谷家と山田家と吉田神社
↑2026年5月初旬の近衛坂の西を見あげる
吉田神社の南にあった東洋花壇の亭主である谷愛之助の祖母、谷ぎんは吉田山智福院での維新志士らの密儀を助けていたとされる。玉松操、香川敬三、中村半次郎、北島秀朝、さらに変名として矢野某と三宅某が挙げられる。しかし、これまで彼らが智福院に集合していた公的な記録はなく、民間伝承にとどまっていた。今回、本記事では谷愛之助の親族が編纂した追悼集より得られた情報と従来の記録をつき合わせ、近世における谷家と吉田家のつながりを明らかにする。
谷愛之助の追悼集
義弟の前川泊洋曰く、谷家は近江源氏佐々木家の末裔である。大阪毎日新聞記者の久保田辰彦が谷愛之助に聞いた話曰く、祖母の谷ぎんは山田家に仕えていた際に維新志士を助けたという。どぶ酒や甘酒や羊羹を差し入れ、山田家を辞した後は羊羹づくりを生業にしていた。福良竹亭曰く、谷ぎんは吉田祀官の家に仕えていた。
谷愛之助は1873(明治6)年6月20日に吉田村で生まれた。父は谷利兵衛、母は谷ふく、実家は吉田村の焼き物屋であった。ふくの母が谷ぎんである。利兵衛の実家は農家で旧姓木村で、谷家へは婿養子で入った。愛之助の兄弟は谷利三郎という。子は無かったが、早くに亡くなった利三郎の8人の子ら、つまり甥と姪らを養子に迎えた。
谷愛之助が知福院の土地を購入したきっかけは、株で儲けたので売り抜いて買った土地がたまたま祖母に縁があった、としている。縁があったため購入したと書いている人もあり、真相は定かでない。吉田子爵が売り出した土地を購入したのは恐慌の直前であり、タイミングも良かった。東洋花壇と同じ敷地の智福院に維新志士が訪れたとは書いているが、その実名を挙げているのは主に新聞記者を生業とする人たちであり、やや物証に乏しい。1939(昭和14)年3月25日の大阪毎日新聞の「志士謀議の智福院跡」という記事が初出とみられ、追悼集の付録としても載っている。
また、谷愛之助は三条綱手下ルで料亭を営んでいた経験があり、幕末からあった小川亭の勤王婆さんが脳裏によぎったのかもしれない。とすると、東洋花壇の宣伝のため維新志士の話を盛った可能性がある。しかし、以下の点から嘘とも言い切れない。①宣伝にしてはメンツが地味②歴史専攻の教授も訪れている③谷家と吉田神社のつながりがある
本記事では、特に③について調査した。
ちなみに、以前の記事で慰霊祭の日を毎年4月20日に定めたのは玉松操の誕生日かと勘繰っていたが、実際は土地を購入した日付が大正11年のその日というだけであった。
近世における谷家と吉田家
吉田神社宮司であり谷愛之助の告別式も行った二宮正彰はこう記す。
谷さんの先祖は宝暦の頃谷伊兵衛という人で、その妻おはやという人は和州一宮神職の娘である。吉田神社は御創立以来一千年以上になるが、古い文書は総て吉田子爵家や其の他の社家に保存され、神社には慶応以後のものしかない。私は吉田神社に奉仕することになってから、随分荒廃していた吉田斎場大元宮の大修理に着手したので、各方面にわたって吉田神社や吉田斎場所に関係の古文書や古図を調べた。ところが明治以後の書類ではあるが、明治三年の吉田社雑記中に下神人二十人の名簿がある。その中に谷さんの先祖の名と同じ谷伊兵衛という名が見えるので、或る時谷さんにたずねてみたことがある。ところがそれは谷さんの先代であることがわかり、非常に驚いたのである。吉田神社の氏子は随分古くから吉田に住んで居る者と、明治以後になって吉田に移って来た者と大体二種に区別することが出来る。古い氏子の人達は皆神道を崇拝して、仏教や其の他の宗教を信仰せず、墓地は吉田神楽坂に神道墓地としてあり、祖霊社は吉田神社の西側に建てられてある。谷さんもこの古い氏子であったのであるが、大正十一年以来東洋花壇という鳥料理を開業し、東洋花壇の名の方が有名になってしまって、吉田神社でも亦氏子でも、吉田神社の下神人の家柄であったことが忘れられていたのである。
四〇、忘れられぬ谷さん 二宮正彰
旧字体、送り仮名は現代ぽく修正
1870(明治3)年の史料に谷愛之助の先祖、谷伊兵衛の名があるという。調べて見ると、谷伊兵衛の名は各地にあった。
吉田家(卜部氏)は近世、諸社禰宜神主法度を根拠に全国の神社を吉田神道支配下に置いていた。各地方の神主は上洛して直接吉田家当主と面会し、書状を得るなどしていた。谷伊兵衛の名前は地方神主と京都の吉田家との書簡にたびたび現れる。谷伊兵衛の家は地方から吉田家へ参殿する神職の定宿であり、交流の場でもあった。吉田家当主への謁見前に家老に相当する鈴鹿家四家に取り次いでもらい、また書類を作成する必要がある。このとき、仮住まいの提供と書類作成を手伝ったのが谷伊兵衛である。
以上の申請の流れから、伊兵衛は盛章に対して、鈴鹿家への仲介役や、書類作成の手伝い、付き人の手配など様々なサポートを行ったことが分かります。彼の職分は不明ですが、官位申請者を補佐する役回りだったと推測されます。
猿渡盛章の官位申請・取得 草山菜摘
ここから、地方の宮司をはじめとした各人が京都の吉田神社を訪問した際の日記や書簡の記録を列挙する。
・1783(天明3)年1月13日、高山彦九郎は吉田神社にお参りした帰りに谷伊兵衛宅に入っている。
拝礼畢て坂を下り門を出でゝ谷伊兵衛宅へ入りて猪ノ股主殿なるを尋ねて越後国頸城郡道平村又左衛門が伝言を通す
・1794(寛政6)年1月28日、武蔵野国(現・東京都あきる野市)岩走神社の宮澤安通、谷伊兵衛宅を旅宿とする。9カ月京都に滞在する。
[神道大系 論説編 9 神道大系編纂会 編 1991.12 p. 484] 森田光尋の「上京日記」による。
・1799(寛政11)年11月4日、愛知県豊橋市八町の安久美神戸神明社宮司司家京都につく。定宿の谷伊兵衛方に入り家老鈴鹿家を取り次いでもらう。
[安久美神戸神明社と司家 西川順土 編著 司 1981.10 p. 69] 1799(寛政11)年「上京之節用向覚」や1773(安永2)年「上京日記官位諸扣」による。
・1820(文政3)年4月5日、越後(現・新潟県村上市羽黒町)の西奈弥羽黒神社の宮司江見啓斎、谷伊兵衛宅へ引っ越し、谷伊兵衛と山田宰記と山田阿波介に土産を渡す。このとき、谷伊兵衛は75歳。
[江見啓斎翁日誌 7 村上市教育委員会 1973年 p. 11] 文政三庚辰年記録による。
・1826(文政9)年、武蔵野国(現・東京都府中市の)の、六所宮(現・大國魂神社)の神主猿渡盛章、8月30日から一か月間谷伊兵衛宅を仮のすみかとして一か月滞在し、官位を申請する。
[府中市郷土の森博物館だより al museo あるむぜお 2026年3月20日No.155 猿渡盛章の官位申請・取得 草山菜摘]
・1823(文政6)年3月28日、福岡県福岡市筥崎宮大宮司の田村越前守へ谷伊兵衛から書状が出される。
[筥崎宮史料 筥崎宮 1970年 p. 227]
・1833(天保4)年7月中旬、三重県の伊勢外宮祠官足代弘早の息子足代弘訓は吉田社へ訪問のついでに宿の谷伊兵衛を訪問、先代は故人となり今は若亭主となっていた。
[足代弘訓未公刊史料集 (神道資料叢刊 ; 4) 伴五十嗣郎 編 皇学館大学神道研究所 1993.3 p. 37]
・1845(弘化2)年2月、御調郡向島西村(現・広島県尾道市向島)八幡宮神主の上京願願書内に吉田殿内谷伊兵衛方に宿泊と記載。近い地域の神主の残した資料にも谷伊兵衛の名が見られる。[寺社年誌帳 神社之部 (研究紀要 ; 第6号) 向島町教育委員会 1995年 p. 11]
・1850(嘉永3)年4月25日、奴可・三上郡(現・広島県庄原市)京都定宿之儀御触に、神職が上京する際は谷伊兵衛に逗留すること、何かと便利に取り計らってくれるとある。
[東城町史 第2巻 (古代中世近世資料編) 東城町史編纂委員会 編纂 東城町 1994.9 p. 1207]
・1853(嘉永6)年2月21日、三河吉田藩(現・愛知県豊橋市)の牟呂八幡宮神主森田光尋が吉田村の谷伊兵衛宅に到着。翌22日には谷伊兵衛の案内で家老三軒を巡る。1865(慶応元)年9月13日に山田宰記が国掛に任命される。
[吉田家による神職支配についてー享和年間以降の三河国を例にー鈴木巌 愛大史学 : 日本史学・世界史学・地理学 (5) p. 27 平成6年12月提出の愛知大学文学部史学科卒業論文に加筆修正]
・1858(安政5)年8月ごろ、下香貫村(現・静岡県沼津市)の村民がコレラ除け祈祷を吉田神社の鈴鹿内膳に依頼した際、谷伊兵衛が取次ぐ。遠方から救いを求めて来た者に対して、割とドライに事務的に祈祷料を案内している。[安政五年のコレラと吉田神社の勧請駿州駿東郡下香貫村・深良 ] [沼津市史編さん調査報告書 第9集 民俗調査報告書 5 (塩満の民俗) 沼津市教育委員会社会教育課 編 沼津市教育委員会 1996.7 p. 74]
・1867(慶応3)年3月17日、松前福島村(現・北海道福島町)神明宮の神主笹井三河藤原武麗、京都の谷伊兵衛宅に到着。土産物の記録も残っており、山田阿波介にも渡して老中への面会を依頼している。吉田神社とのかかわりは町誌にも詳しい。
[福島町史 第1巻(史料編) 福島町史編集室 編 福島町 1993.2 p. 159 ] [福島町の文化財/福島町史第二巻通説編上/第三編近世の福島 第四章宗教・文化]
・1868(慶応4)年2月24日、長野県須坂市八幡墨坂神神主山岸某、谷伊兵衛の案内で山田宰記と面会し、谷伊兵衛宅二階座敷に宿泊する。このとき、京都御所護衛のために召集された。
[慶応四年二月 勤王上京略日誌 岡沢主計 須高 (25) 須高郷土史研究会 1987-10 p. 153]
・1868(慶応4)年秋、岡山の歌人である平賀元義が東山吉田村谷伊兵衛宅に宿泊。ここで意気投合した諏訪の人に「信濃路や小木曽の峰の白雲をわけつゝ君が家とひ行む」と歌を贈っている。
[註解平賀元義歌集 羽生永明 編 古今書院 大正14年 p. 277]
・1868(明治元)年11月29日、富士吉田の蒼龍隊が谷伊兵衛と山田阿波介に会いに吉田神社を訪れる。
[富士吉田の文化財 その13 (報告蒼龍隊の壮挙 上の3) 富士吉田市文化財審議会 編 1980.3]
・年代不明、佐賀県神埼市の若宮神社宮司の山邉家資料に吉田家内の谷伊兵衛の書簡及び書状が13点保管されている。
[佐賀県立図書館データベース古文書・古記録・古典籍]
北は北海道弘前から新潟、東京、静岡、広島、福岡、南は九州佐賀といった全国の神社から京都の吉田神社へ訪問しており、取次や定宿として谷伊兵衛の名が残っていた。来訪者は神職に限らず村民や歌人もおり、一般的な宿でもあった。邸宅は吉田神社の坂を下って門を出た場所にあり、二階建てで旅人らの交流も可能なある程度の広さとみられる。100年以上、代替わりしつつ同じ屋号が継がれていた。
地方の神職はまず谷伊兵衛と手紙を交わして宿泊し、その取次で山田某と面会し、家老に相当する鈴鹿家と面会、書類を準備しその後やっと吉田家と会える。吉田神社神職の序列がこの面会順と比例するならば、谷家より山田家が格上だったとみられる。
余談だが、神仏分離(廃仏毀釈)の過激な実例である神威隊が結成されたのが吉田神社である。樹下茂国率いる神職らが1868(慶応4)年4月1日、坂本の日吉大社で仏像・仏具・経典などを破壊した。樹下茂国は玉松操と岩倉具視を引き合わせた一人である。
参考:
・『谷愛之助』谷誠一郎 東洋花壇 1939年12月17日
・『東山/京都風景論』 加藤哲弘 中川理 並木誠士 昭和堂 編 2006/04/01
・『近世後期の乳人奉公人請状・里預証文にみる吉田家子女の養育慣行』髙見澤美紀 著 · 2025
・『近世後期、出雲国における社家組織の変容 本所吉田家の神道際裁許状をめぐって』面坪紀久 古代文化研究第28号(2020.3)
谷ぎんと山田家
谷伊兵衛と併せて山田宰記、山田伊豆、山田阿波介などの屋号が吉田神社関連記録にみられる。次は、幕末から明治にかけての山田家を追ってみる。
・山田以文(1762-1835)は平安人物誌に名がある。屋号は山田阿波介、号は以文。1835(天保6)年2月24日に没し、吉田山に墓がある。[蔵書名印譜 第1輯 丸山季夫, 安藤菊二 編 白雲洞 1952年 p. 107]
・山田有孝(?-?)は山田伊豆、藤原有孝とも安人物誌に名がある。丸山季夫曰く山田以文の継嗣。[国学史上の人々 丸山季夫遺稿集刊行会 編 丸山隆 1979.7 p. 603]
・山田有年(?-1891)は山田彦三郎の兄。山田阿波介とも。祖父は山田以文。玉松操からの手紙が東京都立図書館に残っている。1868(慶応4)年3月21日に京都を出発した明治天皇大阪行幸の先発隊の中に小松帯刀、松尾相永と並んで山田阿波介の名がある。[五十年の夢 舟木宗治 著 舟木保次郎 大正8年 p. 212]
松尾相永は柳の図子党で岩倉具視と各藩の維新志士らをつなげた人物だ。
1871(明治4)年10月26日に京都を出立し、11月17日の東京の大嘗宮での儀式に臨席する。[近代天皇制の文化史的研究 --天皇就任儀礼・年中行事・文化財1997-02-10 高木博志 第四章 大嘗祭斎田抜穂の俄の歴史的変遷]
・山田彦三郎(1827 - 1894)は山田有孝の三男として吉田村に1827(文政10)年4月10日に生まれる。祖父は山田以文。三浦梅園の門人某に師事し、岩倉具視の幕下で活動したおりは新選組などから身を隠すため変名を用いた。のちに柳原前光の臣下となり、1856(安政3)年4月には山口藩士浮田八郎の妹きくと結婚。維新後は一時造り酒屋に養子に入るも、後に復縁。1878(明治11)年前後、岩倉具視のあっせんで和歌山県に赴任。初期の京都府会議員でもある。1894(明治27)年1月1日、脳溢血に倒れ吉田山神葬墓地に葬られる。[京都府議会歴代議員録 京都府議会事務局 編 京都府議会 1961.12 p. 32]

山田彦三郎
・松井常三郎(1855 - 1871)は山田有年の三男として1855(安政2)年9月13日に吉田村に生まれる。山田彦三郎の甥。山科の松井久兵衛の養子に入る。1871(明治4)年5月24日、吉田下大路で死去。[京都府議会歴代議員録 京都府議会事務局 編 京都府議会 1961.12 p. 617]
・1872(明治5)年の吉田神社禰宜として山田以輔なる人物が歴彩館デジタルアーカイブに記録にある。
・山田鉄道(1880 - ?)は山田以輔の長男である。1880(明治13)年、京都市上京区吉田町八番戸に於て山田以輔の長男として生まれる。[無教会キリスト教信仰を生きた人びと : 内村鑑三の系譜 無教会史研究会 編 新地書房, 1984.4][芸文 13(8) 京都文学会 編 内外出版印刷 1922-08 p. 554]
谷ぎんが仕えた祀家は吉田家の国掛である山田家であろう。年代からして、谷ぎんが仕えた山田家は山田有年と彦三郎の兄弟が関係ありそうだ。しかも、山田彦三郎(温知)は岩倉具視のもとで活動していたとある。ただ、山田彦三郎なる人物は資料に乏しく、幕末期の京都でなにをしていたか詳しくわからない。山田家の多くの人物は吉田山神葬墓地に葬られている。もし石碑などご存じの方はお教えください。
山田彦三郎と浮田八郎
ここで、わき道にそれるが彦三郎の義兄である山口藩士浮田八郎とは誰か。京都生まれで長州藩に仕えた画家の浮田吉成と同一人物ではないだろうか。「防長維新関係者要覧」に浮田八郎吉成の名があるのだ。この話は長くなるので別途記事にする。
岩倉具視と玉松操
1870(明治3)年1月6日、岩倉具視が江戸に東下したさい、日比谷の邸宅で香川、大橋、山中、北島、松尾、藤井、柴田など数十人を集めて宴を開いた。京都蟄居時に協力した人々に報いるためである。そのとき、岩倉具視が作らせた短刀を玉松操を筆頭とした二十名余りに渡した。この短刀は現存する。矢野玄道(茂太郎)は2月末に到着する。
祝宴の参加者の中に玉松操の名前がない。岩倉具視と方向性を違えて帰洛のため東京を離れたのが10月18日になる。東京にいたので、参加しようと思えばできたはずだ。具視賜褒ノ祝宴ヲ開ク事という岩倉具視のスピーチ原稿が残っており、作成は大橋慎である。玉松操を大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允、広沢真臣、黒田清隆、品川弥次郎と並べて感謝している。このなかで、玉松操だけが薩長でない。岩倉具視の蟄居時、智福院で密議していたはずの香川敬三、北島秀朝と分けている。
岩倉具視と離れたのは、玉松操の過激思想が理由の一つとされる。ここからは推測になるが、近代国家の教育機関の設立に関して思想が合わなかったことが大きいと推測される。
[玉松操 : 復古の碩師 下 (人物研究叢刊 ; 第3,4) 伊藤武雄 著 金雞学院 昭和2年 p. 59]
[岩倉公実記 下巻 1 多田好問 編, 香川敬三 閲 皇后宮職 明39.9 p. 809]
[明治維新運動人物考 田中惣五郎 著 東洋書館 昭和16年 p. 203]
皇学所設置
1869年、京都御所に国学者を中心に皇学所が設置される。中心となったのは華頂宮博経親王、錦織久隆、吉田良義、玉松操、平田延太郎(鐵胤)、矢野茂太郎(玄道)、山田阿波介(有年)、八田知紀らである。
[文明史略 巻之7,8 西村兼文 編 寿楽堂 明9.5]
吉田神社関連の人物が多い。吉田良義は吉田神社神主、山田有年も吉田神社の神職、矢野玄道も1867(慶応3)年3月3日に吉田家学頭となっており、吉田良義の師でもある。
[矢野玄道先生五十周年記念帖 : 昭和十二年五月十九日矢野玄道先生五十周年記念会 編 昭和14年 p. 36]
東京奠都による京都の人口減少のあおりと内紛もあって皇学所は閉鎖となる。1870(明治3)年のことである。この後、漢学や国学を扱う大学が京都に出来るのは1906(明治39)年の京都帝国大学文科大学発足まで待つことになる。
その後、玉松操は1872(明治5)年2月15日以降吉田山の西側にある田中村に隠遁し、私塾を開く。最後の弟子のひとり、物集高見は、後に日本最初の文学博士となる。長男の妻の甥が「話の特集」編集長の矢崎泰久である。
まとめ
吉田山智福院には幕末期に玉松操、香川敬三、中村半次郎、北島秀朝らが密儀の場として使っており、谷ぎんが羊羹など食べ物と運んで支えていた。同敷地は吉田家のもので、大正期にあった料亭の東洋花壇亭主、谷愛之助の祖母である。この谷家が仕えた山田家は100年以上前から関わっており、吉田家のもとにあった。東洋花壇の敷地にあった智福院は吉田家の敷地であったが、そこで密議していたとされる維新志士たちは、幕末は岩倉具視のもとで暗躍し、明治維新後は教育思想の違いから別々の道へ進んだ。皇学所を建てた人々は吉田神社の神職らも多く、なかでも山田有年は玉松操と行動を共にしている。幕末の動乱期には柳の図子党の一人
からの縁かもしれない。また、山田有年の弟である山田彦三郎は岩倉具視のもとで幕末期に動いており、長州藩士の妹と結婚していた。民間だけに伝わっていた維新志士たちが集まっていた話の裏付けになれば幸いである。谷家は吉田神社社家としてはるか昔から吉田山で客人を迎え入れており、大正時代の東洋花壇開店は縁のある事だ。
妄想
調べ始めて最初は、智福院で密議していたメンバーは全員が岩倉具視のもとに集まったものと認識していたが、明治維新後の教育思想の違いを見るにつけ、単純な一枚岩ではなかった。富国強兵のために西洋学問を取り入れようとする派閥と、維新後も攘夷思想を強く持つ神職や国学者らのいわゆる皇学派といわれる派閥に大きく分かれていた、という見方が自然では。前者は海外視察まで行い、後者は明治維新後に東京から京都に戻って御所に皇学所を設置する。結局、岩倉具視は前者を選び、後ろ盾の弱い皇学所はすぐ閉鎖となった。幕末、岩倉具視の蟄居した洛北から離れた吉田山南が密儀の場所に選ばれた理由は、その頃から互いを利用しあおうとしていた距離感の表れだった、とみると興味深い。密儀の内容はもちろん知りようもないが、市内を見下ろす高台から、東京でなく京都で、海外でなく国内の学問を近代国家の中心に据えようと議論していたのかもしれない。
智福院は維新後に再び維新志士らが集い、谷ぎんの振舞った羊羹を求めたと東洋花壇の記事にある。このとき再会した維新志士とは、岩倉具視と袂を分かち帰洛した皇学派のメンバーだったのではないだろうか。玉松操は肉を食べなかったらしいが、羊羹はどうだろう。
岩倉具視と薩長の藩士らは京都の国学者や神職の智慧を借りて、錦の御旗や神武創業などシンボルとスローガンを作る作戦を成功させていく。いっぽうで、皇学派は維新後に国学を中心とした教育体制の実現を夢見て、彼等の行動力を当てにしていた。
皇学所の立ち上げに吉田神社神職が多く参画していたことから、吉田家や山田家など吉田神社の神職らは、智福院という密儀の場所をこっそり維新志士らに貸した、と勝手に想像していたが、積極的かつ主体的に運動していた、と言ってよさそうだ。
石とレンガ
最後に、谷愛之助の追悼集に話を戻す。谷愛之助は若いころ貧しく、様々な仕事をしていた。吉田神社の山田家も奠都のあおりを喰らって縮小した影響かもしれない。その仕事の一つに鴨川での石拾いがあり、石は丸太町通沿いにあった鐘淵紡績工場や疎水の基礎として使われた。戦後、京都大学が教育学部校舎用地として購入し、熊野寮が建つ場所である。さらに、実家の近所に完成する京都帝国大学の煉瓦運びもしていた。2階まで運ぶには勾配が急で閉口したので、途中で廃業した。
谷愛之助が少年時代に運んだ石の上で、私は生活と勉強を営んでいたことになる。吉田山南にあった料亭の東洋花壇に関して調べていった結果、意外なところに戻って来た。
