽しみは、まだまだ広がっていきそうです。



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