PLAYLIST STORIES SONG 02. 「明日のことは決して誰もわからない」Mr.Children『Tomorrow never knows』より SCENE.02 夜明けの海(前編)
タクシーは歌舞伎町を離れ、靖国通りを東へ走った。午前三時を過ぎていた。車の流れは少なかったが、街はまだ眠っていなかった。
赤信号の向こうに、新聞を積んだトラックが停まっている。歩道では、酔った男がガードレールにもたれていた。
後部座席の右側に、ヨシノ・ミカが座っていた。左側に、クロダ・ユウイチ。二人のあいだには、誰も座っていない席がひとつあった。
ミカは窓の外を見ていた。耳には白いイヤホンが刺さっている。
膝の上には黒いCDウォークマンがあった。
小さな丸い窓の下で、銀色のディスクが回っている。ユウイチには、そこから流れている音は聞こえなかった。ただ、ときどきミカの指が、本体の縁をなぞっていた。運転席のラジオから、男の声が流れていた。深夜の音楽番組らしい。天気予報と短い交通情報のあと、DJが落ち着いた声で曲を紹介した。
「それでは、globeで『DEPARTURES』」
シンセサイザーの音が、狭い車内に広がった。
今年に入ってから、街のどこへ行っても耳にする曲だった。コンビニでも。有線放送でも。大学時代の友人が乗っていた車の中でも。
「住所、わかりますか」運転手がルームミラー越しに尋ねた。
ユウイチは答えた。「はい。葛西です」
ミカは何も言わなかった。
交番では、家へ送ると約束した。
母親には何度電話してもつながらなかった。
父親はいないと、生活指導の記録に書いてあった。
だからユウイチが迎えに行った。担任だから。
それ以外の理由はなかった。少なくとも、警察官にはそう説明した。
タクシーは大きな交差点を曲がった。曙橋を抜け、四谷へ向かう。窓の外を、深夜営業のファミリーレストランが流れていった。
歩道橋。閉まった花屋。
看板の明かりだけが残る雑居ビル。ラジオから流れる女の声が、静かな車内を満たしていた。どこか遠くを見ているような声だった。
ユウイチは何度か口を開きかけた。
何があった。
どうして歌舞伎町なんかにいた。
家に帰りたくないのか。
聞くべきことはいくつもあった。
だが、ひとつも口にできなかった。
四月から教師になった。まだ七か月だった。去年の今ごろは、自分も大学の講義をさぼり、友人と安い居酒屋にいた。それが今は、十八歳の少女の隣に座り、教師らしい言葉を探している。見つかるはずがなかった。
「ヨシノ」
呼びかけても、ミカは振り向かなかった。イヤホンで聞こえていないのか。聞こえていて、無視しているのか。
ユウイチにはわからなかった。
四谷見附の交差点を通過した。
迎賓館の暗い塀が、窓の向こうに続いていた。
その先で、タクシーは首都高速へ入った。
坂を上り、街の明かりが少し遠くなった。
高架の左右に、ビルの窓が並んでいる。
黄色い照明が一定の間隔で車内を横切った。
明るくなる。
暗くなる。
また明るくなる。
ミカの横顔も、そのたびに現れては消えた。
青白い頬。乾いた唇。
目の下に残った、薄い化粧。
制服の袖口から、細い手首がのぞいていた。
ユウイチは気づいた。
ミカは窓の外を見ているのではなかった。
どこも見ていなかった。
ラジオの曲が、サビに入った。
運転手が、ハンドルの上で小さく指を動かしていた。
街じゅうの人間が知っている曲。
恋人同士が聴く曲。
別れた誰かを思い出す曲。
ユウイチにとっては、それまで、それだけの曲だった。
「ヨシノ」
さっきより強く呼んだ。
ミカはゆっくりと顔を向けた。
目が合った。その目に、怒りも悲しみもなかった。
何もなかった。
ユウイチが次の言葉を探した、そのときだった。
ミカの右手がドアの取っ手に伸びた。
ロックは掛かっていなかった。
カチッ。
小さな音がした。最初、ユウイチは何が起きたのかわからなかった。
ドアの隙間から、風が吹き込んだ。次の瞬間、ミカの髪が激しく乱れた。
「おい!」
ミカは身体を外へ向けた。
右足を浮かせ、開いたドアの向こうへ出ようとした。
タクシーは走っていた。首都高速の上を。
ユウイチは反射的に手を伸ばした。
制服の背中をつかんだ。布が指の中で滑った。
ミカの身体が半分、外へ傾いた。耳からイヤホンが抜けた。白いコードが風に暴れた。CDウォークマンが床に落ちた。イヤホンから漏れた音と、ラジオから流れる『DEPARTURES』が、一瞬だけ重なった。違う二つの曲が、風の中でぶつかった。
「馬鹿、やめろ!」
ユウイチはもう一度手を伸ばし、今度はミカの腰に両腕を回した。
力いっぱい引いた。
ミカの肩がドアにぶつかった。
ユウイチの背中が座席に叩きつけられた。
「停めてください!」
運転手が叫んだ。
「ドアを閉めて! 危ない!」
「停めろ!」ユウイチはミカを抱えたまま怒鳴った。
「早く停めてください!」
タクシーが大きく揺れた。
後ろからクラクションが鳴った。
運転手はハザードランプをつけ、速度を落とした。
ミカは抵抗しなかった。
ユウイチの腕の中で、力を抜いていた。
それが余計に怖かった。
逃げようとも。
泣こうとも。
助けてくれとも言わなかった。
ただ、外へ出ようとした。
この車から。
この街から。
おそらく、この世界から。
ラジオでは、まだ同じ曲が流れていた。
タクシーは非常駐車帯に滑り込んだ。
完全に停まると、ユウイチは開いたドアを閉めた。
風の音が消えた。
車内が急に静かになった。
ハザードランプの音だけが続いた。
カチ。
カチ。
カチ。
『DEPARTURES』が終わった。
DJの声は、すぐには戻ってこなかった。
ユウイチはミカから腕を離せなかった。
自分の手が震えているのがわかった。
「何してるんだ」
声がうまく出なかった。
「お前、何してるんだよ」
ミカは答えなかった。
顔を伏せている。
ユウイチは肩をつかんだ。
「死ぬところだったんだぞ」
それでも、ミカは何も言わなかった。
教師らしい言葉は、ひとつも浮かばなかった。
命を大切にしろ。
家族が悲しむ。
生きていれば、いいことがある。
どれも嘘に聞こえた。少なくとも、今のミカに言っていい言葉ではない気がした。
ユウイチは、ただ息をしていた。
荒い呼吸を繰り返しながら、目の前の少女がまだここにいることを確かめていた。
制服の肩。乱れた髪。膝の上に置かれた手。
それだけだった。
運転手がルームミラー越しに二人を見ていた。
「警察、戻りますか」
ユウイチは答えられなかった。
戻るべきだった。
救急車を呼ぶべきだった。
学校へ連絡するべきだった。
正しい答えはいくつもあった。
だが、そのどれを選べばミカを救えるのか、ユウイチにはわからなかった。教師になれば、生徒の苦しみに答えられると思っていた。
言葉を尽くせば、誰かの心に届くと思っていた。
今のユウイチにできたのは、走る車から落ちようとした身体を、力ずくで引き戻すことだけだった。
それ以上のことは、何もできなかった。
ミカが床に落ちたCDウォークマンを拾った。
蓋は開いていなかった。
再生も止まっていなかった。
白いイヤホンについた埃を指で払う。
ラジオでは、次の曲のイントロが始まっていた。
さっきまで流れていた曲の名前だけが、ユウイチの中に残っていた。
DEPARTURES。
出発。
けれど、ミカをどこへ行かせればいいのか、ユウイチにはわからなかった。
家なのか。
学校なのか。警察なのか。
それとも、どこにも名前のない場所なのか。
「先生」
ユウイチは顔を上げた。
ミカは前を見たままだった。
「海が見たい」
それが、歌舞伎町を出てから、ミカが初めて口にした言葉だった。
ユウイチは何も聞かなかった。
どうして海なのか。
海へ行って、何をするのか。
もう一度、死のうとしているのではないか。
聞きたいことはあった。
けれど、ユウイチは運転手に言った。
「海まで、お願いします」
「海って、どこの?」
ユウイチは答えに詰まった。
ミカが窓の外を見た。
首都高速の向こうで、東京の明かりが滲んでいた。
「朝が見えるところ」
運転手はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「わかりました」
タクシーは再び走り出した。
葛西の住宅地へ向かっていた車は、湾岸へ進路を変えた。
今度は、家ではなく、海へ向かって。
ミカはドアから離れ、座席の中央に座った。
ユウイチとの距離は、さっきより少しだけ近くなっていた。
二人のあいだで、白いイヤホンが揺れていた。
SCENE.02 後編へ
