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困っていることはあるのだけれど、説明するのがむずかしい | 老後の暮らしを整える

母が認知症の診断を受けてから、もうすぐ8年になる。当初、私が覚悟していたよりも、病気の進行を抑えることができていると思う。母は父のサポート、公的介護サービスを受けながら、今も自宅で暮らしている。

母は、料理ができなくなり、掃除や洗濯もできなくなった。何十年も続けてきた家事というのは、体が覚えているものだと思っていた。けれど、簡単そうにみえる家事も、手順がある。今やっていることがわからなくなるので、次に進めないのだ。

母の症状は、短期記憶障害と呼ばれるものだと思う。

台所に一緒に立ち、食事の準備をする。きゅうりの漬物を包丁で切ることはできても、包丁を持ったまま、不安そうに立ちすくむ。まず、包丁を置く、ということが思いつかないのだ。

会って、話をしている分には、年齢相応の、ふつうのおばあちゃんだ。

しかし、父が出かけたりと、ふだんと違うシチュエーションになると、

「お父さんはどこにいったの?」

と、数分おきに聞いてくる。父が出かけたことも忘れてしまうし、出かけたよ、もうすぐ戻るよ、と伝えても、その会話を忘れてしまう。

認知症の診断を受け、母は、その現実を受け入れるのが本当につらそうだった。その後も、自分ではできる、と思うのにできない、ということが増えていき、母は苦しんでいた。いつ会っても、表情は険しく、快活な母の面影が消えてしまった。

私が家の中を片付けていると、大事なものを捨てられると、神経を尖らせ、明らかに不機嫌そうな顔をした。私もつらかった。

が、いつの頃からか、母に笑顔が戻ってきた。以前のような、快活さはないが、落ち着いた様子で、穏やかな雰囲気だ。母は、自分の病気を、老いを、彼女なりに受け入れ、自分のできないことは周囲のひとに任せよう、と決めたのだと思う。

今では、「俺はまだ大丈夫だ」と強がる父を、ときに、母がいさめることさえある。

そんな母に、

「なにか困ってることはない?やってほしいことはある?」

と聞いても、

「だいじょうぶ。なにも困ってない。」

という。

こんなやりとりに、私も、つい安心してしまう。

でも、困ってることがないわけがない。短期記憶障害の母の日常は、戸惑うことだらけ、困ることだらけだろう。

母だけでなく、父も、なのだけれど、高齢になると、言葉で説明する、ということのハードルもあがってしまうようだ。

日常生活のなかで、不便だな、困ったな、と思うことがあっても、なにが問題なのかを考え、対処する、自分ができないことなら、誰かに頼む。私たちが、無意識に、当たり前にできることが、難しくなってくる。

なにか問題がおきてから、困っていたなら、どうして言ってくれなかったの?と思う。けれど、本人たちは、困っていることさえ、認識できていなかったのだ。

実家に行くと、私は神経をはりめぐらせて、家の中を観察する。父と母の他愛のないやりとりも、一言一句聞き逃すまいとする。父も母も、気づいてないだけで、困っていることがあるはず!という色眼鏡で、世界をとらえる。

引き出しや、戸棚にしまったものは、すぐにその存在を忘れてしまう。引き出しに、大きくメモを書いて貼ったりもしたが、メモを読んで、行動につなげる、というのも、目が悪くなったり、判断力が衰えたりすると、難易度があがってしまう。

家中にはさみがあったり、眼鏡があちこちにあるのも、必然性があるのだ。

家の中に、ものが多いと、つまづいて転ぶリスクもあるし、そのとき本当に必要なものを探しづらくなってしまう。なので、不要なものをできるだけ減らし、必要なものは、父や母の生活動線を考えながら、目の届きそうなところに置く。

高齢者の日常というのは、そう複雑なものではない。朝起きてから、夜寝るまでのあいだ、父と母がなにをして、どう動くかを観察し、推測しながら、くらしを整える。うまくいくこともあるし、うまくいかないことも多い。

医療や介護のプロに頼らなければいけないこともたくさんある。
けれど、家族にしかできないこともある。

父や母が、うまく説明できない困りごとを、少しでも拾い上げ、彼らのくらしを楽に、安全にすることが、今できる、数少ない親孝行のひとつ、だと思っている。


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