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山田彦三郎と浮田八郎

↑2026年5月4日16時39分ごろの智福院跡の安養院

 吉田山南には東洋花壇という料亭が大正時代にあり、幕末には維新志士らの密儀の場として使われた智福院という寺の跡地だった。東洋花壇亭主谷愛之助の祖母谷ぎんは、そこに食事を届けていた。
 メンバーは玉松操香川敬三中村半次郎北島秀朝、さらに変名として矢野某と三宅某が民間伝承で挙げられる。彼ら維新志士たちは何を話していたのか。推定のため、吉田神社社家山田家の山田彦三郎(温知)の動きに注目する。山田家は智福院の谷ぎんが仕えていた社家だ。参加者に名前こそないが、智福院を密儀の場として差し出し、参加していた可能性は高い。とくに、山田彦三郎は『京都府議会歴代議員録 』にしかほぼ記載がなく、なにをしていたかが智福院での密儀の内容を推測するカギになりそうだ。変名を複数用いていたため難しいが、本記事では幕末期の山田彦三郎を追った。兄・有年のように国学者として皇学所などの教育機関設立に動いていたか、義兄・浮田八郎のように維新志士として戦いに身を投じたか、はたまたその両方か。

変名・右衛門


 山田彦三郎は(1827 - 1894)は山田有孝の三男として吉田村に1827(文政10)年4月10日に生まれる。名を温知ともいう。幕末の動乱期、「岩倉具視の幕下でおおいに活躍」とあるが、複数の変名を使っていたためか、他の史料で名前を見たことがない。
 [京都府議会歴代議員録 京都府議会事務局 編 京都府議会 1961.12 p. 32]

 1924(大正13)年に刊行された『維新史蹟図説』には、岩倉具視の元に集っていた人物のなかに山田右衛門(名温知)とある。山田彦三郎の変名の一つが右衛門だった。岩倉具視の秘書である山本復一の家に出入りしており、後述する北村将監とともに名前がある。
[維新史蹟図説 京都の巻 維新史蹟研究会 編 東山書房 1924年 p. 323]
 1864(元治元)年時点での柳原家家臣団24名のうち1人に書記近習番頭として山田右衛門とある。
[田中暁龍 幕末期公家の家臣編成と掟─「柳原家文書」を中心に─『桜美林大学研究紀要 人文学研究』第2巻、桜美林大学、2022年3月、p. 92-104]

義兄・浮田八郎と義父・浮田一蕙

 山田彦三郎の結婚は1856(安政3)年4月、浮田八郎の妹きくを妻とする。この浮田八郎、『京都府議会歴代議員録 』には山口藩士と書かれているが、京都出身の絵師・浮田可成である可能性が高い。
[防長維新関係者要覧 田村哲夫 編 山口県地方史学会 1969年 p. 19]

 八郎は戦国時代よりある宇喜多家の屋号、宇喜多という表記も見られる。浮田八郎は宇喜多松庵(1824 - 1893)ともいい、父浮田一蕙(1795 -1859)も京都の絵師であった。浦賀に来た黒船を「神風夷艦を覆す図」として描き、息子の八郎は江戸湾沿岸の防備絵図を残した。浮田一蕙は、幕府の風刺や公家への進言するといった活動が幕府に目をつけられ、1858(安政5)年安政の大獄において親子で連座される。浮田一蕙は1859(安政6)年6月10日出所するも、同年12月7日に病死。宇喜多一蕙とも。
[近世偉人伝 [仁字集 初編] 巻之下 蒲生重章 著 明治10年]

 浮田一蕙の住まいは三条上ル大阪町の借家だったが、終焉の地は洛東田中村である。吉田山まで歩いて20分程度の近所であり、吉田神社主家の山田家と国学や勤王思想を共有し交流していた可能性はある。息子の浮田八郎とその妹きくの縁は黒船来航前からのものかもしれない。長州藩の奇兵隊と同時期につくられた来島又兵衛率いる遊撃隊に「京都の勤王画家の息子」として浮田八郎の名前がある。その前は中川宮に入りこんでいた。
 [奇兵隊 (三一新書) 長文連 著 三一書房 1965 p. 168] 
 以上のように、京都の資料では浮田八郎は山口藩士と書かれているが長州藩関係の史料では、京都出身の脱藩浪士と書かれている。長州藩の京都での情報収集などで活動していたとみられる。

 浮田八郎は、浮田可成の名でのちの1888(明治21)年から2年かけて錦の御旗を錦絵「戊辰所用錦旗及軍旗真図」として残す。

 山田彦三郎の結婚に話を戻すと、時期は1856(安政3)年4月と、1853(嘉永6)年6月の黒船浦賀来航から、義父と義兄が安政の大獄で連行される1858(安政5)年の中間だ。『京都府議会歴代議員録 』によると「少壮の頃よりすこぶる気骨に富み、勤王派に属」していた。
 以上から、安政の大獄は、比叡山に通って高僧に師事し、三浦梅園の門人某に漢学を教わっていた勤王少年が、実践的な活動の場を求めるきっかけになったとみても不思議はない。

矢野玄道との交友

 国学者の矢野玄道の文章によると、山田彦三郎とは兄の有年とともに安政の終わりごろから親交があった。酒も飲み交わしている。1859(安政6)年頃だとすると、矢野玄道は京都の鳩居堂におり、皇学所設置の建白書を提出し、『皇典翼』を執筆していた頃だ。
 ある日、矢野玄道は、1851(嘉永4)年からの友人である河喜多真彦にイタズラされたことがある。酒宴のあと寝ようと布団をめくると芸者がもぐりこまされており、歌を詠んて逃げた。このとき詠んだのは、若いころに山田彦三郎から教わった言葉だったという。文献では山田温知とある。
[愛媛県先哲偉人叢書 第1巻 愛媛県教育会 昭和8年 p. 355]

柳の逗子党の一人

 同時期、密儀の場所として有名だった柳の逗子という場所がある。今出川室町上ル柳之図子町にあった松尾相永藤井九成の二人は1865(慶応元)年早春に隠遁中の岩倉具視を訪れ、維新志士らとつながりを広げていく。ここに集まった人々をいわゆる柳の逗子党というが、一つの団体というより尊王攘夷思想を中心とした緩やかな集まりだった。『藤井九成覚書』にリストがあり、この中に「柳原家来 山田右衛門」とある。ほかにも、大橋慎、樹下茂国、三上兵部、香川敬三、井上石見など岩倉具視の蟄居時に支えた人物が多い。とくに、香川敬三は智福院で密議していた人物の一人である。
 1862(文久2)年9月から1867(慶応3)年12月の岩倉具視蟄居の時期、情報収集や交友を広げていたとみられ、そのひとつに智福院があってもおかしくない。
[岩倉具視関係文書 第八 (日本史籍協会叢書) 大塚武松 編 日本史籍協会 昭和10年p. 429]

戊辰戦争での動き

 1868(慶応4)年正月の鳥羽・伏見の戦いにはじまる戊辰戦争の頃、山田彦三郎は何をしていたのか。『京都府議会歴代議員録 』によると「柳原前光の家臣」になったというが、柳原前光は戊辰戦争で東海道鎮撫副総督に任命されている。まだ18歳の公家が神輿に担ぎだされた。山田彦三郎は以前から柳原家に仕え、戊辰戦争で編成された東海道鎮撫使の傘下に入っていたのではないだろうか。

 1868(慶応4)年2月、赤報隊の偽官軍事件が起きた際、政府軍に集まった浪人の取り調べが行われる。その対象のひとつが山科の郷士からなる山科隊であり、山科の14村から220名を出し内裏の守護にあたっていた。その取り調べ人に山田右衛門の名前がある。このとき、北村将監、入谷駿州と一緒にいた。
 取り調べの結果は問題なかったのか、この山科隊のうち約10名は戊辰戦争後、弱冠16歳の東山道鎮撫総督岩倉具定(岩倉具視の次男)に従って進軍する。山科衛士にいた山科郷士総代の柳田謙三(柳田武槌太郎)は戊辰戦争での勲功により、岩倉具視から短刀を賜る。柳田謙三は維新後は地元山科で議員になっている。北村将監(重威)はのちに岩倉使節団に誘われるが老齢を理由に断り、代わりに日本最初のレストランである精養軒を上野に開く。
[戊辰戦争と多田郷士 : 忘れられた維新の兵士たち 宮川秀一 著, 川西市 編 1984.3 p. 44]
[京都府議会歴代議員録 京都府議会事務局 編 1961.12 p. 612]
[ホテル物語 : 明治・大正・昭和初期のホテル 重松敦雄 著 アド・エース出版 1989.8 p. 29]

維新後は造り酒屋へ

 山田彦三郎の明治維新以降の足取りは国立公文書館アーカイブにあり、各地方で議員をしていた。これは歴代委員録にも記載されている。歴彩館デジタルアーカイブにも山田彦三郎の名前のある史料が保管されている。幕末期の京都で、兄の山田有年は祖父の国学者である山田以文の写本「貞観儀式」を校正したり著作「錦所談」を編集したり、国学者として活動している。維新後は式部官として中央に取り立てられている。いっぽう、彦三郎は明治維新後あまり活動していない。
[職務進退・元老院 判任官以下履歴原書 トリプル・アイ・エフ[件名番号: 046] 山田温知慶応03年12月18日]

 『京都府議会歴代議員録 』によると、維新後は「葛野郡樫原の造り酒屋に養子として入った」とある。これは右京区にあった本陣玉村家の玉村酒店のことではないだろうか。

樫原本陣HP 造り酒屋「玉村酒店」としての「玉杯」というお酒の陶器瓶

 妻と距離を取り、樫原の造り酒屋の養子に入った経緯は分からないが、その後復縁する。

地方での仕官

 山田彦三郎は妻きくとの間に四男一女をもうけた。三男に1877(明治10)年生まれの山田五郎がいる。50歳の時の子である。その子孫に医師の山田耐次。
[財界フースヒー 前村信松 編 ジヤパンエコノミスト社
出版年月日 大正12
]

 1876(明治9)年の歴彩館デジタルアーカイブ資料に、東京府知事から京都府知事へ「山田彦三郎帰国旅費について通知」という資料がある。帰洛した時期の出張費に関するものだろうか。

 1877(明治10)年ごろ、山田彦三郎は和歌山に赴任するが、すぐに辞めている。矢野玄道が和歌山の竈山古墳を訪ねた、山田彦三郎と会っている。その頃は明治政府による政策の一つとして、天皇中心の国づくりのため全国の陵墓の整備が急ピッチで進められていた頃だ。歌人の瀬見静人も訪ねている。そのときは山田彦三郎は熊野をめぐって忙しく会えなかったとある。
[愛媛県先哲偉人叢書 第1巻 愛媛県教育会 昭和8年 p. 245][探奇小稿 前 瀬見静人 著 明12,16]

 1884(明治17)年1月6日、新年の贈り物を有栖川宮幟仁親王から賜っている。
[幟仁親王日記 巻下 有栖川宮幟仁 著 高松宮家 1937年 p. 288]

 岩倉具視の推薦で仕事を得ても長く続かず、1894(明治27)年1月1日脳溢血で亡くなる。享年68歳。吉田神楽岡神葬墓地に葬られる。1875(明治8)年に西加茂で亡くなった太田垣蓮月との交友も気になるが詳細は不明だ。

まとめ

 吉田神社社家の山田一族である山田彦三郎は、幕末期に国学者矢野玄道と知己を得ており、また柳の逗子党の一人とでもあった。戊辰戦争のおりは山科隊の取り調べを行っており、東海道鎮撫使もしくは東山道鎮撫使の配下にあった。安政の大獄で捕縛された義兄のように実戦に身を投じる道を選んだのだ。

妄想

 ここからは想像だが、柳の逗子党が薩長と岩倉具視をつなげていたいっぽうで、吉田神社の支配下にあった智福院では薩長と国学者や神職をつなげていたのではないだろうか。矢野玄道とは兄・有年と一緒に知己を得ていたことから、実家とのつながりも保っていたはずだ。となると、智福院で密議していたメンバーのうち変名とされる矢野某と三宅某、それぞれ矢野玄道と浮田八郎ではないだろうか。浮田八郎の先祖にあたる宇喜多秀家は一説にはルーツが三宅姓であり、変名に使っていた、と考えたら面白い。
 武力の後ろ盾のない国学者らと、武力に正当性を求める薩長がお互いを求めあっていた関係の中で、山田彦三郎はその真ん中にいたのではないだろうか。
 維新後、玉松操のように志を曲げず地方で隠遁するでもなく、兄・有年や義兄・浮田八郎のように中央で働くでもなく、山科隊にいた柳田謙三のように士族になり地方議員になるでもなく、維新志士の迎えた晩年としては中途半端だ。想像だが、国学を国策に利用するのでなく、太田垣蓮月のように平民として詩作や陶芸や酒造りを楽しむような余生を送りたかったのかもしれない。

 谷愛之助の追悼集によると、東洋花壇には維新志士の位牌が30名分近くあるという。谷愛之助は生前、慰霊塔を建てたがっていたが叶う前に亡くなった。まだまだ名前の知られていない、幕末の動乱期に活動していた維新志士らが人知れず眠っているかもしれない。

参考:
『谷愛之助』谷誠一郎 東洋花壇 1939年12月17日
『読みなおす日本史 岩倉具視』佐々木克 吉川弘文館 2025年12月20日

補足

 山田宇右衛門(1813 - 1867)という長州藩士が京都の長州藩邸にいたが、名前の似た別人である。


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