高齢の親のサポートも、距離感が大事じゃない? | 老後の暮らしを整える
同年代の友人のほとんどが、高齢の親のサポートをしている。
同居している、施設に入っている、遠方からのリモート支援、状況はそれぞれだけれど、これでいいのかな?もっとやれることがあるのでは?という思いは、みなに共通しているように感じる。
あれこれ手を尽くし、悩んだ末に、施設に行くことを決める際の「罪悪感」についても、避けられない感情のようだ。
長く自宅でサポートしていた高齢のお母さんが、数ヶ月前に特養に入った友人に会ったところ、
「施設に入ったら、やっぱり身体機能がどんどん落ちてしまって・・・」
という。
いやいや、90歳を超えるお母さんの身体機能が落ちてゆくのは、自然のなりゆきではないだろうか。
もちろん、彼女が、1日でも長く、お母さんを自宅で過ごさせるように、とがんばったことは、本当に尊いこと、と思う。ただ、お母さんご自身も、かなりがんばっていたのも、事実と思う。
話をきいていると、お母さんも、新しい環境を気に入っている様子なのだ。
老いていくひとに、末長く、健康であってほしいと願う気持ちもわかる。
けれど、家族が、老いて、弱っていくことに対して、もっとできることがあったのでは?と自分を責めることは、はたして、愛情といえるのだろうか。
お母さんを、親族の法事に連れていきたい、夏の間はお母さんを別荘に連れてきたい、でも本当にたいへんで、おおごとになっちゃうの、と彼女はいう。
そんな話を聞きながら、私は(本当にお母さんが行きたがっているのかな?)と思ってしまう。無理をおしてでも、お母さんが行きたいと言い、手伝ってほしい、というのなら、全力でサポートしたいと思うのも、理解できる。
けれど、お母さんを連れだしたいのは、友人であって、お母さんの意思よりも、彼女の気持ちが優先されてない?、と思ってしまう。
ああしてあげたい、こうしてあげたい、ちょっとがんばればできるんじゃないか、彼女の思いはどこから来ているのだろう。
90歳を超え、自分の生活を支えていくのがやっとになったお母さんは、あちこち出かけたい、と思うのだろうか。
別の友人は、高齢のお母さんに振り回されている様子で、いつも疲れ果てているように見える。会うたびに、お母さんのわがままぶりを嘆いている。
それでも、彼女は、お母さんと一定の距離を保つことができない。
最期までちゃんとみてあげられてよかった、というひとも多いから、という。
彼女が外に連れださないと、お母さんは家でずっとテレビを観ていて、あんなんじゃ長生きしてる意味がない、という。
お母さんの人生を、お母さんが好きに過ごすのに、意味があるとか、ないとか、他人(家族だけれど)が判断することなのだろうか。
私自身、数年にわたり高齢の親のサポートを、がっつりやってきた。
コツコツと準備してきたしごとも、あきらめた。
一方で、親との関係は、常に一定の距離を保ちつづけてきた。
親に対する愛情がうすいのかな?と思うこともある。心が冷たいのかもしれない。
けれど、やっぱり、父の人生は父のもので、母の人生は母のもの、と思っている。
老いて、弱っていく父、老いて、弱っていく母を、私は、どうにもできない。ひとが老いて、弱っていくのは、自然の摂理だから。
自分のこどもが、自分をサポートするために、こどもの生活を、こどもの人生を犠牲にしていたら、親は、そんな状態を、悲しいと思うのではないだろうか。
自分は老いて、やがては最期を迎えるのだから、こどもには自分の人生をしっかり歩んでほしい、と思うのではないだろうか。
医師で作家の稲葉俊郎先生は「愛の本質は距離」という。
先生は、距離が近すぎるために「嫌い」になってしまうことはありませんか?と問う。
家族、夫婦の関係に、思い当たることも多いだろうし、隣国との関係なども想起される考え方だと思う。
介護でも、家事でも、つらくなるほどがんばらなくてもいいんじゃない?
利他はうつくしいけれど、自己犠牲はちょっと痛々しい。
「よかれと思って」が、かえって相手の負担になっていない?
ここまではできる、でも、これ以上は無理、でもいいんじゃない?
親子であっても、心が通じ合ってなくてもいいと思う。困ったことがあればカジュアルに助けを求めればいいし、助けを求められたほうも、手に負えなければ、誰かに助けを求めればいいと思う。
すごく仲良くなくても、協力しあえる関係であることが大事なのでは?と思う。
親子、家族というしがらみに、自らがんじがらめになっているひとが多いように感じてしまう。
ちょっと距離をおいて、ひといきついて、問題があるのなら、お互いにとってよりよい解決策を落ち着いて探ってみる、というプロセスが飛ばされている場面が多いように感じている。
