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他人の過去           第1話 運命の出会い      

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 当時、私と沙知絵は、同じ食品スーパーで働いていた。

 私は精肉売場を担当し、沙知絵はレジを担当していた。

 沙知絵はすらりと背が高く、背筋がピンと伸びてショートカットの髪がよく似合う女性だった。丸みのあるきれいな額とはっきりした目鼻立ちが聡明に見えた。

 見た目だけでなく、実際に聡明な女性だった。

 仕事をテキパキとこなし、アルバイトに的確な指示を出す。他部署とのコミュニケーションもうまくてみんなからの信頼も厚かった。

 当時の店長も沙知絵を信頼していた。そして店長と沙知絵は付き合っている、結婚間近じゃないかという噂も飛んでいた。

 美男美女でお似合いだという人、仕事とのけじめがないと苦言を言う人、本人たちの知らないところで噂は真実のように渦巻いていた。

 その店長と私は同期入社だった。だが、その頃には、私と店長の出世には大きな差がついていた。

 私も沙知絵に秘かに好意を抱いていたが、背が低く小太りの上、若いうちから髪の毛がさびしいヒラ社員の私が店のマドンナのような沙知絵と釣り合うとは到底思わなかった。

 一方、店長はイケメンで、同期のなかでは出世頭だ。私が勝てる要素など微塵もない。

 私は沙知絵のことを高嶺の花だと思い、早々に白旗をあげていた。

 だから、沙知絵とは同じ職場でありながら、あまり言葉をかわすことはなかった。

 そんな私と沙知絵の距離が近づくことになるのは、ある事件がきっかけだった。その事件は店長が休みの日に起こった。

 あの日に店長が出勤していたら、私と沙知絵の人生は今とは大きく変わっていただろう。

 事件と言っても、最初のきっかけは、スーパーでのお客さんとのちょっとした揉め事だった。

 その日は朝から、銀色の針のような強い雨が降り、お客さんは少ない日だった。

 暇だったので長い時間、喫煙所でタバコを吸っていた私は作業場に戻る前に、フラッと店内を覗いた。

「このボケー」

 店内に入った時、レジの方から耳を裂くような怒鳴り声が聞こえてきた。お客さんが怒鳴っているのだとすぐにわかった。

 嫌な予感がしたが、無視することも出来ず、私は怒鳴り声のするレジの方へと向かった。

 見ると、レジに沙知絵が立っていて、男性のお客さんが沙知絵の前に立ち、彼女を睨みつけていた。

 面倒なことに巻き込まれそうだと思いながらも私は仕方なく沙知絵と男性客の立つレジへと向かっていった。

 怒鳴り声の主は、五十歳くらいで背は低く細くて鶏ガラのような男だった。

「謝ってすむもんじゃねえんだよ。だから、ちょっとわしに付き合えよ」

 男はそう言って沙知絵の左手首を掴み引っ張っていた。沙知絵は抵抗していたが、男は細身のくせに意外と力が強いようで、沙知絵はずるずると男に引っ張られていた。

「やめてください」

 いつも冷静でクールな沙知絵だが、この時はさすがに悲鳴のような声を上げた。

「やかましいわー」

 男は沙知絵の頭を張った。

「お、お客様、す、すいません。ど、どうされましたか」

 私は慌てて男のところまで行って声をかけた。

 男は私の方に振り返りぎょろりとした濁った目で私を睨んだ。男の顔を近くで見ると頬骨が出て顎が張った爬虫類のような顔だった。

「なんだ、てめえ。わしの邪魔する気か」

 男は私に顔を近づけ唾を飛ばしながら怒鳴った。男の口から飛ぶ唾液が顔面に当たる。

 まだ午前中だというのに男の吐く息は酒の臭いがプンプンとした。私は男の唾液で濡れた顔を拭い顔をしかめた。

「なんだー、そのツラは。わしは客だぞ。それが客に対する態度か」

 男は私の胸をドンとついた。

「も、申し訳ありません」

 とりあえず頭を下げた。男を冷静にさせて帰ってもらうしかない。

 顔を上げてから、沙知絵の方にチラリと視線を向けると、沙知絵は唇を噛みしめて俯き加減でいた。

 私の視線に気付いたのか、顔を上げた時に目が合うと、沙知絵は私に向けて申し訳なさそうに眉をハの字にして小さく頭を下げた。

「何があったの?」

 沙知絵に近づき声をかけた。

 すると、すぐに男が口を挟んできた。

「どうもこうもねえよ。この姉ちゃんがわしから余分に金奪おうとしたんだよ」

 男はそう言って沙知絵を睨めるように見た。

「奪おうだなんて、そんな……」

 沙知絵が反論しようとしたが、私は手で制した。

「そうでしたか。それは申し訳ございませんでした」

 私は男に向かって深々と頭を下げた。沙知絵に非がなさそうだが、ここは謝って終わらせようと思った。

「謝ってすむかよ。ボケ」

 男は私に向かって、ペッと唾を吐いた。それが私のズボンにかかった。見るとズボンの裾に黄色い痰のようなものがついていた。

 腹が立ったが、手を出すわけにはいかない。腕力には全く自信がない。反対にボコボコにされるのがオチだ。

 それから男は意味不明な言葉を喚きちらしていたが、それを整理すると、男の買った酒が値札より高くレジで請求されて、その差額を沙知絵がネコババするつもりだったと怒っているようだった。

 確かに値段を間違えるのは、お客さんに迷惑がかかるからあってはならないことだ。

 しかし、だからと言って、沙知絵がネコババしようとしたと怒り出し、彼女を外に連れ出そうとするのはおかしい。

 私はお詫びをし、余分に受け取ってしまったお金を返金すると言った。

「金なんて、どうでもいいんだよ。この姉ちゃんをわしの家に連れて行って、土下座させてから酌してもらうんや。なんだかんだ言ってもこの姉ちゃんベッピンやからそれで許したるわ」

 男は卑しい笑みを浮かべ、また沙知絵の左手首を握って連れだそうとした。

「申し訳ありません。それでしたら彼女の代わりに私がお客様のご自宅まで行かせていただきます」

 私はそう言った。私も必死だったのだろう。気の弱い私だが、この時は男に対する恐怖心は消えていた。

 店長がいない以上、自分が何とかしなければならない、沙知絵を守らなければならないと思った。

 私は沙知絵と男を引き離そうと、沙知絵の腕を持つ男の手首を強い力で握った。腕力には自信がないが、毎日のように包丁を握り肉を切っているためか、握力には自信がある。

 それでも男がなかなか沙知絵の腕を離そうとしないので、つい男の手首を握る手に力が入った。

「いてー」

 男が悲鳴をあげ、沙知絵の腕を離したので、私も男の手首を持つ手を緩めた。

 その瞬間だった。男の拳が私の顔面に向かって飛んできた。

『バシッ』という鈍い音がした。

 顔面に痛みが走り、目の前に赤いものが飛んだ。頭がボーッとして体がふらつく。

 倒れまいと前屈みになった瞬間、目の前に汚れた黒い革靴が見えた。次の瞬間、そのつま先が鳩尾に突き刺さった。 

 目の前が真っ暗になり、続けて鳩尾に鈍い痛みがした。私は尻餅をつくように後ろに倒れた。

 胃の中から酸っぱいものがこみ上げてきた。気が遠くなり床にうっぷせた。

『キャー』という耳をつんざく悲鳴が遠くの方で聞こえた。

 床に倒れたが意識はあった。しかし、起き上がりたくても体に力が入らず起き上がれない。体が言うことをきかない。たくさんの足音が床に響いて聞こえてくる。

「すぐに警察呼んだ方がいいわ」

 甲高い女性の声がした。

「それより救急車よ。早く救急車、誰か呼んであげてー」

 悲鳴のような声がした。

 次々にあちこちから声が飛んでくる。

 倒れたまま首だけを持ち上げると男と視線がぶつかった。男は口を開け、少し青ざめて震えていた。

「お、お前が悪いんやぞ」

 男は私に向けて人差し指を向けた。

「お、お前が先に、手出したんやからな」

 男はそこまで言って、「どけ、どけー」と野次馬をかき分け、逃げるように走って店を出て行った。

「大丈夫ですか?」

 入社二年目の男子社員の三宅が私の前に屈んで、声を掛けてくれた。

「あ、ああ、だ、大丈夫だ」

「大沢さん、立てますか? 肩貸しましょうか」

 三宅が肩を貸してくれた。三宅は学生時代柔道部でガタイがいい。

「ああ、ありがとう」

 私は鼻をおさえながら三宅の肩に手を置いて立ち上がった。しばらくフラフラしていたので三宅の肩に手を置いたままにした。

 立ち上がってから周りを見渡すと従業員やお客さんの視線が私に集中していた。今の騒ぎで、みんな買い物どころではなくなったようだ。

「あらー、大変、鼻から血が出てる。救急車呼んだほうがいいわ」

 いつも肉を買ってくれる常連の女性のお客様が私の顔を見て、眉をハの字にして言った。

「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です。ご心配おかけしました」

 私はそう言って三宅の肩から手を離し、ふらつきながらも頭を下げた。

 そして、周りを見渡すと「ありゃー」と自然と声が出た。

 私の鼻血がレジやレジ台、床に飛び散っていた。自分のお腹に視線を向けると、白衣が赤く染まっていた。鼻を指で触ってみると指にべっとりと赤いものがついた。

「本当に大丈夫ですか」

 沙知絵が心配そうな顔をしていた。

「大丈夫だよ。それより、この辺を汚しちゃって申し訳ない」

 私は沙知絵に向かって頭を下げ、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、血が飛び散っているレジ台を拭いた。

 しかし、私の色褪せた薄っぺらいハンカチでは、焼け石に水だった。ハンカチはすぐに真っ赤に染まり、赤い血をレジ台の上に引き伸ばしているだけで、余計にレジ台は汚れてしまった。

「そんなこといいです。わたしの方こそ、ごめんなさい。大沢さんは悪くないのに」

 沙知絵がそう言ってポケットからハンカチを取り出した。そして、私の目の前に立ち、ハンカチを持った手を伸ばし私の鼻にそっと当てた。

 ハンカチから花のようないい匂いがした。沙知絵の手の感触がハンカチ越しに鼻に伝わる。私はそのまま気を失いそうになった。

 沙知絵とまともに会話をしたのはこれがはじめてだった。この日の夜は、沙知絵のことで頭がいっぱいで眠れなかった。ギュッと枕を抱きしめて沙知絵のことを思った。

 次の日、家を出ると前日とは打って変わって、雲ひとつない真っ青な空が広がっていた。店は前日の大雨の反動で、朝の開店からたくさんのお客さんが買い物に来てくれた。昨日の怪我は大丈夫だったのか、とあたたかい声を掛けてくれるお客様もいて、有り難くて胸が熱くなった。沙知絵のことが気になったが、姿が見えなかった。

 作業場で忙しく肉を切っていた。すると、ドアの窓から誰かがこっちを覗いている気配を感じた。肉を切る手を止めて、スイングドアの窓に視線を向けた。小さく四角い窓の向こうに沙知絵の小さな顔が見えた。

 窓越しで目が合った瞬間、沙知絵がぺこりと頭を下げた。その時、私の胸は跳ねた。とりあえず私も小さく頭を下げて、慌てて手を洗い作業場から出ていった。

「お、お疲れさま。どうかしましたか?」

 私は後頭部を掻きながら挨拶をした。顔が熱くなっていくのがわかった。

「昨日は助けていただいてありがとうございました」

 沙知絵はいつものように背筋をピンと伸ばしてから腰を折った。

「礼なんていいですよ。それより鼻血でレジの周り汚しちゃったから、反対に迷惑かけちゃったんじゃないかって心配でした。それに助けるどころか、殴られて蹴られてぶっ倒れて、ほんとみっともなかったです」

 沙知絵を前にして体の温度がドンドン上昇していくのがわかった。前日に沙知絵が鼻に当ててくれたハンカチのいい匂いを思い出した。

「いえ、そんな、みっともないことなんて絶対にありません。大沢さん、すごくかっこよかったですし、わたし、すごく感謝しています」

「そ、そう。それなら良かったけど」

「あ、あの、これ、昨日のお礼です」

 沙知絵が紙袋を私の前につき出した。

「えっ」

 私はつき出された紙袋を見た。近くにある百貨店の紙袋だった。

「これは?」と沙知絵の顔を見て訊いた。

「昨日、大沢さんのハンカチ汚れちゃってたので、これハンカチです」

「あ、ありがとう。あんなボロボロのハンカチなんてどうでもよかったのに」

 私はボリボリと後頭部を掻いた。

「いえ、そういうわけにはいきません。どうぞ、受け取ってください」

 沙知絵が紙袋を持った両手を伸ばしてペコリと頭を下げた。

「あ、ありがとう」

 私は汗ばんだ両手で紙袋を受け取った。わざわざ百貨店まで、これを買いに行ってくれたのかと思うと胸が熱くなった。外見がきれいなことはわかっていたが、心まできれいな女性だ。私は完全に沙知絵に惚れてしまった。

 月とスッポン、美女と野獣、周りはバカにするかもしれないが、そんなことはもうどうでもいい。私は彼女に惚れた。この気持ちを彼女に伝えたいと思った。

 以来、私は沙知絵とよく言葉を交わすようになった。沙知絵と話してみると、新しい発見がいろいろとあった。彼女はクールでとっつきにくい印象だったが、おちゃめな一面も見せてくれた。本当は優しくておもしろい女性だなと思った。日に日に彼女への気持ちが膨らんでいくのを実感した。

 沙知絵は私のことなど、ただの職場の先輩の一人としか思っていないかもしれないが、とりあえずそれでもいい。自分の気持ちを伝えるだけは伝えたい。

 それから、一ヶ月が経ったある日、思わぬ形で沙知絵を食事に誘うチャンスがやってきた。休憩中に見ていたテレビ番組でお好み焼の特集をやっていた。それを見ていた沙知絵が久しぶりにカキオコを食べたいなと、独り言のように言った。

 カキオコとは、この地域で有名な牡蠣を使ったご当地グルメだ。

 私はその声を聞き逃さなかった。食事に誘うチャンスだと思った。カキオコなら行きつけの美味しい店を知っている。

「カ、カキオコが、す、好きなの?」

 少し震える声で沙知絵に訊いた。

「はい。好きです。久しぶりに食べたいです。大沢さん食べに連れてってくださいよ」

 にこやかでハツラツとした沙知絵の声に頭が真っ白になった。もちろんオーケーしたのだが、その時どんな言葉を発したのか記憶が飛んでいる。

 三日後の仕事終わりにカキオコを食べに行くことが決まった。それからの私は眠れない夜が続いた。

 彼女にとっては、今回カキオコを二人で食べに行くことは男女のデートのつもりではなく、たまたま話の流れでカキオコを食べに行くことになっただけかもしれないが、私にとっては一世一代の勝負の時だ。

 生まれてはじめて女性と二人きりで食事に行く。それも大好きでたまらない女性と行くのだ。

 ここで告白しなければ一生後悔するだろう。ダメでもいい。ダメで当たり前なんだ。断られることを恐れるな。気持ちを伝えるだけでいい。断られたら、今まで通り職場の仲間として接すればいいんだと、三日間、布団のなかで自分に言い聞かせた。

 沙知絵と二人だけでカキオコを食べた。

しかし、この時のカキオコの味は、ほとんど覚えていない。

 緊張していて、全く味わう余裕がなかったからだ。

 飲み過ぎてはいけないと思いながらも、ビールばかりをあおっていた。

 目の前では美味しそうに沙知絵がカキオコを食べて、そして生ビールを飲んでいた。ゴクゴクと喉を鳴らしてジョッキから口を離した瞬間に私に向かって嬉しそうな笑みを向ける。その表情に私の胸が跳ねまくった。

 カキオコを食べた帰り道、覚悟を決め沙知絵に交際を申し込んだ。

「はい」と返事をもらった時は、夢のようだった。

 気は早かったが、私の両親が築いてくれたようなあたたかい家庭を彼女といっしょに築くんだと心に決めた。

 なのに、そうはならなかった。沙知絵は変わってしまった。あの頃の聡明で心優しい沙知絵はどこにいってしまったんだろう。

 あの日、あの酔っぱらいがクレームをつけなければ、私と沙知絵は結婚していなかっただろう。

 あの頃はあの事件のおかげで沙知絵と結婚できたと喜んでいたが、最近はあの事件のせいで、お互いが不幸になってしまったと思うようになった。

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まつまつま お読みいただき有難うございます。