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他人の過去           第3話 生きていても仕方ない       

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第2話 疲れた人生はこちら

 自宅の最寄り駅に着いた。ここから二十分かけて急な坂道を上らなければ、自宅にはたどり着かない。

 自宅に着いた時の沙知絵の表情が頭に浮かぶ。また、深くて重いため息が出た。吐いた息が宙で白く濁って消えていった。

 居場所のない自宅へとなかなか足が向かない。このまま帰りたくない気分だ。

 信号が青に変わったが、進まずタバコに火をつけた。周りは足早に信号を渡って行く。

 タバコを吸っているうちに信号が赤に変わった。吸殻を地面に捨てて踏みつけた。

 その時、体が車道側にふらついた。

『キキキキキッー!』

急ブレーキの音が耳をつんざいた。

 顔を上げると、目の前にトラックが向かってくるのが見えた。

『バァーン』

 鈍い音がした。頭と胸の辺りに強い衝撃を感じた。

 目を開けると白い天井が見えた。蛍光灯の白い光が目に刺さり視界が少しぼやけた。

 瞬きを繰り返し、明るさに目が慣れると視界の端に白いものが見えた。視線をゆっくりと天井から移動させると白衣姿の男が立っていた。

 男の顔を覗きこむ。年齢は私よりだいぶ若そうだ。三十代くらいだろうか。ボリュームのある黒々とした頭髪の下に小さくて白い細面の顔が覗いていた。

 細いフレームの眼鏡の奥の切れ長な目が私の顔に向けられている。薄い唇は真一文字のままで平坦な表情をしている。

 男は医者のようだ。その隣に看護師らしき女性が立っていた。女性の背丈は隣の医者の肩くらいまでしかないが、横幅は医者の倍ほどあった。鼈甲の眼鏡から覗かせるギョロリとした目と気だるそうに首を折る仕草にベテランの貫禄を感じた。

 二人の顔を交互に見てから、今の状況を考えてみた。確か高山と清水と三人で飲みに行ったあと、二人と別れて帰路についた。

 その後、駅に着いてから信号待ちでタバコに火をつけた。その後だ。体がふらついてトラックが向かってきたのだ。

 きっとトラックに跳ねられてここにかつぎ込まれたのだろう。自分の体はどうなっているのかと、恐る恐る首を左右に動かしてみた。意外とスムーズに動く。首に痛みは全く感じない。

 起き上がろうと首を少し枕から持ち上げた。痛みもなく簡単に持ち上がった。

 体は大丈夫そうだ。次に腹筋を使い体をゆっくりと起こしてみた。やはり痛みもなく簡単に体を起こすことができた。

 以前より体が軽くなった気がする。これまでなら寝ている体勢から脂肪だらけのブヨブヨとした体を起こすのに腹筋だけでは無理で、後ろ手に両手をつかないと起き上がれなかった。今は簡単に、ヒョイッと起き上がることが出来た。自分の体とは思えないくらいに軽い。

 一体ここはどこの病院なんだ。このイケメンの医者に訊いてみようとイケメンの涼しそうな目を覗き込んだ。

「あのー、すみません」

 イケメンに向かって声を発した。イケメンは私の声が聞こえていないのか、全く反応せず平坦な表情のままだった。

 それに、私はベッドの上で体を起こしているというのに私の方に視線を向けることなく、じっと枕元を見ている。

 おかしいなと首を傾げた。普通の医者なら、患者の意識が戻り起き上がったら、『起き上がらないでもう少し安静にしていて下さい』だとか、『意識が戻りましたか? それは良かったです』だとか、声を掛けそうなものだ。

 イケメンは私に顔を向けることなく、ずっと、平坦な表情で枕元に視線を向けている。

 隣のベテランの看護師を見ると、医者と同じく私の存在を無視するかのように、じっと手元の資料に視線を落としていた。

「あのー、ここはどこの病院ですか?」

 二人に訊いてみたが、全く反応がない。

 背中に人の気配を感じたので、後ろに首を回した。すると沙知絵と柚菜が立っていた。

「沙知絵、柚菜、来てくれてたのか」

 沙知絵と柚菜に向かって言ったが、医者と同じように私に気付かない様子でずっと俯いていた。

「サチエ」

 病院の中だが、大きい声で呼んだ。

 それでも、沙知絵からは何の反応もなく、下を向いたままだった。柚菜も同じだ。医者も看護師も反応がない。

「死んじゃった?」

 沙知絵の隣に立つ柚菜が呟くように言った。

 柚菜が『死んじゃった?』と言ったのは、どういう意味だ。私はこうして意識が戻り生きているじゃないか。

「柚菜、お父さんは死んでないぞ。意識を失っていただけだ。今さっき意識も戻ったぞ」

 柚菜の顔を覗きこんだ。柚菜は私の言葉を無視して、口を尖らせて気だるそうな表情を浮かべていた。

「おい、柚菜」

 呼んでみたが同じく全く反応がない。

「どうなってんだよ」

 私は少し苛立ち、枕元に視線を向けた。

 そこで、「うげっ」と喉の奥から変な声が勝手に出た。

「どういうことだ」

 枕元から視線をそらし、天井を見上げて深呼吸した。

「意味がわからん」

 もう一度、枕元に視線を向けた。

 ベッドには私自身が横たわっている。頭に包帯が巻かれていて、顔は腫れているが、私に間違いない。今私はこうしてベッドから起き上がり座っているのに、ベッドに横たわり眠っている別の私がいる。

 ベッドから出て、立ち上がり、ベッドで横たわる私ををよく見る。やはりベッドで眠っているのは私自身だ。

 沙知絵、柚菜、医者、看護師を順に見た。四人とも、私の存在に気付いていない。四人ともベッドに横たわるもう一人の私をじっと見ていた。

 そしてイケメンの医者がベッドに横たわる私に顔を近づけて瞳孔を確認してから腕時計に視線を落とした。

「十一月十一日、午前十一時五十八分、今お亡くなりになりました」

 イケメンはそう言って沙知絵と柚菜に向けて頭を下げた。

「あなた」

 沙知絵がベッドに近づき横たわる私に声を掛けた。

「お父さん」

 柚菜もベッドに横たわる私を覗きこんだ。

 沙知絵の顔を見た。口元が綻んでいるように見えた。

 悲しんでいるようには見えなかった。柚菜の顔を見た。気だるそうにして首の後ろを掻いていた。悲しんでいると言うより面倒臭いといった感じだ。

 ベッドの上で今息を引き取ったのは私なのか。そうなると今のこの私は一体誰なんだと自分の体に視線を向けた。すると自分の体が透けていることに気がついた。

「サチエー」

 叫んでみたが、沙知絵の耳には届かないようだ。ベッドに横たわる私に視線を落としたままだった。

「ユナー」

 叫んだが、やはり同じだった。

 二人は涙を見せることもなく、表情を変えることもなく、ただ、こけしのように立って、ベッドの上で魂の抜けた私の体を眺めていた。

 そして、最後にイケメンの医者に向かって頭を下げた。なぜか私も二人に倣って医者に向かって頭を下げていた。

 急に激しい風が吹いた。屋内だというのに台風並の強さだ。風速二十メートルくらいの立っていられないほどの風だ。

 私は体を低くして辺りを見回すと、病室の窓もドアも閉まっている。どこからこの強い風が吹きこんでいるのか全くわからない。

 沙知絵や柚菜は大丈夫なのかと見てみると、不思議なことにさっきまでと変わらず平然と立っている。風を受けている様子はない。医者と看護師も同じだ。病室にある物全て、私以外は整然としている。

 風が一段と激しくなった。そして、ついに私の体は宙に浮いた。手足をバタバタとして、ベッドの手すりに手を伸ばすが掴めない。

 浮いた体は、そのまま風に飛ばされ、病室の窓に向かって突っ込んでいく。このままだと私は窓に激突して、割れた窓ガラスで全身血まみれになる。

 恐怖に怯え窓にぶつからないようにと手足のバタバタを繰り返し必死で抵抗した。空中で平泳ぎのようなポーズをとった。

 しかし無駄な抵抗で、体はドンドン窓に向かっていく。必死で平泳ぎを続けるが全く効果がない。

 グォーと音を立て一段と強い風が吹いた。体がひっくり返り、窓ガラスが目の前に迫る。ぶつかる瞬間に両手で頭を抱えて目を閉じた。

 ガッシャーンと激しく窓ガラスが割れるかと思いきや窓ガラスが割れることはなかった。

 目を開けると私の体は窓ガラスをすり抜けて病院の外に飛び出していた。

 四階の病室から飛び出た私は引力に逆らい、そのまま風の力に押されて風船のように舞い上がっていった。

 私は顔面に風を受けながら、また平泳ぎを続け抵抗してみるが、全く効果がなく、体はどんどんと空に向かって上昇していく。

 さっきまで私のいた病室の窓がみるみる小さくなっていく。病院の屋上が見えた。屋上には数人の人影があった。その人影もあっという間に米粒のようになり、病院の駐車場に停まる車も豆粒ほどになった。

 病院の周りの田畑が碁盤の目のように見える。私の体は止まることなく上昇していく。すでに抵抗する体力は残っていない。体を風に任せると、上昇するスピードがドンドンと増していく。

 青く輝く瀬戸内海に小さな島が浮かぶのが見え、瀬戸大橋も見える。瀬戸内海の向こうには四国の山や街並みが広がる。視線を左に向けると淡路島に六甲山も見える。

 それでも止まることなく、まだまだ上昇していく。淡路島の形がはっきりわかる高さまで上昇した。大阪湾も見える。関空も見える。その向こうが和歌山県だ。まるで飛行機から見る景色だ。

 和歌山県の上空に青く輝く強い光を見つけた。UFOだろうか。その光は私と同じくらいの速度で上昇している。しばらくその青い光を目で追った。

 突然視界が真っ白になる。雲の中に突入したようだ。風の勢いが増し上昇するスピードが一気に加速する。

 雲から抜けたのか、真っ白だった視界が急に藍色に変わった。そこでピタリと風が止まった。青い玉も同じく止まった。辺りを見渡すと足元には白い雲が広がり、それ以外は藍色の世界が広がっていた。

 見渡す限り藍色一色。足元に幅一メートル位の水色の道が出来た。その水色の道は、眼前に広がる藍色の空間へオーロラのように曲線を描きながら伸びていった。青い玉にも同じく水色の道が伸びていた。

 足元の水色の道をよく見ると、小さな氷の粒が敷き詰められていた。私の体は自分の意思とは関係なく、水色の道を氷の上を滑るソリのように滑りはじめた。

 私は転ばないようにバランスをとり半身に構えた。スケボーを滑るような体制だ。これまでスケボーの経験など全くなかったのに、意外と転ぶことなくスムーズに滑っていった。

 滑りながら周りを見ると、藍色の世界に無数の水色の道が走っている。水色の道は次から次へと現れ、藍色の空間に伸びていく。他の水色の道の上には青い玉が勢いよく滑っていた。

 水色の道の上を適度なスピードで振動もなく滑っていく。本当にスノボーを滑っているような感覚で、それもかなりのスノボー上級者のような感じでなかなか心地がいい。

 ただ、この先、私は死に向かっているのだと思うと複雑な心境になる。

 私が病院のベッドで息を引き取った瞬間の沙知絵と柚菜の表情を思い出すと、この先、生きていても仕方ない人生だとは思った。早くに死別した父親と母親のもとに行った方が幸せなのだと思った。

 しかし、やはり死にたくはなかった。もう一度、沙知絵と柚菜と家族三人で幸せに暮らしたい。しかし、死んでしまったのでもう叶わない。まあ、生きていても叶わないのかもしれないが。

 しばらく滑っていくと、先の方に大きな川が見えた。水量は溢れるほど多く流れは早い。ゴォーゴォーと音を立てている。川の水の色は赤錆色に濁っていた。もしかして、あれが三途の川なのか。

 前を走るほとんどの青い玉たちは川の手前まで着くと一旦停止したあと、水色の道が一気に川の向う岸まで伸びて、そのまま川を渡っていった。

 しかし、なかには川の手前で止まったまま水色の道が伸びないものもあった。それらの青い玉は、しばらく止まった後、そこからバックして戻っていった。バックする青い玉は、死に際で助かり生き返ることができた人たちかもしれない。九死に一生を得た人たちだろう。

 私はどうなるのだろうか。三途の川を渡ってしまうのか、それとも引き返すことが出来るのか。三途の川が近づくにつれて心臓の音が激しくなった。

 三途の川が目の前に見えた。そこで急ブレーキがかかりピタリと止まった。ここから水色の道が向う岸まで伸びるのか、それとも伸びないのか、私は祈るように両手を合わせた。やはり死にたくはない。右端に三途の川と書いてある立て札が見えた。

 私はここから戻って生き返れるだろうか。もし、生き返れるなら、私は生き返りたいのか、それとも、このまま天国に行きたいのか、自分に問いかけてみた。

 私は生き返ってやりたいことはあるのか、生き返って喜んでくれる家族はいるのか。答えはノーかもしれないが、やはり生き返りたい。いい人生じゃなかったかもしれないが、生き返ったらやり直すことができるかもしれない。

 私は祈り続けた。長い時間が経った気がする。そのまま何も変わらない。じっと止まっている。手に力を込め、目をぎゅっと閉じた。そして生き返らせて下さい、と神様に祈った。

 まだ動かない。他の青い玉と明らかに違う。他の青い玉たちが三途の川の手前で止まっていた時間は数秒程度だったはずだ。

 私は一分以上そのままの状態だ。後からくる青い玉はドンドンと私を抜いて三途の川を渡っていく。ただもう一つ私と同じく止まったまま動かない青い玉があった。

 たくさんの青い玉に抜かされた。生き返れると期待した。

 しかし、期待した瞬間に、私の前に水色の道が三途の川の向こう岸まで一気に伸びていった。隣で止まっていたもう一つの青い玉も同じように三途の川の向こう岸まで水色の道が伸びていった。そして二つ揃って三途の川を競争するように同時に渡った。これで私の死が確定したのだ。

「沙知絵、柚菜、高山、清水、みんな、ありがとう。さようなら」

 三途の川の上を渡りながら後ろを振り返り、手を振った。

 三途の川を渡ってから五分程まっすぐに進んでいった。周りの景色がずっと同じで飽きてきた所で、私の前を走る水色の道が右にカーブしてから、滝を昇る龍のように勢いよく上昇して伸びていった。

 それに乗る青い玉もそのまま水色の道に沿って次から次へと右へとカーブして上昇していった。その先を見上げると、宙に『天国』という文字が浮かんでいる。あの先に天国があるのだ。私もこれから右にカーブして上昇し天国へと向かうのだ。

 ところが、これまで水色の道の上をスムーズに滑っていたのが、急に悪路にでも入ったかのように左右に大きく揺れだしてスピードがガタンと落ちた。

 足元を見ると、氷の粒が溶けて滑らなくなってきた。私だけが今にも止まりそうな徐行運転になってしまった。

 足元の氷は完全に溶けてしまい、真っ赤な液体が流れはじめている。足元がドンドン熱くなってきた。そして、水色の道が消えて私は真っ赤な液体とともに宙に放り出され、まっ逆さまに落ちていった。

「ウワーッ」と声が出た。その声がこだまする。そして意識が遠のいていった。


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まつまつま お読みいただき有難うございます。