他人の過去 第2話 疲れた人生
柚菜は「行ってきます」とも言わず学校へ行き、沙知絵はパートに行った。
仕事が休みで残された私は、一人で朝食を食べた。朝食といっても、沙知絵が準備していたのはシリアルだけだった。
それにタプタプと牛乳をぶっかけた。牛乳で湿っていくシリアルを見て虚しい気持ちになった。それが朝食だとは認められなかった。不味いとはいわないが、おやつのようにしか思えない。
つい最近までの大沢家の朝食は私の好きな和食だった。それが急にシリアルに変わってしまった。
たぶん、和食は作るのが面倒なのと、沙知絵が年頃の柚菜の好みに合わせたのだろうと思った。
確かに朝から和食を作るのは大変だとは思うし、娘を優先するのは仕方がない。
でも、家族の一員である私に、一言くらい相談があってもいいだろうと思う。
私は白いご飯に焼き鮭、それと味噌汁にお新香、そんな和の朝食が大好きだ。それを家族揃って食卓を囲んで食べるのが理想だ。
沙知絵もそれを知っているはずなのに、全く相談もなく、ある日突然変わってしまっていた。
一ヶ月ほど前、目を覚ますといつもの味噌汁の香りがしなかった。おかしいなと食卓を見ると、シリアルの入った深めの皿がテーブルの上にポンと置いてあるだけだった。
「えっ、なんだこれ?」
私はシリアルの入った深めの皿を見ながら沙知絵に訊いた。
「朝御飯、今日からこれにしました」
沙知絵が平坦で無機質な声で言った。
「俺に相談も無しにか」
私が言うと、沙知絵は言葉を発することなく、大きくため息を吐いてから私を睨んだ。
私は次の言葉を飲み込むしかなかった。
私が子供の頃、母は和の朝食を毎日のように作ってくれた。メニューは焼き鮭やだし巻き卵、明太子、ひじきの煮物、酢の物、納豆、焼き海苔、梅干し、沢庵など、日によっていろいろと変わった。
その頃の朝食はいつも父親の拓三と母親の五月と私の三人で食卓を囲んだ。裕福な食卓ではなかったかもしれないが、贅沢な食卓だった。
母親の作る朝食は本当に美味しかったし、両親と過ごす朝のその時間が幸せだった。
その朝食のおかげで、一日を元気にスタートできる気がした。学校で嫌なことがあっても朝食を食べると元気になれた。
しかし、そんな幸せだった子供の頃の朝食の時間も突然無くなってしまった。
それは私が十二歳の時に父親が重い病に倒れ、そのまま亡くなってしまったからだ。
父親が亡くなってから母親はめっきり元気を無くしてしまい、朝食は食パンを焼いたものと牛乳だけに変わってしまった。そんな母親も私が二十五歳の時に父親と同じ重い病に倒れた。
それからの私は一人で暮らした。一人で暮らすようになってから私の生活から朝食は消えた。
私にとっての朝食は家族の幸せの象徴みたいなものなのだ。
沙知絵は自宅から自転車で十五分くらいのところにあるショッピングセンターマルナカというスーパーでレジの仕事をしている。
週に五日、午前九時から午後五時まで長い時間働いている。
こんなに働いているのは、私の給料が安いからだと、沙知絵は思っているのかもしれない。
それにしても、沙知絵はなぜこんなに私に対して冷たくなってしまったんだろうか。いつ頃から私たち夫婦はこんなに冷めてしまったのだろう。
こうなってしまったのは、ここ最近のはずだ。柚菜が高校に入学するまではこんなことはなかった。
これまでもお互いに不平不満をぶつけ合うことはあったが、今のように刺々しく冷めた感じではなかった。
夫婦喧嘩することはあったが、知らない間に仲直りしていた。今は喧嘩しているわけではないので仲直りのしようもない。
強くはないが、非常に冷たい風が二人の間に吹いている。沙知絵が私に愛想をつかせ冷めてしまったようだが、なぜ愛想をつかせてしまったのか、その理由が全くわからない。
シリアルを食べ終えて、沙知絵と柚菜が帰宅する前に家を出ることにした。
職場の後輩の高山と清水に誘われ、三人でボートレースに行ってから飲みに行く約束をしていた。
私と高山、清水の三人は同じ食品スーパーで働いている。
高山は野菜売場を担当し、清水は鮮魚売場を担当している。二人とも歳は私より五つ年下だ。
私は精肉売場を担当し、毎日肉を切りパックをして冷蔵ケースにそれらを並べる。お客さんから昨日買った肉が美味しかったと言われるとすごく嬉しい気持ちになるが、仕事の喜びはその一瞬だけだ。
お客さんに喜ばれたからといって給料が上がるわけでもない。
反対にお客さんからクレームが入ると頭を下げ、酷い時は、お客さんが本社に連絡を入れて、同期入社のイケメンの部長が真っ赤な顔をして店に現れる。
部長は言いたいことだけを早口で捲し立て、私の評価を下げて現場を後にする。
部長は、昔、沙知絵と噂のあった店長だ。
この部長と沙知絵が結婚していたら、沙知絵の人生はどうなっていたのだろう。
部長なら沙知絵を幸せにしていたのだろうか。
私と高山と清水は職場からも家族からも見放されて毎日愚痴を言い合う仲間だった。
だから、三人でたまに飲みに行く。思いっきりビールを飲んで、ゲロといっしょに嫌なことを全て吐き出すのだ。
私は入社して二十八年になるが、役職は未だにチーフだ。同期の連中のほとんどが現場から離れ、課長や部長になってバリバリと会社のために働いている。
私だって会社のために真面目にバリバリと働いてきたつもりだが、上からの評価は同期の中では下の下の下だ。
人事の評価なんて結局は上司の好き嫌いで決まってしまうものだと、出世を諦めてからどれくらいの年月が経つのだろうか。
入社した日のことを思い出す。
あの頃は希望に満ちあふれ、精肉の担当者としてやりがいがあった。しかし、そのやりがいは日に日に削ぎ落とされて、今ではほとんどなくなってしまった。
この日は高山と清水と三人で盛り上がった。最後のジョッキを空にしてから居酒屋を後にした。
まだまだ話し足りなかったが、清水がハイペースで飲み過ぎて、体調が悪くなったのでお開きすることにした。
居酒屋を出て、駅へと抜けるシャッター街を横一列に並んで歩いた。シャッターが風で揺れ、我々の心のような鈍い金属音を響かせていた。
清水がフラフラと鈍い金属音に引っ張られるようにシャッターの前に立つ電柱に体を預けた。
三人の中で一番アルコールの弱い清水が今日はハイペースで一番量を飲んでいた。
「清水、大丈夫か?」
私が声をかけたら、清水は電柱に額を当て左手を上げた。
清水は、「だい、……」と言ったところで言葉を切り、「じょうぶです」という言葉の代わりに、「ゲボッ」と喉の奥から音を出して、電柱に額を当てたまま思いっきりゲロを吐いた。
私は慌てて清水の元まで行き、清水の背中をさすった。
「おい、大丈夫か」
清水の体は痙攣していた。
清水の口から吐いたものが次々と地面に落ち、足元に大きな水たまりができていった。
清水は胃の中が空っぽになっても、「オエー、オエー」と喉の奥から苦しそうな声を漏らしていた。
横顔を覗き込むと、目から涙が溢れていた。
清水は先月離婚した。
これまで飲みに行く度に奥さんの愚痴をこぼしていた。さっさと別れて自由になりたいと言っていたはずなのに、離婚してからの清水はめっきり元気を失っていた。
清水から離婚することになったと聞いた時、私は、「自由になれるから良かったな」と言ってしまった。
清水はその時、目尻が上がり、キッと私を睨んだ。
「良いわけないですよ」
大人しい清水がめずらしく声を荒げて唇を尖らせた。
「えっ、そ、そうなのか」
「当たり前です。離婚して良いわけないです」
「す、すまん。お前、奥さんと別れたかったんじゃなかったのか」
「本気で思ってるわけないでしょ」
「そ、そうだよな。すまん」
私はもう一度、謝って俯いた。
自分も沙知絵のことを愚痴ってはいるが、本当に別れるとなると、こうなってしまうのだろうかと思った。
しかし、沙知絵の方は早く別れたいと思っている。目の前の清水の姿は、近い将来の自分の姿なのかもしれない。
清水は、その後、俯いたまま何も言葉を発しなかった。
この飲み会は清水を元気づけようと、高山が計画をしたものだった。私もなんとか清水を元気づけたいと、高山の計画にのった。
しかし、清水の背中をさすりながら目から落ちる涙を見ていると、私と高山の計画は効果が無かったように思えた。
清水が少し落ち着いたので、また三人で駅へと向かって歩いた。夜空を見上げると三日月が涙目のように見えた。
駅に着いて、そこからは三人の帰る方向はバラバラだ。
高山は徒歩で帰る。私と清水は電車に乗って帰るのだが、帰る方向は逆だ。
駅に着いてから高山が清水はタクシーで帰らせた方がいいんじゃないですか、と言ってきた。
意識はしっかりしているように見えたが、私もその方が安心だと同意した。
清水をタクシーに乗せるために駅のロータリーにあるタクシー乗り場へと三人で向かった。
高山が清水を抱え、私は駅前で待つタクシーの運転席側に回りドアの窓を叩いた。
「すみません」
俯いていたタクシーの運転手が気付いて顔を上げ、私に視線を向けてから窓を開けた。
「はい」
「彼を自宅までお願いできますか?」
高山が抱える清水に視線を向けて言った。
運転手は後ろのドアの前に立つ二人を見てから眉間に皺を寄せた。
「抱えられてる人?」
運転手が私に訊いた。
「はい、そうです」
「大丈夫なの? 中で吐かない?」
運転手が口元を歪めた。
「大丈夫です。もう全部吐き出してますから」
私はそう言って財布から五千円札を抜き取り、運転手の目の前に出して行き先を伝えた。
運転手は渋々といった感じで五千円札を受け取り、「フゥーン」と不満そうな息を吐いてから後ろのドアを開けた。
高山が清水を後ろの座席に押し込んで、運転手に向かって「すみません」と頭を下げた。
私も「すみません、お願いします」と頭を下げた。
「清水、大丈夫だな。気をつけて帰れな」
高山がタクシーを覗きこんで言った。
「有難う。迷惑かけたな。もう大丈夫だ」
清水は右手を上げて高山に言った。
「清水、お疲れ」
私が言うと、清水は、「大沢さん、今日はありがとうございました」と言って鼻をすすりだした。
「いいよ、いいよ」
清水の意識はしっかりしたようだ。少し安心した。
「じゃあ、運転手さん、お願いします」
運転席を覗きこんで、もう一度頭を下げた。
運転手は私を一瞥してすぐに車を出した。走り出したタクシーの赤く光るテールランプを見ながら、高山と同時に「フゥー」と息を吐いた。
「清水、大丈夫ですかね?」
高山が私の横に立って訊いた。
「大丈夫だろ。酔いはさめてたんじゃないかな。電車でも帰れたかもしれない」
「いや、そっちじゃなくて」
「えっ?」
高山に視線を向けた。
「離婚の方ですよ。離婚してあんなに落ち込むとは思ってなかったんですけどね」
高山が両肩を上げ首を傾げた。
「そうだな。清水も奥さんのこと愚痴ってばかりだったからな。早く別れたい、なんて言ってたもんな。離婚が決まってスッキリしたのかと思ってたんだけど、本当に別れるとなるとやっぱり違うんだろうな。本心は新婚の頃ような関係に戻れることを期待してたのかもな」
そう言ってから自分はどうなんだろうかと思った。
「大沢さんは、どうなんですか? 大沢さんも別れた方がスッキリするって言ってましたけど、本心は奥さんと新婚の頃のように戻りたいんですか?」
私の心を読んだかのような高山の質問に、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「いやー、どうなんだろうな? わかんねえな。けど、今のままだと別れた方が嫁さんも娘も幸せな気がするけどな。いっそ死んでほしいと思われてるかもな」
今の私は自宅に帰っても寛げる場所はない。沙知絵の私を見る視線は、ここ数ヵ月、日を追うごとに冷たくなっているように感じる。
柚菜は年頃になったせいもあるのだろうが、私とは目も合わせようとしない。
自宅に私の居場所など全くないと言っていい。
自宅は三十年の住宅ローンを組んで買った。郊外に買ったばかりに三十分だった通勤時間は二時間近くになってしまった。
職場で辛い思いをしても、ローンの支払いのことを考えると、グッと我慢して働かなければならなかった。
そんな思いをして買ったマイホームなのに、寛ぐ場所がないなんて本当にやりきれない。
高山は私たち三人の中では一番幸せそうに見える。普段奥さんとの会話が無いが、たまに口を開けば愚痴ばかり言われると話していた。
でも、高山には私や清水のような陰鬱な感じがない。高山になぜそんなに元気なのかと訊いたことがあるが、高山は「まっ、お互い様だから」と言って笑っていた。
仕事の愚痴を一緒にこぼしても、高山だけは笑い話のように話す。
そして、仕事の評価が低くても、「俺の場合はちゃんと仕事してないから、仕方ないですけどね」と笑う。
私から見れば、高山の仕事ぶりはちゃんとしている。いつもお客さんのことを考え、お客さんに愛想よく振る舞っている。私たち三人の中では一番頑張っていると思う。
「大沢さん、今日はありがとうございました。清水を元気にできませんでしたけど、俺はすごく楽しかったです」
高山が別れ際にそう言って笑みをくれた。
「俺も楽しかった。また清水を元気づけてやろうな」
そうは言ったものの、清水を元気づけるほど、自分自身に元気がない。高山といっしょにいる間はいいが、高山と別れた途端、うつな気分になる。
「そうですね、人生はまだまだこれからですよ。楽しみましょうね」
高山が溌剌とした声で言った。
「そうだな」
私の声は風にかき消されるような小さな声になってしまった。
高山は私に向かって右手を高く上げ大きく振りながら、私が駅の改札に向かうのを見送ってくれた。
高山はいつも元気で、落ち込まない。あいつは強いなと思った。
高山と別れて駅のホームに上がるとすぐに電車が入ってくるのが見えた。
このままホームから飛び込めば楽になるのだろうか、天国に行けば、早くに死別した父親と母親と天国で幸せに暮らせるのかもしれないと、ふと思った。
でも、この時は飛び込む勇気などなかった。
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