PLAYLIST STORIES SONG 02. 「明日のことは決して誰もわからない」Mr.Children『Tomorrow never knows』より SCENE.02 夜明けの海(後編)
タクシーは首都高速を走り続けた。
窓の外から、ビルの明かりが少しずつ減っていく。
ミカは座席の中央に座ったまま、両手でCDウォークマンを持っていた。
白いイヤホンは耳に戻していない。
ユウイチも何も言わなかった。
さっきまでミカの身体をつかんでいた腕に、まだ力が残っていた。手のひらには、制服の布の感触があった。
少しでも遅れていたら。
あと一秒、手を伸ばすのが遅かったら。
考えないようにしても、開いたドアの向こうへ傾いていくミカの身体が何度も浮かんだ。
運転手はラジオの音量を下げていた。
メーターの赤い数字だけが、静かに増えていった。
誰も話さなかった。
タクシーは長い橋を渡った。
暗い海の上に、街の光が途切れ途切れに映っている。遠くに並んだ倉庫の照明が、海面で揺れていた。
やがて車は高速を降りた。
窓の外には、工事中の空き地が広がっていた。新しい道路。まだ何も建っていない土地。夜の中に取り残されたような街灯。
ここが東京だとは思えないほど、人の気配がなかった。
「このあたりでいいですか」
運転手が尋ねた。
ミカは窓の外を見た。
「はい」
タクシーは海浜公園の近くに停まった。
ユウイチは財布を開いた。
一万円札を運転手に渡す。
戻ってきた釣り銭は、思っていたより少なかった。
受け取るとき、指がまだ少し震えていた。
運転手は二人を見た。
何か言いたそうだった。
だが、結局何も言わなかった。
「気をつけて」
それだけ言って、ドアを開けた。
外へ出ると、冷たい風が吹いていた。
海の匂いがした。
歌舞伎町に残っていた煙草と酒の匂いが、風の中で消えていった。
ミカは海へ向かって歩き始めた。
ユウイチは少し離れて、その後ろをついていった。
砂浜には誰もいなかった。
黒い海が、一定の間隔で波を寄せていた。
街の明かりは遠かった。
空はまだ暗い。
けれど、海と空の境目だけが、わずかに青くなり始めていた。
ミカは水際まで行くと、砂の上に座った。
制服のスカートが汚れることを気にする様子もなかった。
ユウイチも、その隣に腰を下ろした。
二人のあいだには、一人分ほどの距離があった。
波の音だけが聞こえた。
「寒くないか」
ユウイチが言った。
ミカは海を見たまま答えた。
「平気」
それきりだった。
ユウイチは、何か話さなければならないと思った。
さっきのこと。
歌舞伎町にいた理由。
家のこと。
母親のこと。
これからどうするのか。
担任なら聞くべきことがある。
教師なら言うべきことがある。
けれど、どの言葉も、波の音の前では薄っぺらく思えた。
ミカは膝の上にCDウォークマンを置いた。
側面の停止ボタンを押す。
小さな音を立てて、ディスクの回転が止まった。
ミカは蓋を開けた。
中に入っていたCDを外し、ケースに戻した。
暗い海の底のような絵が描かれたアルバムだった。
ミカは鞄の中を探り、細長いケースを取り出した。
八センチのシングルCD。
透明なケースを開き、小さなディスクをウォークマンの中央へ押し込む。
カチッ。
蓋を閉じる。
再生ボタンを押す。
ディスクが回り始めた。
ミカは白いイヤホンを片方だけ耳に入れた。
もう片方を指に引っかけたまま、しばらく海を見ていた。
やがて、その手をユウイチの方へ差し出した。
「先生」
ユウイチは、差し出されたイヤホンを見た。
「これ、聴いて」
ユウイチは受け取った。
白いイヤホンを右耳に入れる。
すぐには音が流れなかった。
やがて、ピアノと、鉄琴のような澄んだ音が右耳に届いた。
ユウイチの知らない曲だった。
隣を見ると、ミカは目を閉じていた。
泣いてはいなかった。
表情も変わらなかった。
ただ、音の中に沈んでいくように、じっとしていた。
ユウイチも海を見た。
片方の耳から曲が聞こえる。
もう片方の耳には、波の音が入ってくる。
二つの音が混ざっていた。
ユウイチには、歌の意味はよくわからなかった。
けれど、その声には、遠くまで歩いてきた人間の疲れがあった。
何かを失って。
それでも、まだ先へ進もうとしているような声だった。
ミカはこの曲を、何度聴いたのだろう。
学校へ行く朝。
誰とも話さない帰り道。
家の中で、母親の帰りを待つ夜。
そして、歌舞伎町の路上でも。
ユウイチは何も聞かなかった。
ただ、同じ曲を聴いた。
それだけだった。
空が少しずつ白み始めた。
暗かった海の輪郭が見えるようになった。
波の先が朝の光を受けて、細く光った。
遠くの建物が、夜の中から浮かび上がってくる。
ミカが目を開けた。
「朝だ」
小さな声だった。
ユウイチはうなずいた。
「うん」
曲が終わった。
ミカは何も言わず、頭出しボタンを押した。
ディスクが回り直す音がした。
二人はイヤホンを外さなかった。
もう一度、同じ曲が始まった。
ユウイチは何も言わず、そのまま聴いた。
二度目は、最初より少しだけ音が近く感じた。
ミカの肩が、かすかに震えた。
寒さのせいかもしれなかった。
ユウイチは自分のダッフルコートを脱いだ。
ミカの肩に掛けようとして、手を止めた。
どこまで近づいていいのか、まだわからなかった。
ミカは、その動きに気づいていた。
「いい」
「寒いだろ」
「平気」
ユウイチはコートを自分の膝に置いた。
それ以上、勧めなかった。
太陽はまだ見えなかった。
けれど、空はもう夜ではなかった。
ミカはイヤホンを外した。
ユウイチも外した。
白いコードが、二人のあいだの砂の上に落ちた。
「学校、行くか」
ユウイチが言った。
ミカはしばらく海を見ていた。
「このまま?」
「このまま」
「制服、汚れてる」
「俺も砂だらけだ」
ミカは初めて、ほんの少しだけ笑った。
笑ったというより、口元がわずかに動いただけだった。
それでもユウイチは、それを見逃さなかった。
「先生」
「ん?」
「さっきのこと、学校に言う?」
ユウイチは答えなかった。
報告するべきだった。
警察に補導されたことも。
深夜に歌舞伎町にいたことも。
首都高速で起きたことも。
すべて。
ユウイチは海を見た。
朝の光が、黒かった水面を灰色に変えていた。
「言わない」
口にしてから、それが教師として間違った答えだとわかった。
ミカはユウイチを見た。
「どうして」
ユウイチは考えた。
生徒を守るため。
信頼しているから。
もう大丈夫だと思ったから。
そんな立派な理由ではなかった。
「わからない」
ユウイチは正直に答えた。
「でも、言わない」
ミカは何も言わなかった。
CDウォークマンを鞄にしまい、立ち上がった。
スカートについた砂を手で払う。
ユウイチも立ち上がった。
二人は駅へ向かって歩き始めた。
朝の街に、少しずつ人の姿が増えていた。
ジョギングをする男。
犬を散歩させる女。
配送トラック。
誰も、二人がどこから来たのか知らなかった。
誰も、夜の首都高速で何があったのか知らなかった。
学校に着くころには、いつもの朝になっていた。
生徒たちが下駄箱の前で笑っている。
教室では、誰かのポケベルが鳴った。
廊下を走る音。
教師の声。
ミカは何事もなかったように、自分の教室へ向かった。
ユウイチは職員室の前で立ち止まった。
報告書を書くなら、今だった。
生活指導の担当に話すなら、今だった。
だが、ユウイチは何も言わなかった。
職員室へ入り、自分の机に座った。
鞄を置く。
出席簿を開く。
いつもの朝の準備を始めた。
右耳に、まだイヤホンの感触が残っていた。
あの夜、ユウイチは初めてMr.Childrenを聴いた。
曲の名前は、あとでミカに教えられた。
『Tomorrow never knows』
あのときの二人は、その言葉の意味をまだ知らなかった。
SCENE.02夜明けの海 End
次回 SCENE.03 再会 ー 最終章(前編)
