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【連続小説】『問屋街の次女』 第一章「反物の町」

父と母の決めた人生を、私はまだ着ていませんでした。

昭和三十五年、六月。
岐阜駅前の繊維問屋街は、朝から荷の音で満ちていました。
荷車の車輪が舗装の継ぎ目を越えるたび、ガタン、と乾いた音を立てます。自転車のベルが鳴り、店先から男たちの声が飛びます。
「大阪行き、こっちやぞ」
「その荷ぃ濡らすなよ」
通りの両側には、紳士服地、婦人服地、毛織物、化繊などと書かれた看板が、互いに少しでも前へ出ようとするように並んでいました。軒先まで反物や木箱が積み出され、その狭い間を、仕入れ客と店員と運送屋が肩をぶつけながら行き交っています。
まだ九時を回ったばかりでした。
けれどこの町には、もう半日ほど働いたような顔をしている人がたくさんいました。
私は店の奥の帳場で、伝票をめくっていました。
長谷川千代、二十二歳。繊維問屋「長谷川商店」の次女です。
「千代ちゃん」
番頭の伊藤さんに呼ばれました。
「はい」
「丸新さんの注文、また数が違っとるぞ」
私は鉛筆を置きました。
「昨日、直しましたけど」
「ほんなら向こうが間違えたんやな」
伊藤さんはそう言って、伝票を私に渡しました。
商売の数字が合わないとき、こちらが間違えていなければ、向こうが間違えている。まことに正しい理屈でした。
「見てきます」
伝票を受け取り、立ち上がりました。
その日は、薄い水色のブラウスに紺のスカートを穿いていました。五月に仕立ててもらったばかりのブラウスです。
母からは、商売屋の娘がそんな淡い色を着るもんやない、汚れが目立つ、と言われました。
私は、そうやね、と答えておきました。
東京から届く婦人雑誌で、女優がよく似たものを着ていました。私がそれを着たところで女優になれるわけではありませんが、汚れの目立たない服ばかり選ばなければならない理由もありません。
店を出ると、六月の陽が通りいっぱいに落ちていました。
向かいの店では、若い衆が反物を肩に担ぎ、小型トラックへ積み込んでいます。
その向こうを、一人の男が歩いてきました。
私は何となく、その男を目で追いました。
知らない顔でした。
この町の人間でないことは、歩き方ですぐにわかりました。問屋街の男たちは、みな少し前のめりに歩きます。仕入れに急ぐ人、得意先を回る人、荷を運ぶ人、集金へ向かう人。誰も彼も、目に見えない紐で前から引かれているようです。
ところが、その男だけは、誰からも引かれていませんでした。
白いシャツの袖を肘まで折り、首からカメラを下げています。店の看板を見上げたり、積み上げられた木箱を眺めたり、ときには立ち止まって二階の窓を見たりしていました。
東京の人だ、と私は思いました。
理由はありません。
けれど東京というところは、目的もなく二階の窓を眺める男を飼っている町のような気がしたのです。
男がこちらを向きました。
目が合ったので、私は前を向き、そのまま歩きました。
十歩ほど行ったところで、
「すみません」
と、後ろから声がしました。
私は歩き続けました。私でなければ、振り返ったぶんだけ損をします。
「すみません、そこの方」
どうやら私でした。
振り返ると、やはり先ほどの男が立っていました。
「私ですか」
「はい」
男は小走りで近づいてきました。二十五、六でしょうか。日に焼けた顔をしていますが、この町の商売人とはどこか違っていました。
「この辺に、古いミシンを使っている店はありませんか」
「ミシン?」
「足踏みのやつです」
私は男の胸元のカメラを見ました。
「写真屋さんですか」
男が笑いました。
「そう見えます?」
「ほかに何に見えるんですか」
「泥棒とか」
それは、泥棒にしては立派なカメラでした。
私は思わず笑いました。男も笑いました。
それが最初でした。
名前を知るより先に、私はその人の前で笑ってしまったのです。
「古いミシンなら、裏の縫製屋さんにあります」
「案内してもらえますか」
「いやです」
男は口を少し開けました。
「え?」
「私、仕事中ですから」
「そりゃそうですよね」
男は頭を掻きました。
私は歩き出しました。
三歩ほど行ってから、振り返りました。
「そこを右へ曲がって、二本目を左です」
男も振り返りました。
「二本目を左」
「『野田縫製』って看板があります」
「ありがとう」
今度こそ歩き出しました。
角まで来て、何気ないふりをして後ろを見ました。
男はまだ同じ場所に立ち、こちらを見ていました。
私はすぐに角を曲がりましたが、少しだけ愉快でした。
その日の午後です。
「ごめんください」
店先から声がしました。
帳場にいた私は顔を上げました。午前中の男でした。
父の宗一郎が出ていきました。
「はい、何でしょう」
「東京から来ました。雑誌社の者です」
東京。
やはり、と思いました。
私は伝票へ目を戻しました。自分の思ったとおりになったとき、すぐ顔に出すのは、あまり賢く見えません。
「岐阜の繊維問屋街を取材してまして、何軒かお話を聞かせていただいているんです」
「雑誌ですか」
父の声が変わりました。
東京、雑誌、取材。その三つがそろえば、父の声はいつもより半音ほど高くなります。
「どちらの?」
男が名刺を差し出しました。
「『暮しと産業』という雑誌です」
父は名刺を眺めました。
「三浦……修一さん」
「はい」
私の鉛筆が止まりました。
三浦修一。
そういう名前でした。
「まあ、どうぞ」
東京の雑誌に店の名前が出るかもしれない。それだけで、父の機嫌はすっかりよくなりました。
「千代」
「はい」
「お茶」
「はい」
商売屋の娘には、短い返事だけで済む仕事がたくさんあります。
湯呑みを二つ盆に載せ、奥へ運びました。
三浦さんが私を見ました。
「あ」
私は知らない顔をして、湯呑みを置きました。
父が言いました。
「次女の千代です」
「午前中、道を教えていただきました」
「ほう。そうですか」
父が笑いました。
「狭い町ですでな」
狭い町では、朝に出会った人が午後には父と話しています。
「どうぞ」
三浦さんの前に湯呑みを置きました。
「ありがとう」
小さく頭を下げ、帳場へ戻りました。
父と三浦さんの話が始まりました。
化学繊維。東京の百貨店。大阪のメーカー。女性の洋装。これから増えるという既製服。
私には聞き慣れた話でした。男の人たちは、女の着るものを商売にしていながら、女が何を着たいかは、あまり聞きません。
ところが三浦さんは、父に妙なことを尋ねました。
「十年後も、この町は今と同じように商売をしていると思いますか」
父が黙りました。
帳場で伝票を書いていた私も、鉛筆を止めました。
「十年後ですか」
「はい」
父は店先を見ました。
若い衆が反物を運んでいます。電話が鳴っています。番頭さんが得意先と値段の話をしています。
いつもの長谷川商店でした。
「さあ」
父は笑いました。
「十年先なんて、わからんですな」
三浦さんも笑いました。
父は続けました。
「ただまあ、服を着ん人間はおらんでしょう」
「それはそうですね」
二人の笑い声がしました。
私は伝票へ数字を書きました。
二百四十。三百六十。百八十。
そこで間違いに気づきました。
三百六十ではありません。三百二十でした。
消しゴムを取り、数字を消しました。
三浦さんは、三日後にも店へ来ました。
最初に教えた野田縫製へ、もう一度行くのだと言いました。
「前の写真、失敗したんですか」
私が尋ねると、三浦さんはカメラの角についた傷を、親指でしきりにこすりました。
「フィルムが途中で引っかかっていたんです」
「写真屋さんなのに?」
「写真屋じゃありません。雑誌の記者です」
「写真を撮る記者でしょう」
「そうですけど」
「じゃあ、同じです」
「違うと思いますよ」
「失敗するところも?」
三浦さんは困ったように笑いました。
「それは、同じかもしれない」
傷を親指でこするのは、三浦さんが困ったときの癖らしいと、そのときわかりました。
その五日後にも、三浦さんは店へ来ました。
町の写真を撮り、父から昔の話を聞き、番頭さんから商売の仕組みを教わっていました。昼を過ぎても何も食べず、二時頃になって、鞄からつぶれたあんパンを出しました。
母が、二階へ上がって食べていきなさいと勧めても、
「これで充分です」
と断りました。
そのくせ、立ったままあんパンを食べ、カメラの上へ餡を落として慌てていました。
東京の人も、別に東京らしく暮らしているわけではないのだと思いました。
いつの間にか、店の者も三浦さんの顔を覚えました。
けれど私とは、ほとんど話しませんでした。
目が合えば、三浦さんが軽く頭を下げます。私も頭を下げます。
それだけでした。
六月の半ば、午後から空が暗くなりました。
遠くで雷が鳴ったと思った途端、大粒の雨が落ちてきました。
「降ってきたぞ!」
店先が急に騒がしくなり、男たちが軒先の商品を運び始めました。私も木箱を抱えました。
「千代ちゃん、それ濡らすなよ!」
「わかってます!」
最後の箱へ手をかけたところで、雨脚が一気に強くなりました。
誰かが横から箱を持ちました。
三浦さんでした。
「持ちます」
「大丈夫です」
「濡れますよ」
「商品ですから」
「だからです」
二人で店の中へ運び込みました。
外は白く煙るほどの雨になっていました。
三浦さんの白いシャツは、肩まで濡れています。
私はそれを見て笑いました。
「東京の人って、雨が降っても傘を持たないんですか」
「東京にも傘はありますよ」
「そうなんですか」
「岐阜にもあるでしょう」
「ありますよ」
二人で軒下に立ちました。
雨樋から水が勢いよく落ちています。向かいの店の庇にも、雨宿りする男たちが並んでいました。
いつも聞こえている荷車の音も、自転車のベルも消えていました。
町じゅうが口を閉じ、雨だけが話しているようでした。
「東京へ行ったことあります?」
三浦さんが尋ねました。
「ありません」
「行ってみたいですか」
私は雨を見ました。
「一度くらいは」
「何をしに?」
「別に」
「別に?」
私は三浦さんを見ました。
「目的がないと、東京へ行ったらだめなんですか」
「いや」
三浦さんが笑いました。
「そういう人のほうが、東京には向いてるかもしれない」
「三浦さんは、東京が好きなんですか」
三浦さんが少し驚いた顔をしました。
私はそこで初めて、自分がその人の名前を呼んだことに気づきました。
「嫌いです」
「え?」
「東京」
「じゃあ、どうして住んでるんですか」
「仕事があるから」
「それだけ?」
「それだけ」
私は笑いました。
「変なの」
「長谷川さんは、岐阜が好きですか」
今度は私が黙りました。
店の中を振り返りました。
父が電話で大声を出しています。番頭さんが伝票を数えています。棚には反物がぎっしり積まれています。
二階には母がいます。夕方になれば、味噌汁の匂いが階段を伝って降りてきます。
生まれてから二十二年、私はずっとここにいました。
「わかりません」
私はそう答えました。
三浦さんは、それ以上聞きませんでした。
しばらく二人で雨を見ていました。
やがて三浦さんが言いました。
「東京へ戻ります」
私は顔を上げました。
「いつ?」
思ったより早く言葉が出ました。
「明後日」
「そうですか」
「取材が終わったので」
「そうですか」
同じ言葉しか出ませんでした。
「写真ができたら送ります」
「店に?」
「はい」
雨が弱くなりました。
雲の切れ間から西日が差し、濡れた通りに看板の文字が逆さに映っていました。
三浦さんがカメラを持ち上げました。
「一枚、撮っていいですか」
「私を?」
「はい」
私はとっさに髪へ手をやりました。
「嫌です」
「わかりました」
三浦さんは、すぐにカメラを下ろしました。
私は拍子抜けしました。
断られたら、もう一度頼むものだと思っていたのです。この町では、父も番頭さんも、断られてからが商売だと言います。
私も、もう一度頼まれたら、仕方がありませんね、と言って撮らせるつもりでした。
それなのに、三浦さんはカメラの傷を親指でこすっているだけでした。
「……普通、もう少し頼みません?」
「嫌なんでしょう」
「嫌ですけど」
「じゃあ、撮りません」
私は三浦さんの顔を見ました。
こちらが用意した順序を、まるで守ってくれない人でした。
「一枚だけなら」
三浦さんが顔を上げました。
「いいんですか」
「一枚ですよ」
私は軒先に立ちました。
「どこを見たらいいですか」
「どこでも」
「それが困るんです」
三浦さんは少し考え、通りの先を指しました。
「じゃあ、あっち」
岐阜駅の方角でした。
私はそちらを向きました。
雨上がりの通りを、荷物を積んだ自転車が走っていきます。
三浦さんがシャッターを切りました。
一度だけ。
カシャ、という音がしました。
私は振り返りました。
「もういいんですか」
「はい」
「一枚だけ?」
「一枚だけって言ったでしょう」
私は笑いました。
三浦修一さんが東京へ帰った翌日。
長谷川家では、私の縁談が決まりました。
相手は、名古屋の繊維会社の長男でした。
父は上機嫌でした。
「ええ話やぞ」
座卓の上に、一枚の写真が置かれていました。
背広姿の知らない男が、こちらを見ています。
「真面目そうな人やないの」
母が言いました。
「商売もしっかりしとる。向こうのお父さんとは昔から付き合いがある」
父が言いました。
私は何も言わず、写真を見ていました。
真面目そうでした。
父と昔から付き合いのある家の息子で、商売もしっかりしているそうです。写真一枚でわかることとしては、充分すぎるほどでした。
昨日、三浦さんが私に向けたカメラを思い出しました。
一枚だけ。
あの写真は、まだ暗い箱の中にあります。これから東京へ運ばれ、現像され、紙に焼かれて、初めて私の知らない私になります。
座卓の男の写真は、もう出来上がっていました。
「千代」
父が言いました。
「はい」
「ええな?」
私は窓の外を見ました。
六月半ばの問屋街は、今日も騒がしく働いていました。
荷車が走っています。男たちが叫んでいます。反物が運ばれています。
昨日と何も変わっていません。
「お父さんたちが、ええと思われるなら」
私はそう答えました。
父は満足そうにうなずきました。
母も、ほっとした顔をしました。
私は座卓の写真に、きちんと頭を下げました。
その夜、父と母が寝てから、帳場へ降りました。
机の引き出しには、商品の発送を調べるための時刻表が入っています。電灯をつけず、通りから差し込む看板の明かりで、それを開きました。
東海道本線、上り。
岐阜。名古屋。豊橋。浜松。
活字の上を、指で一つずつたどりました。
遠くで、夜汽車の汽笛が聞こえました。
私は指を、東京の文字の上に置いたままにしていました。

第一章 了
第二章「上京列車」へ


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