第5章:AI資本主義とアルゴリズム全体主義に抗って。『思想戦争勃発、戦場からのレポート』

いつのまにか私たちはとんでもない世界に生きている。あしたなにが起こるかまったくわからない。いつ社会が壊れてしまうか予測もつかない。では、いったいこの世界のどこがどのようにとんでもないのか?

前章では、サイボーグ化(生命の拡張)について論じた。本章では、ケインズ/ハイエクまで立ち戻り、そしていま新自由主義経済学×AIが管理社会を形成しつつあることについて論じる。なぜなら、サイボーグ化と新自由主義か×AIの両者は表裏一体となって、いまの現実=徹底した管理社会を形成しているのだから。では、いったいどうやってこの恐怖の現実を批判することができるだろう? 私たちはアドルノの否定弁証法にまで立ち返らなくてはならない。


哲学の失墜とAIファシズムの予感

アドルノはかつて、哲学が「諸学の王」として君臨していた時代が終焉したことを鋭く見抜いた。第一次世界大戦、そしてファシズムの到来を経て、哲学はもはや世界を導く羅針盤ではなく、大学という知の官僚機構の一部に格下げされた――アドルノの言葉を借りれば、哲学自身がその失墜の責任を負っているのだ。
カントが夢見、ヘーゲルが描いた理性の理想的未来は、もはやどこにも存在しない。アドルノが提起した〈否定弁証法〉とは、理性への信仰を一度破壊し、思考の根そのものを疑いなおす試みであった。
だが、私たちはその警鐘をいま、どこまで真剣に受け止めているだろうか。冷や汗が背筋を伝う。なぜなら、AIという新しい理性が、いま再び〈統制と服従の体系〉を築こうとしているからだ。私たちの生は、透明なアルゴリズムの監視のもとに置かれつつある。これを〈AIファシズム〉と呼ばずして何と呼べばいいだろう。


ふたつの理性ーーケインズ/ハイエク

世界恐慌ののち、救済者として登場したのがジョン・メイナード・ケインズである。ケインズは20世紀有数の輝く知性であり、かれは主著著『雇用・利子および貨幣の一般理論』で、古典派経済学を退け、自分の手で経済全体のメカニズムを解析し、雇用、失業、金利、景気循環などの相互の関係を理路整然と論じた。しかし私たち読者はページをめくるごとに不穏な気配を感じ始める。ケインズは論じる、安定した社会を築くためには失業を減らさなくてはならない。国家の介入が必要である。失業を減らすためには投資をしなくてはならない。しかしながら投資家の心理ほどあてにならないものはない。なぜなら、人は理性的に投資するのではない。そのときの社会情勢を直感し、ノリと気分で賭けに出て投資するのだ。したがって、事と次第によっては恐慌さえも起こってしまう。倒産が相次ぎ、失業者たちが街にあふれるのだ。ケインズは誰よりも頭のいいからこそ、この投資家の動機を「アニマル・スピリット」と呼んで、あんなものは計算できないと溜息をついてみせた。なんだよ、輝く知性による経済メカニズム解析のオチは結局そこかい、と読者もまた溜息をつくことになるのだけれど、しかし、これこそが経済学者の誠実というもの、ここにケインズの悦妙のバランス感覚が見てとれる。それでも失業と絶望の時代にあって、ケインズ理論は確かに希望の光だった。

他方、ハイエクはケインズと真っ向から対立し、むしろ「市場は完全な情報処理システムなんだ」という市場観を主張した。ハイエクによると、価格変動こそが「分散した知」を統合するアルゴリズムであり、市場の自由は、神の摂理のように信じられるべきものだった。一見これは、太平楽な楽観主義に見えはする。しかし、ハイエクのこのヴィジョンは、経済をメカニズムとして理解することに先立って、リアリズムとしての理解ではあるにせよ、しかしながらそれはそれで理性主義的な市場観なのだ。すなわち、ケインズが理性の限界を見つめたのに対して、ハイエクは理性の拡張を市場に託したのだ。

ハイエクは主著『自由の条件』のなかでこう宣言する、
「自由な市場とは、万人の知を束ねる秩序である。」
だが、私たちは問わなくてはならない。
その秩序の下で、自由とは誰のものなのか?
この問いを封じたとき、理性はふたたび暴力へと転化するではないか。

しかし、そんな本質的危うさを孕みながらも、
やがてハイエクの理論は「新自由主義」と呼ばれるようになる。
市場は自己修正的であり、国家は介入すべきではない。
この思想が1970年代の金融自由化を支え、
その後の40年間、世界の経済秩序を支配した。

ハイエク評価の高まりと並行して、アダム・スミスの『諸国民の富』は『国富論』とタイトルを変えられ、スミスが一度も使っていない言葉「神の見えざる手」があたかもスミスの主張であったかのように誤読されてゆく。スミス自身はリバタリアンの祖でもなんでもないのに。

つまり、20世紀は哲学の時代から経済学の時代へと移行し、理性の名を〈市場〉に置き換えたにすぎなかった。これでは、私たちは資本主義の構造的脆弱性を克服できるわけがない。実際、私たちはその後何度となく同じ失敗を繰り返すことになる。しかも、皮肉なことに2020年代半ばの現代、ハイエクが忌み嫌った「中央計画経済」は、いまやビッグデータとAIによって完璧な形で蘇っている。
市場は自由どころか、AIによる完全管理の装置へと変貌したのだ。
価格も労働も消費も、いまやアルゴリズムの最適化関数の内部で生成されている。


資本主義の構造的脆弱性

そもそも資本主義には決定的な構造的脆弱性がある。
それは、貨幣が「信用」に基づいているという事実だ。
信用が崩れれば、制度も社会も、いともたやすく崩壊する。
国家はあらゆる手を尽くして信用を維持しようとするが、
いったんその信頼が揺らげば、取り戻すための唯一の方法など存在しない。
「信じよ、信じるのだ」という命令ほど、信頼を壊す言葉はない。

1971年、アメリカはヴェトナム戦争で国家財政を疲弊させ、ドルと金との交換を停止した。ブレトン・ウッズ体制の崩壊――そして世界は変動相場制という賭博に投げ込まれた。

ここで見るべきことはもうひとつある。金本位制の崩壊は、貨幣が完全に記号化された瞬間だった。それまで貨幣は(少なくとも理論上は)金という物質的基盤を持っていた。しかし変動相場制以降、貨幣は純粋に信用と情報だけで成立するようになってしまったのだ。経済学史的に言うならば、このときケインズ的秩序は終わり、各国の経済は「世界市場」という怪物に飲み込まれていったのだ。

これはもう一つのグローバルなファシズムなのだ。
ただし、このファシズムには、戦車も独裁者も存在しない。
ただ市場という不可視の神だけがすべてを支配した。
私たちは何度「同じ」失敗を繰り返すのだろう?

ハイエクの夢想した「自由市場」は、次第に悪夢へと傾斜していった。
アジア通貨危機、リーマン・ショック、2008年の世界金融危機――
市場が自らを修復するという理論は、ことごとく裏切られた。
にもかかわらず、誰もその夢から覚めようとしなかった。
人類は、理性の代わりに市場を信じ、
そしていまや市場の代わりにAIを信じるようになったのだ。

AI資本主義という新しい神話体系

AIはいま、金融商品の設計から信用スコア、投資判断、通貨政策までも掌握している。
AIはもはや市場を分析するための道具ではない。
市場そのものがAIの内部で作動しているのだ。
取引はマイクロ秒単位で行われ、
価格は人間の理解を超える速度で変動し、
貨幣は情報の粒子と化した。
AI資本主義――それは、理性をAIに外注した新しい神話体系である。

だがアドルノは警告していた。
「同一化とは支配の原理である。」
市場がすべてを価格に還元したように、
AIはすべてをデータに還元する。
価格もデータも、差異を消し、世界を同一化する。
そこに生まれるのは、もはやヒトラーではなく、
アルゴリズムによる全体主義である。

ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で示した「悪の凡庸さ」は、
いま「アルゴリズムの凡庸さ」として再現されている。
誰も悪意を持っていないのに、しかしシステム全体が自動的に抑圧的になるのだ。


否定弁証法を再起動する

私たちは背筋に冷や汗を流さずにいられるだろうか?
アドルノが20世紀に見た「理性の自己崩壊」は、
いまAIの名を借りて再び始まっている。
哲学が沈黙したまま、経済が暴走し、
そしてAIがその暴走を最適化している。
ここで必要なのは、もはや「新しい理論」ではない。
必要なのは、否定そのものを取り戻すこと――
世界の同一化を拒み、沈黙や逸脱、無駄や誤りを肯定する勇気である。

アドルノがかつて言ったように、
「真理は全体に宿らない。むしろ部分に、否定に、裂け目に宿る。」
私たちはその裂け目を、AIのノイズの中に見出さねばならない。
沈黙する哲学ではなく、沈黙を聴く哲学へ。
いま、私たちは否定弁証法をふたたび起動しなくてはならない。



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