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他人の過去           プロローグ

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「いってきます」

 娘の柚菜の声が聞こえた。その声は小さくて低く、鉛を飲み込んだような声だった。

「いってらっしゃい。大丈夫?」

 次に妻の沙知絵の心配そうな声がした。

 一人で朝食を食べていた私は、食べる手を止め、顔を上げた。

 玄関に向かう柚菜と目が合ったが、すぐに私の方から目を逸らし、下を向いた。

 次に顔を上げた時には、柚菜はすでに背中を向けていた。摺り足気味で歩幅が狭く、まるで足枷でもつけられているような歩き方だった。

 沙知絵がキッチンから出てきて、柚菜の後を追いかけていく。

 柚菜はこれから学校へ行くようだが、明らかにそれが嫌だという態度だった。

 情けない娘だなと、舌打ちをした。

 沙知絵のように優しく接する気にはなれなかった。学校で悩みがあるのかもしれないが、高校生が抱える悩みなど、軽いもので大したことはない。

 私なんて職場でもっと重い悩みを抱えている。

 そんなことで学校を嫌がるなんて、甘えているとしか思えなかった。

 柚菜は、自宅からバスで三十分ほどのところにある県立高校に通う高校一年生だ。学校がおもしろくないのかもしれないが、そもそも学校なんて、おもしろいところではない。

 それを我慢もせず、態度に出しすぎだ。柚菜がああいう態度をとるのは、沙知絵が甘やかしているせいだ。

「柚菜、無理しなくていいのよ」

 沙知絵がまた心配そうに声をかけている。

『沙知絵、放っておけ』と怒鳴りたい気分だった。

「うん、でも、大丈夫」

 柚菜は相変わらず元気のない声で答えた。

 大丈夫と言うのなら、もう少し元気な声を出して、親を安心させろ。

「本当に?」

 沙知絵、しつこいぞ。放っておけ。

「うん、心配しないで」

 柚菜よ、心配しないでと言うなら、嘘でも元気なふりをしろ。甘えるな。

「高校は義務教育じゃないんだし、嫌ならやめてもいいのよ。なんなら通信教育だってあるんだし」

 母親が娘をここまで甘やかすと、あきれるしかない。

「でも、お父さんが……」

『お父さんが』という柚菜のか細い声が耳に引っ掛かった。

 私のせいなのか。

 私のせいで学校が嫌なのか。

 いい加減にしろ。言いたいことがあるなら、面と向かって私に言え。

 その後の母娘二人の会話は、明らかに声が小さくなり、私の耳には届かなくなった。

 沙知絵が柚菜の耳元でコソコソと話している。きっと私の悪口でも言っているのだろう。

 コソコソと二人だけの話が終わると、柚菜が玄関で靴を履いた。

「じゃあ、お母さん、いってきます。心配しないで、大丈夫だから」

 柚菜は沙知絵に笑みを向けていた。

「わかった。でも、無理しないでね」

 沙知絵が柚菜の背中を撫でながら、送り出した。

 沙知絵は柚菜にだけは優しいなと思いながら、私はその様子をぼんやりと眺めた。

 最近、沙知絵の私と柚菜に対する態度には、明らかな違いがある。

 柚菜は私と目を合わせることもなく、「いってきます」の声もなく出て行った。

 柚菜は中学生の頃から私を避けるようになっていた。そして最近は、沙知絵まで私を避けるようになった。

 柚菜は、そういう年頃なんだろうと、なんとか理解し、受け入れた。

 だが、沙知絵までが私を避けるようになったことには、寂しさを越えて、絶望に近いものを感じていた。

 今の私は、家族ってこんなに冷めたものなのかと落胆している。

 家族になる前の方がよかった。

 きっと沙知絵もそう思っている。

 沙知絵は私と家族になったことを後悔しているのだ。

 沙知絵と出会った頃のことを思い出した。

 あの時、沙知絵は私ではなく、当時の店長と結婚していたらどうなっていただろう。

 きっと今ごろ、沙知絵の人生は色のついた、輝いたものになっていたはずだ。

 沙知絵は今、そう思っている。だから私に冷たい態度をとるのだ。

 あの日、あの事件がなければ、私と沙知絵が結婚することはなかった。

 まともに話をすることさえ、なかったかもしれない。

 沙知絵にとって、私の存在など、記憶の片隅にも残っていなかっただろう。

 ――あの事件さえなければ。

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まつまつま お読みいただき有難うございます。