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『The Key of David(ダビデの鍵)─日出づる国─』【第4部】天の川

あらすじ
超巨大太陽フレアが迫る2044年。「響き」となって消えることが運命づけられた悠真は、仲間たちと最後の日々を過ごす。地下深くに眠る失われたアーク、目覚める三種の神器、富士山の傷口から生まれ始める新しい山頂──すべてが、7月7日という一点へ収束していく。
自らの肉体を捨て、地球そのものの「鍵」となることで人類の未来を開こうとする男と、彼を愛しながらも祈り手として立つ女。別れは決まっている。それでも、命は続く。
“ダビデの鍵”が開くのは、扉ではなく、新しい文明であり時代そのものだった。

太古から変わらず流れ続けてきた天の川銀河。
人類はなぜ滅びかけたのか。文明とは、進化とは、本当は何だったのか。
悠真が遺したもの、澪が受け継ぐ祈り──それは、世界を救う技術の物語ではない。
滅びの果てで、人類が再び「空を見上げる」までの物語。
かつて文明の光が遮り、人間の欲望が隠し続けていた、ほんとうの空。
国籍も、宗教も、立場も超え、世界中の人々が、それぞれの場所で同時に見上げたのは、本物の青空であり、また、息をのむような満天の星空だった。
そして、悠真が命を懸けて遺した青空・星空の下で紡がれる「新しい命」──。
全人類に捧ぐ奇跡のグランドフィナーレ。



【第4部】 天の川


【第1章】 未来への祈り

第一節 希望は東方に──新文明の幕開け

西暦2043年5月。

地球を襲った超巨大太陽フレアによって、人類の近代文明が終焉を迎えてから、一年半の歳月が流れていた。

常温核融合装置『プロメテウス』、合成燃料、自己修復材料『KIBOU』、ソニックテクノロジー『響』などの設備が集められた総合施設『ミライ』のある新潟県長岡市──そこに日本の臨時政府も置かれている──は、それこそ、「新世界」を思わせるほどの圧倒的な発展を遂げていた。そして、長岡から運ばれる物資等により、東京や横浜、名古屋、大阪、福岡でも、急速に再建が進んでいた。それは、高層ビルが乱立し、大量消費、資本主義的な旧文明への回帰ではない。静かで、美しく、循環する新しい文明だった。


日本は、新世界の覇権国家になることを自ら放棄した。臨時政府は、これらの技術を全世界に向けて公開したのである。それもあって、日本は、かつてないほど世界から信頼される国となっていた。そのおかげで、世界の主要都市も少しずつ再建が進み始めていた。ただ、放射能汚染やパンデミックの影響などもあり、その進み方は、日本ほど早く劇的ではなかったが。

そんなこともあって、〈レムノス〉の「希望は東方に──Y-UMA」という、あの沈黙の直前に発した言葉に促されて、日本を目指す人々が大勢いた。


日本の技術公開は、世界に衝撃を与えた。

実際、臨時政府が公開に舵を切るまでにはさまざまな障壁があった。初めて『ミライ』を訪れたときの代表団と同様、これを日本の最強カードにして、世界各国から食糧や燃料を調達すべきだという声が強かった。公開なんてもってのほかだ、と。

だが、代表団の全員が、悠真や皇太子やジョナサン博士らの言葉をまっすぐに伝え、断固として譲らなかったのだ。

臨時政府の会議の最後で、能登監査官が次のように述べたという。

「私は、この国の未来を……“技術”や“戦略”にではなく、“人”に託したい。彼らに賭けたい!」

と。

政府内では、最後まで、技術公開に反対する人々はいた。既得権益の甘い汁を吸い続けてきた人々だ。ただ、彼らも内心では、ほんとうは気づいていたのだ。このような世界になってしまった今、かつての既得権益などなんの役にも立たないことを。それどころか、自分たちのそういった野心であり、傲慢さこそが、文明の終焉をもたらしたのだということを。強硬に反対しても、それが自分たちを窮地に追い詰め、立場を悪くしていくことになる。あるいは、自分たちが反対していたとしても、そもそも技術が自発的に公開されてしまったら、もはやそれを止めることなどできない。彼らはしぶしぶ承諾せざるを得なかった。

だが、技術公開したことによって、日本が世界中の信頼を集めるようになったこととともに、思わぬ副産物もあった。

日本が公開した設計図に沿って、諸外国はこぞって『プロメテウス』や合成燃料、『KIBOU』や『響』を生産した。しかし、完成したにもかかわらず、出力や仕上がり具合がまったく安定しない。日本のものに比べ、はるかに質が劣るのだ。

そのときになって、諸外国はあらためて痛感した。日本の「モノづくり」の確かさを。「モノづくり」の根底にある“考え方”や“あり方”の決定的な違いを。

効率よりも安全性。スピードよりも安定性や確実性。“今”ではなく“未来”を見ての「モノづくり」。大工や町工場の職人たちは、自分自身の手の感触だけで、ミクロン単位の精緻な仕事をし続けてきた。日本は、千数百年にわたって、そういった「モノづくり」の技術や精神を、こつこつと積み上げ、築き上げ、受け継いできたのだった。ある意味、それこそが日本の真の強さでもあった。

技術が公開されても、日本ほど精巧なものが作れない。世界各国から日本の技術を学びに来た人々は、この日本的な精神こそが、循環する文明を築いていくために必要不可欠であることに、やがて気づいていった。そして、技術とともに、なによりも、「モノづくり」と誠実に向き合う精神をこそ母国に持ち帰って行くのだった。それもあって、彼らは、母国でも、自己修復材料を『KIBOU(希望)』と呼び、ソニックテクノロジーを『響(HIBIKI)』と呼んだ。施設そのものに『ミライ(未来)』と名づけた国々もあった。


「なんだ、これは……?」

「これが、われわれが『大審判の国』と軽蔑していた国なのか……? 『JAPs』と蔑んでいた国民なのか……?」

「同じ世界に存在している都市なのか?」

日本が公開した技術を視察し、取り入れるために日本を、さらに長岡を訪れた各国の研究者や技術者、政府関係者らは、必ず口にする。そして、恥じ入った。同時に、〈レムノス〉のメッセージが、いい加減でも、まして大げさでもなく、真実であることを実感した。

──希望は東方に──

ここから、新しい文明が始まる。それも、地球規模の文明が……。そう確信した。


人々が『ミライ』と呼ぶ施設の正門前に広がる広場には、日本で暮らしたり、学んだりするために、世界各地から多くの人々が、毎日のように集まっていた。かつて長岡技術科学大学だったその場所、そしてかつて希望を求めて避難民がテントを並べていたあの広場が、今は、新しい文明の“語り場”となっていた。まるで、古代ギリシャのアテネにあったアゴラ(市場、広場)のように。

あるひとりの外国人牧師が、聖書を片手に、集まってきた人々に語った。

「……見てください。国も、言葉も、宗教も違う人々が、ここでは共に働き、共に食事をし、共に未来を語っている」

牧師は、人々をゆっくり見まわしながら、感慨深そうに言った。

「人類はかつて、一つの言語を話していた。しかし傲慢になり、天に届く塔を建てようとした。その結果、人類は言葉を失い、世界へ散らされた。バベルの塔の物語です。

 しかし、今、この日本で、われわれが見ているのは、あのバベルの塔の真逆の物語なのです。われわれが軽蔑してきた日本人は、この奇跡のような素晴らしい技術を独占しなかった。むしろ、われわれのために、人類の未来のために、惜しげなく世界へ公開した。

 その技術……いや、その気高い精神によって、われわれ人類は、もう一度、集められている。この世界を正しく再建していくためにです。力によってではない。恐怖によってでもない。信頼によって、です。これは、希望そのものなのです」

その言葉に、広場に集まっていた人々は、静かに、深くうなずきながら耳を澄ませていた。国籍も、言語も、宗教も異なる人々も、そこにはいた。だが、その瞬間だけは、不思議なほど、だれもが同じ“響き”を聴いていた。


『ミライ』の中は、さまざまな言語が飛び交い、活気に満ちていた。学者、研究員、技術者、職員だけでなく、世界各国から、視察や技術取得のために大勢の人が集まってきていた。だれもが、真剣そのものだった。自分たちの国の未来を担っているという覚悟と誇りに満ちた目をしていた。

かつて、この『ミライ』を訪ねた代表団のリーダーだった能登元監査官が、今は所長を務めている。

悠真とジョナサン・マッケンジー博士、三木博士、岡博士らが、能登に声をかけたとき、彼は恐縮して一度は断った。自分のような人間に、その資格はない、と。だが、博士や研究者らと交流を深め、何度も『ミライ』に足を運ぶうちに、能登は、自分がほんとうにやりたかったことを思い出したと語っていた。

「私は、子どものころ、国連で働きたいと思っていたんです。戦争や紛争、飢餓や格差のない世界を作るために働きたいと。それが夢でした。

 ですが、官僚として働き、政治にかかわるうちに、いつしか、そんなのただのきれいごとだと思うようになっていました。現実はそんなものではないと、いつの間にか、夢を見失っていたんです。

 ですが、みなさんと出会って、この世界全体のことをいろいろ話し合う中で、もう一度、かつての夢を思い出したんです。

 政治家こそ、国のリーダーたちこそ、ほんとうは、“きれいごと”を全力で掲げなければならないんですよね」

能登は、少し照れくさそうに笑った。

「私たちが、本気で理想を信じ、本気で“きれいごと”を掲げ、その実現のために命がけで生きようとするからこそ、国民は希望を持てる。信頼してくれる。

 この歳になって、子どものころの夢を思い出し、もう一度、この世界の平和のために生きる夢を叶えられるなんて、これ以上ない幸せです。

 ……それに、みなさんがやり遂げるのを、私は、なにより見届けたいんです。私には、その責任があるのだと考えています」

能登は、熱く、そのように話してくれた。

彼は、あかりにも声をかけたという。悠真たちの働きを最後まで見届けた後は、この『ミライ』で産業看護師として働かないかと。

しかし、あかりは丁重に断ったそうだ。

「そのように言ってくださるのは、ほんとうにありがたく、うれしいです。

 でも、私は……すべてを見届けた後、医療の手がまだ足りていない国々に行って、そこで生きている人たちを守り、支えていきたいと考えています」

と。そして、まっすぐに能登の目を見て言ったのだ。

「私も、能登所長と同じです。この世界を少しでも良くしていくために、助けを必要としている人たちの役に立ちたいんです。それが、私の夢だったから」


一方、前所長だったジョナサン・マッケンジー博士は、所長の席を能登に譲った後、一研究者に戻り、この『ミライ』に運び込まれたフリーエネルギー発生装置『DAICHI(大地)』と『響』を使った「量子共鳴通信網」の開発と構築のために、十蔵とともに試行錯誤の毎日を送っていた。

旧文明の通信網は、人工衛星や海底ケーブルによって結ばれていた。物理的な接続が不可欠だったのだ。だが、それらは太陽フレアによる磁気嵐にさらされれば、容易に狂い、焼き切れ、沈黙する。人工衛星が増えれば、宇宙ゴミも増えるし、地上に落下衝突する危険もゼロではない。地震や津波、戦争によっても寸断された。

だからこそ、人類には、新しい“つながり方”が必要だった。ジョナサンと十蔵が着目したのは、“響き”だった。

地球そのものが発するシューマン共振。そして、『響』と『DAICHI』が生み出す量子的共鳴場。もし、人類がその“響き”を媒介として情報を伝達できるなら──もはや通信は、空にも、海にも、線にも依存しない。地球そのものが、巨大な通信媒体になる。

それこそが、ふたりが構想する『量子共鳴通信網』だった。

十蔵もジョナサンも、その実用化のために日夜議論を重ね、研究開発に没頭していたが、子どものように目をキラキラ輝かせながら、このうえもなく充実していると語っていた。


第二節 希望の空

2043年5月。

長岡の朝は、静かだった。旧文明の都市のような、絶え間ないエンジン音も、巨大モニターから流れ続ける広告もない。窓を開けると、まず聞こえてくるのは、水の流れる音だった。長岡では、かつて地下へ押し込められていた水路の多くが地上へ戻されている。雪解け水は、街の中心を流れ、小型水力設備をゆっくりと回転させながら、田畑や生活用水へと循環していた。その水面を、トキのつがいが静かに横切っていく。

長岡に来た人々がまず感じるのは、空気が違うということだった。火山灰と放射性物質、未知ウイルスに怯えながら暮らしていた2年ほど前からは考えられないほど、空気は澄み始めていた。

もちろん、完全に元通りではない。空にはまだ薄い霞が残り、夕焼けは、成層圏にとどまっている硫酸エアロゾルによって異常なほど美しい。だが、それでも、人々は空を見上げるようになっていた。三年前には、世界から“青”が消えていたのだ。

トカラ列島、阿蘇山、富士山。立て続けに起きた破局的噴火によって、空は火山灰に閉ざされた。さらに、原発事故による放射性物質と、異常気象が追い打ちをかけた。

だが今、長岡の空には、雲の切れ間からわずかに淡い青が見えている。人々は少しずつ、空を見上げるようになっていた。

「昨夜、ぼんやりとかすんだ月が見えた」

「私も、家族と一緒に見た」

人々の間で、そんな会話が交わされるようになり始めた。


街路樹の若葉が風に揺れる。自己修復材料『KIBOU(希望)』によって舗装された路面は、黒曜石のように滑らかな光沢をたたえていた。それでいて決して滑らない。ひび割れた箇所は、生き物の皮膚のようにゆっくり修復され続けている。風が吹けば、地上にわずかに残った火山灰が舞うが、その粒子は『KIBOU』の表面張力に弾かれ、一箇所に留まることがない。雨が降れば、路面そのものが汚れを弾き出し、火山灰さえも水滴と共に一箇所に集められ、自動的に回収システムへと運ばれる。

その道を、自動搬送車がほとんど無音のまま走り抜けていく。動力源は、『プロメテウス』。制御補助には、『響』。時折聞こえるのは、合成燃料を動力とした輸送車両が発する、柔らかい風の音のような駆動音だけだ。

建物群の壁面を覆うのは、ソニックテクノロジーを応用した「音響除塵システム」だ。人が聞き取れないほどの微細な低周波が、壁に付着しようとする塵を常に振り落とし、白磁のような外壁の清浄さを保っている。かつて「効率」の名の下に塗り固められたアスファルトやコンクリートの荒々しさは消え、街全体が、熟練の職人が研ぎ澄ませた刀身のような、静謐な輝きを放っていた。

「音」もまた違った。内燃機関の爆音、金属と金属が擦れ合う悲鳴のような騒音は、この街には存在しない。『プロメテウス』から供給されるエネルギーは、地中に埋設された超伝導コイルを通り、各家庭や施設に音もなく届けられている。

だが、不思議と、この街の人々はそれらを誇示しなかった。むしろ、長岡で最も印象的なのは、人々の“手”だった。

建物を作る人々の手。

木を削る職人の手。

木や金属を加工する職人の手。

料理人の手。

苗を植える農家の手。

傷ついた人を支える看護師の手。

子どもたちの手を握る親たちの手。

文明を再生していたのは、技術だけではなかった。モノを大切にし、他者を慈しむ“手”であり心だった。


長岡はじめ日本では、畳文化も急速に復活していた。ただし、それは旧文明時代の単なる懐古趣味ではない。井草の一本一本に、ソニックテクノロジー『響(HIBIKI)』を応用した超微細な共鳴振動コーティングが施されている。この畳は、呼吸する。室内の温度と湿度を自立調整するだけでなく、隙間に入り込もうとする微細な火山灰、放射性粒子、病原性エアロゾルを抑制、細菌やウイルスさえも、特定の周波数による「斥力(せきりょく)」で常に弾き出しているのだ。子どもたちは、窓を開けたまま眠れるようになった。

素足で畳の上を歩けば、足裏から伝わってくるのは、地球の鼓動──シューマン共振──と同期した、かすかな、だが、たしかな安らぎの振動。それは人々の自律神経を整え、絶望に凍りついた心を、大地の体温で温めていくのだった。

同様の技術は、衣類、防塵マスク、網戸、空調フィルターなどにも応用されていた。旧文明では、巨大な空気清浄設備で都市全体を管理しようとしていた。だが新文明では、人々の暮らしそのものへ、『響』が自然に溶け込んでいた。

窓を開ければ風が通る。

畳が呼吸する。

衣服が身体を守る。

目に見えない共鳴が、人々の暮らしを静かに支えていた。

「……落ち着く」

海外から来た人々は、畳へ座るたび、そうつぶやいた。靴を脱ぎ、畳へ座り、あるいは寝転がり、地面に近い場所で暮らす。それだけで、人の心は不思議と静かになるのだ。

街を行き交う人々の姿も優美だ。ビニール製の防護服や、重苦しいガスマスクはどこにもない。人々が纏っているのは、薄い絹や麻のような質感を持つ、新時代の「衣(ころも)」である。ここでも、繊維の一本一本に、特定の周波数を記憶させた『響』の技術が編み込まれている。この布地は、目に見えない「防護の結界」となっていた。放射性物質やウイルスが布地に触れる直前で、共振による斥力がそれらを霧散させる。軽く身を振るだけで、付着した塵はすべて露のように転がり落ちる。洗濯という概念も、「汚れを落とす作業」から、まるで「周波数をリセットする儀式」のようなものへと変わった。

「衣」の中でも、特に和装が人気ともなっていた。華やかなうえ、構造的に、帯や着物の合わせが『響』を効率よく全身に伝える「共鳴体」として機能することが発見されたのだった。それもあって、実用性を極めた「長岡スタイル」として、世界中から集まった若者たちの憧れとさえなっていた。自分たちの民族衣装と組み合わせ、それぞれの文化の中へ溶け込ませていく人々もいた。


長岡の北側に位置する総合施設『ミライ』は、かつて長岡技術科学大学の研究棟だった場所を中心に発展した施設群である。2043年現在、そこはもはや、ただの“教育機関”でもなければ、単なる技術拠点でもない。かつては地方の一国公立大学にすぎず、緑豊かなキャンパスの中に研究棟が点在する静かな学び舎だったその場所は、今や地球全土の再建を司る新文明の拠点にして、人類の知性が再び統合される、世界最先端の技術が集約された、まさに「聖域」へと変貌を遂げていた。

広大な敷地内には、世界各地から集まった数万人の留学生や研究者、技術者、医師、政府関係者らが溢れている。そして、かつては敵対していた国々の研究者たちが、ここでは同じ『プロメテウス』の火を囲み、同じ合成燃料の匂いを嗅ぎ、ともに日本の「誠実なモノづくり」を真剣に学んでいる。

各国から派遣されてきた人々を『ミライ』に招き入れる際、所長の能登は必ずこう言った。

「ここはもう、大学じゃないんです。学生が知識を学ぶ場所ではなく、人類が生き残るために考え続ける場所になりました。教える者と学ぶ者の区別も、もうありません。ここでは、みなが、同じ問いの前に立っています。ともに考えましょう。そして、ともに、新しい世界を、新しい文明を築いて、未来に継承していきましょう」


かつて学生たちが通った正門前には、今や臨時政府の警備兵と、世界各国から派遣された平和維持組織の治安官が並び、厳重な検問体制が敷かれている。しかし、そこに漂う空気は物々しい軍事基地のそれではない。

門をくぐれば、かつての講義棟やサークル部室だった建物は、すべて世界中から集まった研究者たちの宿舎や、国連の枠組みを超えた臨時の『国際再建会議場』へとリノベーションされていた。学生たちが論文を読み、語り合っていた図書館は、世界中に公開された『プロメテウス』や合成燃料、自己修復材料『KIBOU』や、ソニックテクノロジー『響』の設計図を各国の言語に翻訳し、配信し続ける『地球情報管理センター』となっている。

視察に訪れた欧州の政府高官が、かつての広大なキャンパスを見渡してつぶやいたという。

「一度でもここ『ミライ』を訪れれば、かつてわれわれが、軍事力や競争力、権力や地位や財といったものを、血眼になって手に入れようとしてきたことが、いかに愚かな行為だったかを思い知らされ、恥ずかしくなる。なんとちっぽけな世界で生きていたのかと……。この『ミライ』は、世界が『生き残るための知恵』を乞いに来る場所だ」

施設内を行き交う人々の肩書きが、その言葉を証明していた。すれ違うのは、教科書を抱えた若者ではなく、かつて大国のエネルギー政策を動かしていた権威ある科学者であり、国の命運を背負って渡海してきた大統領特使や、最前線で医療や復興を指揮する最高責任者たちだ。だれもが、胸に『MIRAI』の入構バッジを誇らしげに掲げ、笑顔で気さくに挨拶を交わし合っている。みなが家族であり、友人であり、知り合いであるかのように。そして、寸暇を惜しんで議論を交わしながら、行き交っている。


施設の中央──かつて大学の本部棟があった場所──には、今やソニックテクノロジーとフリーエネルギー開発のための白磁のような巨大な中央研究棟がそびえ立っている。その建物の外壁そのものが、大気中の有害物質を吸収して清浄な酸素を吐き出す「生きた肺」として機能しており、周囲にはかすかな、心地よい低周波の「響き」がハミングのように漂っていた。

『ミライ』の内部は、研究施設というより、一つの巨大な生命体のようだった。世界中から集まった研究者たちが、それぞれの民族衣装や作業服のまま行き交っている。「長岡スタイル」の人もいれば、それを自らの民族衣装にアレンジした人たちもいる。アラビア語、英語、中国語、日本語──さまざまな言語が飛び交っているにもかかわらず、不思議な統一感があった。

研究区画の奥では、『響』を利用した加工装置が、金属をほとんど無音のまま切断していた。火花は飛ばない。耳を澄ませば、かすかに“歌”のような共鳴音だけが響いている。

広場には、古代ギリシャのアゴラを彷彿とさせる議論の場が点在している。人々はそこで、単なる「効率」ではなく「徳」や「調和」について語り合う。

「なぜ、日本の機械は壊れないのか」

「なぜ、日本の技術はこれほどまでに温かいのか」

学びに来た人々が最初に見つける答えは、精密な設計図の中にはない。それは、職人がネジ一本を締める際に見せる指先──わが子のように大切に扱い調整する、日本人の、祈るような、あまりにも誠実な指先の動き。ミクロン単位の誤差を「音」で聞き分け、「感触」で見分ける、研ぎ澄まされた感覚。

「今だけ、金だけ、自分だけ」を捨て、千年後のだれかのためにモノを造る。その「誠実さ」という名のOSこそが技術とモノの中心であり根幹にあるのだと、彼らは魂で理解していった。

『ミライ』の中で、今、一番活気があるのは、十蔵とジョナサンが取り組んでいる『量子共鳴通信網』の研究施設だった。大勢の研究者たちが、それを現実のものとするために、さまざまな意見を出し合いながら試行錯誤を繰り返している。

そして、長岡の随所には「共鳴塔」が立ち始めた。それはまだ、本来の役割である全地球規模の通信網としては機能していない。開発段階にあるその塔は、今はただ、地球の鼓動──シューマン共振──を静かに受信し、増幅させているだけだ。だが、塔の近くに立つと、耳の奥で微かな、だが太鼓のように力強い「響き」が聞こえてくる。「目をつぶって耳を澄ましていると、まるで、母の胎内にいるような心地になる」と言う人々もいる。それは、だれかに管理されているという圧迫感ではなく、まるで、鼓動のような、自分がこの地球という生命体の一部として呼吸していることを思い出させてくれる、安らぎの通奏低音だった。

一大学の研究施設から始まった『ミライ』は、近代文明の崩壊という大審判を経て、人類の知性と倫理が再び一つに統合される、地球の新たな『中心』そのものとなっていた。

それは、失われた文明の残骸でもなければ、文明の終着点でもない。人類が、もう一度未来を信じ、作り始めようとしている場所だった。


【第2章】 ダビデの鍵

第一節 “一ノ瀬家のピラミッド”

2043年11月4日(木)、午前8時15分。澪の実家である“一ノ瀬家のピラミッド”。

仲間たちが見守る中、澪の「1260日」が明けた。

澪が、ゆっくり瞼を上げる。まぶしさに一度瞼を閉じて、もう一度、もっとゆっくりと目を開けて、目の前にある悠真の顔に焦点を合わせていく。

「悠……真……」

「……澪」

悠真の目から涙がこぼれた。

澪は目を上げて、次に麗の顔を見た。麗も泣いている。それから、周りにいる仲間たちひとりひとりの顔を確認するようにゆっくり見回した。麗の隣では、和真と綾子が顔を見合わせて満面の笑みを浮かべている。無言で目を細める名嘉を、遥が笑顔でつついていた。十蔵とジョナサンと直海の三人は抱き合い、道心と九明と葉月の三人は手を取り合って喜んでいる。そして、その輪から少し離れた場所では、カラスが、そんな彼らをうれしそうに見守っていた。

だれもが言葉を失うほどの喜びに浸る中、悠真が澪の前に膝をつき、そっと尋ねた。

「澪、脚は動かせるか?」

悠真が尋ねると、澪は、車いすに座ったまま、軽く大腿部を震わせ、次いで、足を軽く持ち上げて、脚座から外した。悠真の手を借りて、立ち上がる。

「澪さん! 三年半も車いす生活だったんだから、筋力も落ちてるし、無理です!」

慌ててあかりが声を上げたが、澪は大丈夫と言って、立ち上がった。

驚くあかりを見ながら、悠真が言った。

「機能そのものが失われていたわけじゃない。封印されていただけなんだ。だから、澪は歩ける」

ほっとするあかりに向かって、澪がやさしく微笑みかける。ありがとう、と。

「はじめましてじゃないけれど、『はじめまして』って言いたくなるね」

立ち上がった澪が明るく言った。

「私は……『おかえり』って言いたくなるよ」

麗が涙顔のまま、澪を抱きしめて言った。


その夜、悠真は、“一ノ瀬家のピラミッド”の地下最深部にみなを案内した。もちろん、澪も初めてだった。

階段を下りるたび、石壁の奥から、低く長い“響き”が伝わってくる。それは耳で聞く音というより、骨や血液そのものが共鳴しているような感覚だった。そして進むたび、壁面には、光る文字のような模様が浮かび上がっていた。だが、それは人工照明ではない。石そのものが、淡く発光しているのだった。

綾子がつぶやいた。

「なんだか、仁徳天皇陵古墳の“祈りの道”に似てる……」

初めて“あれ”を体験する直海とジョナサン、そしてあかりは、呆然としながら階段を下り続けている。

「これ、なに? まるで、走馬灯みたい……」

あかりがつぶやく。ジョナサンが感嘆を漏らす。

「でも……なぜだか、とてもあたたかくて、やさしい……。

 そう、『ミライ』の量子共鳴塔の近くにいるときみたいな感じだ。それよりも、もっと強く、はっきりと地球の“響き”“鼓動”を感じる……」

十蔵が、なにかを悟ったように言った。

「ソニックテクノロジー『響』、フリーエネルギー発生装置『DAICHI』、そして今、私たちが手掛けている『量子共鳴通信網』の技術は、全部にここに結集されていたんだ。ここにヒントも答えもあったんですね」

そして、ジョナサンと目を合わせて、うなずき合った。科学者が答えを見出したときのあの目で。

どれくらい下り続けただろう。彼らは最下層に降り立った。空間が近いことが、空気の流れや響きから伝わってくる。

そして、ついに、その空間に行き着いた。足を踏み入れた途端、どこからともなく光が生まれ、空間全体を照らし出す。まるで悠真たちを認識し、応えるかのように。

みなが絶句した。

目の前にある長さ110cmほど、幅と高さが70cmほどの神輿。巧みな装飾が施され、金色に輝いている。箱の下部四隅には脚が付けられており、持ち運びができるよう二本の棒も取り付けられている。箱の上部には、翼を広げて互いに向かい合うケルビムの彫り物がある。

「まさか……これが古代イスラエルの契約の箱……」

驚きを隠せない九明の声だった。

「そう、失われたアークだ」

「じゃあ、この中に……アロンの杖とマナが入った壺と十戒の石板が納められてるの?」

綾子の声は震えていた。

「古代イスラエルの三種の神器……」

遥が確認するようにつぶやいた。

「知らなかった。それが……うちの地下にずっと安置されてたなんて……」

澪でさえ言葉を失っている。

「父さん……」

ジョナサンは、驚きとも恐怖とも感動とも言えないような顔で立ち尽くしていた。その青い瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。

だれも、すぐには言葉を発せなかった。近づくこともできなかった。その箱の前だけ、時間そのものが止まっているようだった。


「みんなに知っておいてもらいたいことがある」

悠真が厳かに話し出した。

「今から8ヶ月後、来年の7月7日に、一万年に一度クラスの超特大の太陽フレアが発生して、地球はまた、すさまじい磁気嵐に襲われることになる。だからといって、2041年のときのように、すべての電気設備が沈黙してしまうということにはならない。そのための『プロメテウス』だからだ。もちろん、無傷とはいかないし、安定しなくなる可能性もある。だからこそ、十蔵さんが作ったフリーエネルギー発生装置『DAICHI』と、今、十蔵さんとジョナサン博士が開発を急いでいる『量子共鳴通信網』が、これからの人類のためには絶対的に必要なんだ。

 その“鍵”を、その磁気嵐に乗せて、おれが開かなければならない」

「悠真君が? どうやって?」

十蔵が尋ねた。当然の質問だった。

一呼吸おいてから、悠真が答えた。

「おれが……、磁気嵐到達のタイミングに合わせて、この場所で、完全量子化することによってだ」

「なんだって? まさか……そんなことができるのか?」

ジョナサンが信じられないという顔を向ける。

「……悠真、それどういうこと?」

澪が不安そうに尋ねる。

悠真が静かに言った。

「榊悠真という人間の肉体は消滅する。といっても、消えてなくなるわけじゃない。量子化されることによって、おれ自身が、“向こう側”へ行き、“響き”そのものになる。その必要があるんだ」

「そんな……」

困惑気味に澪が言う。悠真が続けた。

「おれのじいちゃん・榊孝三と、澪の祖母・一ノ瀬清華──ふたりの天才の手によって、おれの中には、そういう遺伝子が組み込まれている。あのふたりは、ずっと前から、このときのために準備してたんだ。おれ自身を、人類の未来への“鍵”にするために」

「悠真が完全量子化……。それが……『ダビデの鍵』……」

九明が静かにつぶやく。その声が、石室の壁に反響する。

「ただ、それは、おれひとりではできない。三種の神器と共鳴させる必要があるんだ。それぞれ、定められた場所で。そして、そのためにこそ、時を超えて、みんなが集められたんだ」

そう言って、悠真は、契約の箱に近づいて行った。みなが固唾をのんで見守る中、手を伸ばして箱に触れると、箱は、ほのかな青白い光を放った。まるで、生きているかのように。そして、悠真に反応するかのように。

悠真が蓋に手をかけ、いたわるように、そっと持ち上げると、箱の中から光がこぼれてきた。

息をするのも忘れて凝視しているみなのほうを向き、悠真は手招きした。はっと、われに返ったかのように、大きく息をついて、まず澪が近づく。その後に続くようにして、みなも箱に近寄って行った。

そばに来た澪に、悠真は、箱の中からアロンの杖を取り出し、手渡す。驚く澪に、悠真はやさしくうなずいた。渡されるまま、杖を受け取る。四千年も前のものなのに、その木製の杖は、まるで生きているかのように、生命の力にあふれているのが感じられる。その中ほどには若枝が生えている。ほうっておけば、どんどん成長していくのがわかるほど、いまもなお生命を宿して瑞々しかった。

「わかるか? 澪」

「うん、わかる。地球の“鼓動”、生命の“響き”を感じる」

そう言って、隣にいた和真に手渡した。目をつぶって、その“響き”を感じ取っている。

「僕にもわかります。お母さんのおなかの中にいるときのような、心地よい“揺れ”です」

そして、綾子に渡す。

悠真は、さらにマナの壺を、さらに十戒の石板を取り出し、みなに触れさせる。ジョナサンとあかりにも。ふたりは、恐る恐る手にした。

「契約の箱も、その中に納められていた三種の神器も、それぞれ、それ自体がシューマン共振を放っているんですね。だから、箱も、神器も、四千年の時を経ているにもかかわらず、今まさに完成したばかりのような輝きを放ち、生命の力にあふれている……」

十蔵が言うと、

「まさに、われわれが開発した『響(HIBIKI)』そのものだ」

ジョナサンがため息交じりにつぶやく。

「お父さんは、このロストテクノロジーを、今の時代に復活させたんだね」

そう言いながら、直海がうれしそうにジョナサンの背中をなでた。

悠真がおごそかに告げた。

「みんなにも、この“響き”を知っておいてほしかったんだ。そして、和真が持つ八尺瓊勾玉、葉月が持つ草薙剣、遥が持つ八咫鏡──日本の三種の神器が持つ“響き”を目覚めさせてほしい。“響き”の周波数を、これに合わせる必要があるんだ」

「そして、来年7月7日の超巨大太陽フレアを迎えるの?」

葉月が問う。悠真は静かにうなずいた。道心と九明が、拳をぎゅっと握りしめた。名嘉は、複雑そうな顔で、ちらっと澪に目をやった。

「そこで……悠真の完全量子化が起こる……」

澪が、悠真を見つめて、戸惑いがちに言う。たまらず、名嘉が尋ねた。

「なあ、悠真。それしか方法がないのか? ほんとうに、ほかにないのか? おまえはそれでいいのか? 澪が……あまりにも不憫じゃねえか……」

悠真は澪をまっすぐに見返しながら言った。

「……そう。それしか、ない。それが……おれが、この世界に生み出された理由であり、目的だから。それが、十蔵さんが作った『DAICHI』と、十蔵さんとジョナサン博士が作った『量子共鳴通信網』を起動させる唯一の“鍵”なんだ」

悠真の声が石室に響き渡った。だれも、それ以上なにも言えなかった。

澪が、寂しげにうつむいたのがわかった。


第二節 直海の涙

次の日の夜、まだ八歳の和真が寝た後、女性陣が澪の部屋に集まっていた。澪、麗、綾子、葉月、直海、遥、あかりの七人。

「女子会だ、女子会!」

遥が楽しそうに言う。

「たしかに、初めてよね、女性だけで集まるの」

葉月が反応する。

「こういうの、あこがれてたんだよね、実は」

綾子もうれしそうだった。

が、ただひとり、直海だけが部屋に入って来る前から、少しうつむきがちで、緊張した面持ちだった。澪はそれを察して、直海の隣に座っていた。

「ごめん。今夜、女の子たちだけで集まれるかなって、澪さんにお願いしたの、私なんだ」

みなの視線が直海に向く。

「どうしても、話しておきたいことがあって……。いえ、話しておかなきゃいけないことがあって」

膝に置いた拳を、直海がぎゅっと握る。

「話しておかなきゃならないこと?」

麗が尋ねた。しばらくの間、部屋に静寂が訪れた。

直海はしばらく目をつむり、一度、大きく深呼吸をしてから、なにかを覚悟したように、床の一点を凝視しながら話し出した。

「契約の箱の前で、神器を手渡されるとき……、実は、私、怖かったの。怖くて、怖くて、逃げ出したかった……」

「そんなの、みんな怖かったに違いないじゃん」

遥が、その瞬間を思い出すように言った。みながうなずいている。

「そういう怖さじゃない。私は……、自分の罪の罰を受けて、死ぬかもしれない……そう思ったの」

直海の声がわずかに震えている。

「罪の罰?」

「うん、私のような罪深い人間が、聖なる神器に触れようものなら、聖い神さまの逆鱗に触れるに違いないって……。それが怖かった……」

「なぜ、そう思ったの?」

澪の声はどこまでもやさしく、穏やかで、あたたかかった。直海の目から涙がこぼれた。

「私は……人殺しだから……。人殺しの偽善者だから……」

神職の末裔として舞に励み、父ジョナサンとともに太鼓に打ち込んで、まっすぐに育ったと周りからも見られていた、両親自慢の娘・直海。彼女は高校卒業を機に、東京の大学に進学した。そして、やがて、恋人ができた。同じ大学のサークルの先輩だった。

が、ある日、妊娠していることがわかった。在学中ということもあり、悩んだが、恋人の提案に従い、中絶したのだった。親にはもちろん内緒で──今でも彼らは知らない。

ただ、日を追うごとに、後悔の念が大きくなっていった。「自分は、命を殺した」と。「それも、自分自身の子どもを殺した」と。

恋人とも結局別れ、直海は、ひとり、大きな罪悪感に悩まされ続けていた。

「ひとりでいたら、気が狂うかもしれない、自ら命を断ってしまうかもしれない──そう思ったの。別に、私ひとりきりなら、それでもかまわなかった。

 でも……父や母のことを考えたら、それもできなくて……」

そして、声を一段下げて、続けた。

「父と母には、ほんとうのことを話そう、話さなきゃって思ったのもあって、卒業後、佐渡に帰ったんだけど、ふたりのやさしい笑顔を見たら、話せなくなっちゃって……。三年間、ずっと先延ばしにしてきたんだ。何事もなかったのかのように、笑顔を取り繕って……。日本と世界の大患難のことも言い訳にして。

 だから、怖かった。あの神器を触れた瞬間、裁かれて死んだらどうしようって」

直海は、静かに首を振って続けた。

「ううん、違うな。私は、自分が裁かれて当然だと思ってる。死んでも当然の報いだと思う。私がほんとうに怖いのは、両親にほんとうのことを話さないまま、死んでしまうこと。なにも知らないまま、遺される両親の気持ちを考えたら……それが、怖くて怖くて……」

そう言って、直海は口をつぐんだ。ぐっと、堅く唇を結んで、泣くのをこらえていた。

そのとき、隣にいた澪が、まるで母親のように、直海をやさしく抱きしめて言った。

「直海。生きててくれて、ありがとう」

その瞬間、直海の涙腺が決壊した。

「私……生きてて、いいの……? 生きて、いいの?」

澪の腕の中で、直海が尋ねる。

「生きてていいに決まってる! 生きなきゃだめ!」

静かに、やさしく、澪がささやいた。

澪に抱きしめられ、直海は声を殺して泣き続けていた。だれも、すぐには言葉を挟めなかった。

最初に動いたのは、遥だった。遥は、ぐしゃぐしゃになった顔のまま、直海の隣へ移動すると、無言でその背中に抱きついた。

「……ひとりで抱えすぎだよ……」

涙声だった。

「そんなの……苦しかったに決まってるじゃん……」

直海は、答えられなかった。ただ、肩を震わせ続けていた。

「私さ……」

遥が直海を見た。

「自分の血筋が嫌で、自分を呪ってた。でも、直海さんは……自分を責め続けながら、それでもここまで来た。私より、ずっと重いものを背負って」

遥の声には、いつもの軽さがなかった。

「私には、直海さんを責める資格なんて、全然ない」

その様子を見つめながら、麗が静かに言った。

「看護師として、たくさんの命の終わりを見てきた。助けられなかった命も。……でも、直海、あなたが背負ってきたものの重さは、私には想像もできない」

麗は、まっすぐに直海を見た。

「ただ一つだけ言える。あなたは、その重さから逃げなかった。ずっと、正面から向き合い続けてきた。それだけは、たしかだよ」

その言葉に、直海の唇が震えた。

葉月が、小さく息を吐いた。

「私も……自分に陰陽師の資格があるのかって、ずっと思ってた。お師匠様に選ばれた意味が、わからなかった。直海の気持ち、ほんの少しだけわかる気がする。

 ……ねえ、直海。もし、“汚れた人間は神器に触れられない”んだったら、たぶん、ここにいるだれも触れないよ」

みなが葉月を見た。

「だって、人間って、みんな弱いもの。後悔もあるし、罪悪感もあるし、言えないこともある。でも、それでも生きてる」

葉月はやさしく笑った。

「だから、“響き”って、完璧な人間じゃなくて、“痛みを知ってる人”に共鳴するんじゃないかな」

綾子は、直海の手をそっと取って、静かにうなずいた。

「私も、そう思う」

そして、涙を浮かべたまま続けた。

「神さまって、たぶん、“裁くため”だけにおられるんじゃないんだろうね」

その言葉を聞いた瞬間、直海は、再び堪えきれなくなった。顔を覆い、子どものように泣き崩れた。

あかりが、少し迷ってから口を開いた。

「私ね……病院で、何人もの患者さんを看取った。その中には、自ら死を選ぼうとしていた人もいた。そういう人たちに、私はいつも言ってた。『生きていてくれて、よかった』って」

涙をぬぐいながら、あかりが言う。

「今、澪さんがあなたに言った言葉……私も、同じ気持ちだよ。直海さんが、生きててくれて、ほんとうによかった……」

直海の目から、涙がとめどなくこぼれた。部屋の中には、彼女たちの温かい涙の気配と、すべてを包み込むような静けさだけが満ちていた。

そのとき、葉月がはっとしたように自分の胸に手を当て、目を見開いた。

「あっ、今、“響き”を感じる。あの契約の箱の前で、神器を手にしたときに感じたのと同じ“響き”を」

葉月の言葉に、遥も自分の両手を見つめながら、深くうなずいた。

「うん。私も、わかる。これなんだね。“響き”を合わせるって」

だれも声を上げなかった。けれど、その場にいた全員が、たしかに感じていた。

悲しみも、後悔も、弱さも、痛みも。それらを隠すのではなく、受け止め合ったとき、人と人との間に生まれる、あたたかく、静かな共鳴。

それは耳で聞く音ではなかった。特別な神器だけが放つものでもなかった。直海の痛みを分かち合い、その命を全員で抱きしめたこの部屋の空気そのものが、あの地下最深部の契約の箱〈アーク〉と同じ、どこまでもあたたかく、瑞々しい生命の振動──シューマン共振──と完全に同調していたのだ。

契約の箱の前で感じた“響き”は、人が、人を受け入れたとき、赦しと祈りが重なったとき、たしかに、人の心の中にも生まれるのだった。

和真が持つ勾玉、葉月が持つ剣、遥が持つ鏡。これから自分たちが目覚めさせ、世界へ広げていくべき“響き”とはなんなのか。そのほんとうの意味を、この夜、彼女たちは言葉ではなく、自らの肌と魂で、たしかに理解した。


第三節 〈Y-UMA〉

「ねえ、悠真。悠真は知ってたんでしょ? 直海のこと」

翌日、悠真とふたりで、街を一望できる裏山に登ったとき、澪は訊いた。

「うん、知ってた。〈レムノス〉が沈黙する前に、情報をもらってたから」

再生が進む東京の街を遠くに眺めながら、悠真が答えた。

丘の上から見下ろす2043年の東京は、かつて世界で最も過密で、欲望に溢れていたあの巨大都市の面影を、奇妙なほど静かに脱ぎ捨てようとしていた。巨大な広告モニターが空を埋め尽くし、眠ることなく光り続けていた旧文明の面影は、ほとんど消えている。

巨大地震と富士山噴火、そして太陽フレアとによって一時は文字通りの死都と化した場所だ。ガラスとコンクリートの墓標のように立ち並んでいた超高層ビル群の多くは、今や上部が崩落するか解体され、その痛々しい断面を太陽の光に晒している。

だが、そこにあるのは絶望ではなかった。人々は、以前と同じ街を取り戻そうとはしなかった。

遠くに見える倒壊したビル群の跡地には、棚田のような段状農園が広がっているのが見えた。かつてアスファルトで埋め尽くされていた道路の跡には、今やたくさんの草が、川の流れのように力強く這い回っている。崩れたビルの隙間、都市の廃墟を苗床にして、自然が猛烈な勢いでその命の色を取り戻しているのだ。そしてその合間、ところどころに、『プロメテウス』や『響』の恩恵を受けた新しい低層の木造建築や、地域ごとに自給自足を行うためのクリーンな菜園が、パッチワークのように点在している。

裏山の下を走るかつて高速道路だった場所には、水路が通され、小型水力設備が静かに回転していた。旧文明では、「効率」のために地下へ押し込められていた川や土や風が、再び地上へ戻ってきていた。

錆びついた鉄骨のあいだから、復興に携わる作業員たちの小さな影と、小気味よい金属音が、晩秋の風に乗ってかすかにここまで届いてきた。

それは、旧文明の傲慢な傷跡を、新しい生命の営みがやさしく覆い隠していくような、あまりにも健気で、美しい「傷だらけの再生」の情景だった。前夜、涙ながらに過去の傷をさらけ出し、それでも前を向いた直海の姿が、どこかこの街の呼吸と重なって見える。

空にはまだ、火山噴火の名残である薄い霞が漂っている。だが、その向こうには、たしかに青空があった。

澪は、しばらく無言でその景色を見つめていた。風が吹き抜ける。

「こんなに変わってたんだ。空が広い。……なんだか、東京じゃないみたい」

澪が小さくつぶやく。悠真が笑った。

「新しいけど、懐かしい感じがする。たぶん、こっちのほうが、本来の人間の街に近いんだろうね」

空へ伸びるための都市ではなく、人が、生きるための街。

自然を支配するためではなく、自然と共に呼吸するための文明。

それが、今の日本だった。

「みんな、いろいろなものを抱えてる」

悠真が静かに言った。

「後悔も、罪悪感も、喪失も。……でも、それを抱えながら、それでも未来に向かって生きてる」

悠真は、遠くの街を見つめたまま続ける。

「自分のためだけじゃない。この世界全体の未来のために」

そして、愛おしむように目を細めた。

「あの街が、そして、この国が、きっと、みんなに教えてくれる。人間は、どんなに傷ついても、何度でもやり直せるんだって」

澪は、そんな悠真の横顔を見つめた。一万年に一度の太陽フレアまで、あと7ヶ月。そのとき、この隣にいる最愛の人は、この街を、そして新しい文明を築くために進み始めたこの地球の未来を守るために「響き」となって消えてしまう。一秒でも長く、彼の温もりに触れていたい。一秒でも長く、彼と同じ景色を目に焼き付けておきたい──。澪の胸の奥から、切ないほどの衝動が突き上げてきた。

そんな澪の心を察したかのように、悠真が言った。

「昔読んだ物語に、こんなのがあった。ある国の幼い王様を命がけで守り抜いた“師”ともいうべき忠臣に、自分はなにをもっておまえに報いたらいい?と質問したんだ。そのとき、彼は王に答えるんだ。本気でそう思っているのなら、名もなき民たちのために王として生きなさい、と。

 おれは王でもなんでもない。でも、おれにしかできないことがあるのなら、この世界で、懸命に未来に向かって生きている名もなき人たちのために、この命を使いたい。それが、じいちゃんや清華ばあちゃん、なにより、澪の“思い”に、“愛”に、報いることになると思うから……」

「ずるいね、悠真……」

澪が寂しそうにつぶやいた。隣にいるはずの悠真の、風に揺れるその髪も、遠くを見つめるその目も、どこか、少しだけ、もうこの世界の人ではないように見えた。


「悠真。ひとつお願いがあるんだけど」

数日後、澪が言った。「珍しいな、澪が」と思いながら、悠真が澪を見た。

「一緒に、行きたいところがあるの」

「行きたいところ?」

問い返す悠真に、澪が答えた。

「うん。私たちが働いていた国立先端医療病院に行きたいの。あのころ一緒に働いていた人たちに元気になった姿を見せたいし、お礼も言いたい。

 それに──」

澪が悠真をまっすぐに見つめた。

「それに、悠真も、ずっと気にしてたでしょ? 行きたいって思ってたでしょ?」

そう言って、笑顔になった。悠真は驚いて、言葉を失った。それが、答えだった。

「わからないはずないじゃん。私と悠真の関係だよ」

明るく、澪はそう言った。

「澪には、かなわないな……」

そう言って微笑む悠真の目には、うっすらと涙が光っていた。

 

翌日、悠真と澪、麗とあかりの四人は、かつての職場へ向かった。

国立先端医療病院──孝三と清華も働いていた国立神経情報研究所を併設し、山肌に寄り添うように建っていた巨大な複合施設は、今は大きく変わっていた。国立神経情報研究所は、今はない。病院も建て替わり、自己修復材料『KIBOU(希望)』を用いた建物になっている。

電力はもちろん、常温核融合装置『プロメテウス』によって安定的に供給されている。合成燃料も使われている。

「いかにも病院といった、特有の威圧感のようなものは全くなくなったね」

病院の敷地内に入るなり、麗が感嘆の声を漏らす。

四人は、あちこちキョロキョロしながら進み、建物の中に入る。

四人が知っている病院のエントランスは、常に人でごった返していた。入口には必ず警備員がいて、来院者を誘導したり、タクシー乗り場へ案内したりしていた。受付をしている人、順番を待つ人、会計をしている人、予約機器の操作をする人、そのやり方を教える職員。なかなか名前を呼ばれず、いらいらしている患者さんや来院者もいた。

そんな光景は、ここにはいっさいなかった。麗が再び言った。

「近隣の方々の憩いの場にもなってるみたい」

「うん。病院というよりも、植物園みたい……」

うなずきながら、あかりも言う。実際、悠真も驚いていた。

「私は……なんだか、浦島太郎になったみたい」

そう言って、澪が笑った。

そのときだった。

「もしかして……二階堂さん?

 え? 一ノ瀬さん?

 榊先生に……、本間さん?

 え? どうしてここに……?」

「斉藤……師長……」

澪と麗とあかりの三人が飛びついていった。

その瞬間、はっと、われに返ったかのように、師長がまじまじと澪を見た。

「一ノ瀬さん……あなた、歩いて……。目も、見えるようになったの……?」

「はい、みんなのおかげで」

澪が答えると、師長は感極まったように、ぽろぽろと涙を流し始めた。

「よかった……。ほんとうに、よかった……。みんな無事で。元気そうで……」

澪も、麗も、あかりも、つられて、師長にしがみつきながら泣き出した。そんなひとりひとりの背中を、やさしくぽんぽんとたたきながら、師長は微笑んでいた。

 

師長は、新しい病院内を案内してくれた。

常温核融合装置『プロメテウス』、ソニックテクノロジー『響』による医療機器や放射線防護繊維やスクラブ(医療従事者用のウェア)、マスク。再生医療も、三年間で大きく進歩していた。

「素敵な病院になりましたね」

麗が感想を述べた。

「首都直下型地震と富士山が噴火したあとは、もう無理かな?って、正直、思ったの。再建なんてできっこないって……。もう、それどころじゃない。他人のことなどかまってられない、そんな時代が来るんだろうなって」

そう言って、四人の顔を見た。みな、気まずさを感じていた。

「……正直に言うわね。最初のころは、たしかに、榊先生に対しても、二階堂さんに対しても、恨まなかったわけじゃないの。患者さんたちを見捨て、職場を放棄して、逃げたんだって、みんな思ってた。無責任だって」

心が痛かった。

「それに、榊先生に関しては、あんな状態の一ノ瀬さんを連れていなくなるなんて、医者としてだけじゃない、人間として最低だと言っていた人たちもいたの」

もっともなことだった。それだけに、悠真にはズシンと来た。

「きっと、回復が絶望的な一ノ瀬さんと一緒に、榊先生は死ぬつもりなんだと言っていた人たちもいた……」

師長の言葉に、あかりがうなずいている。

「でも、違った。

 震災と噴火から一年ほど経ったころ、高松と大阪から、あの『プロメテウス』と合成燃料が運ばれてきたの。そして、三木博士と岡博士たちが、取り付けに来てくれた。そのときにおふたりが言ってたの。榊先生から頼まれた、と。一ノ瀬さんも、車いす生活だけど、二階堂さんが献身的に介助してくれてる、と」

みなが驚いて顔を上げた。

「そのおかげで、私たちがどれだけ助かったか。どれだけ多くの患者さんが助かったか……。ほんとうに、ありがとうございました」

師長はそう言って、深々と頭を下げた。


四人が来ている、という知らせはあっという間に病院中に広まり、師長と話していた会議室には、次から次へとかつての同僚たちが訪ねてきた。休みだったのに、わざわざ会いに来てくれた人たちもいた。

澪の同期の看護師仲間たちは、泣いて喜んでくれた。

「失明、失語、下半身麻痺……。大災害の中、これからどうやって生きていくんだろう?って心配してたんだ。私なら、絶対に耐えられないって。

 だから……ほんとうによかった……」

悠真は少し離れたところで、みんなの様子を眺めていた。

(澪、よかったな)

心の中で、そう呼びかけた。

そのとき、ぽんぽんと肩をたたかれた。振り向くと、そこには、内科医の田中がニコニコして立っていた。悠真の三年先輩で、悠真が澪を連れて病院を出て行くとき、「どこに行くんだ?」と声をかけてきた医師だった。

「田中……先生……」

「よっ、元気そうで安心したぞ」

何事もなかったように、気さくに声をかけてきてくれた。悠真は、頭を下げていた。

「田中先生、あのときは、なにも言わずに病院を去って……ほんとうに、ご迷惑をおかけしました。すみませんでした」

田中はニコニコしたまま言った。

「もう気にするな。おまえは、おまえにしかできないことをやった。それが、たまたま、医者としてじゃなかったという、ただそれだけのことだ。おれたちは、おれたちがやるべきことを、それぞれの場所でやってきた──そうだろ?」

そう言われて、悠真は、ほんとうの意味で心が晴れたことを感じた。いつのまにか、涙があふれていた。

しばらくすると、悠真の同期の医者たちも集まってきた。当直中に寝てしまい、指導医の先生に怒られたことなど研修医時代の思い出話に花が咲く中、親しくしていた先輩や後輩も集まってきた。

そんな中、同期のひとりが尋ねた。

「なあ、悠真。AI〈レムノス〉の最期のメッセージ『希望は東方に』というのは、まさにこの日本のことを告げていたのは、いまや、世界中の人たちがわかってることだけど……。じゃあ、『Y-UMA』ってなんなのか?──だれか特定の人物のことなのか、それともほかのなにかなのかって、今、いろんな人が考察してるの、知ってるか?」

そして、まじめな顔で、言った。

「あの『Y-UMA』って、おまえのことなんだろ? この病院で、おまえたちのことを知ってる職員たちは、みんなそう考えてるよ」

いつのまにか、会議室中がしんと静まり返り、悠真の返答を待っている。彼が続けた。

「この病院内に、もともと、おまえのおじいさんの榊孝三博士と、一ノ瀬さんの祖母の一ノ瀬清華博士が所属する研究施設があったこと。あの震災の日、おまえが一ノ瀬さんを連れて病院を去ったこと。『プロメテウス』が、おまえに頼まれたからと運び込まれて、病院も職員も助けられたこと。

 あの絶望的な障害を負った一ノ瀬さんが、今、完全に回復してここにいるのを見て、おれは、はっきりと確信した。〈レムノス〉が遺した『Y-UMA』というのは、おまえなんだと。なあ、そうなんだろ?」

「……さあな」

悠真は、少し困ったように笑った。

「でも、仮にそうだったとしても、おれは、ただの“鍵”にすぎないさ。人類に“希望”をもたらすなんてこと、おれひとりじゃできっこない」

そして、病院の仲間たちを見回した。

「それは、きっと、この世界を、もう一度立て直そうとしてる人たち全員のことなんだと、おれは思うよ」


夕方、日が暮れ始めたころ、四人が病院を出ると、仲間たちが待っていた。皇太子・和真に、内親王・綾子。見るからに屈強そうな男。学者のような、だが、サムライのような風格をまとう男。山伏に、陰陽師、神楽の衣をまとった女性と、能の衣装をまとった女性。そして、三本足の黒い鳥。

その仲間たちと一緒に病院を後にする姿を眺めながら、かつての同僚たちは、心の中で繰り返していた。

──それぞれの場所で、それぞれのやるべきことを──。

西に傾いた夕陽が、その背中を長く照らしていた。


【第3章】 希望の山

第一節 新しい富士山

2044年初頭。

日本中で、ある“異変”が静かに話題となり始めていた。

それは、富士山だった。

2040年5月24日(木)午前6時02分 に発生したVEI-7規模、観測史上最大級の噴火によって、日本人の心の拠り所であった富士山は、山頂部を文字通り吹き飛ばされた。かつて気高く美しい稜線を誇った3,776メートルの霊峰は、火砕流と山体崩壊によって約2,800メートルにまでその背を縮め、無惨な凹凸を残す漆黒の「傷口」へと姿を変えていた。

その姿を初めて見た人々は、言葉を失った。

「日本が死んだ」

そう感じた者も少なくなかった。それほどまでに、富士山は、日本人にとって単なる山ではなかったのである。それは、祈りであり、記憶であり、心であり、魂そのものの象徴のような存在だった。

古来より、人々は富士を見上げながら生きてきた。旅人も、農民も、武士も、芸術家も。悲しみの中にいるときも、希望を失いかけたときも、人々は、ただそこに在り続ける富士の姿に、自らの心を重ねてきた。

だが、その富士が崩れた。まるで、旧文明そのものが崩壊したかのように。

それからまもなく四年。

かつて、連鎖的な大災害に見舞われた日本のことを「大審判の国」と揶揄していた世界の国々は、その日本から目が離せなくっていた。

裁かれたのではなく、むしろ奇跡的に守られた国。

AI〈レムノス〉の「希望は東方に」という最期のメッセージ。

その言葉通り、驚異的な技術とスピードで、新しい世界、新しい文明を築き始めた国。

その技術を、なんの見返りも求めずに公開し、提供している気高い精神性。

新しい世界の在り方を、身をもって示し続けている国民性。

今や日本は、世界中の国々・人々にとって、感謝と尊敬と信頼と憧れの的となっていた。

そして、まるで、そんな日本人の姿に応えるかのように、富士山の大きく開いた火口の中に、円錐形の新しい火山丘が形成され始めたのだ。崩壊した富士山の“傷口”から、新しい富士が生まれる──それは、日本人にとってだけでなく、世界中の人々にとって、まさに新しい文明・新しい世界を象徴するような出来事であり、人類の希望そのものとなった。


火山灰のベールがようやく薄れかけた山麓で、その「異変」を最初に捉えたのは、人間の目ではなかった。

富士山北麓、かつて富士吉田市と呼ばれた場所のほど近くに設置された、無人火山観測シェルター。そこから定期的に自律飛行を繰り返す、気象庁の自律型ドローン調査隊「FUJI」の三号機が、その日、カルデラ内部の熱赤外線画像を捉えた。

「──シグナル、レッド。いえ、これは……」

山梨県側に新設された甲府盆地防災センターで、モニターを監視していた若き火山観測員の原は、わが目を疑った。大噴火以降、富士山の火口は完全に沈黙し、有毒な火山ガスを吐き出すだけの「死の淵」となっていたはずだった。だが、ドローンが送ってきた三次元レーザーセンサーの解析データは、巨大な火口の底、海抜約2,200メートルの中心部が、わずかに「隆起」していることを示していた。

最初は、センサーのバグだとだれもが思った。旧文明の精密機器は、大患難の太陽フレアによる電磁パルスでその多くが狂わされていたからだ。原はすぐにドローンに高度を下げさせ、可視光カメラに切り替えた。火山ガスの隙間を縫うようにして、カメラのレンズがカルデラ底をズームする。

そこにあったのは、バグではなかった。かつてすべてを焼き尽くし、冷え固まったはずの黒い玄武岩の溶岩流を突き破るようにして、赤黒い、不気味なほど艶やかな岩塊が、小さな頭を覗かせていたのである。直径はわずか50メートルほど。だが、それは明らかに地下のマグマ溜まりから押し上げられて出来た、新しい「溶岩ドーム(火山丘)」の誕生を意味していた。

「火口内部に、新たな隆起が見られます」

「ばかな……」

原の隣でデータを精査していたベテラン上席研究員の木村が、震える手でメガネをかけ直した。通常の火山学の常識では、VEI-7級の大噴火を起こした後の火山は、マグマ溜まりが空に近くなり、数百年の休眠期か、あるいはさらなる大崩壊(カルデラ沈没)へ向かうのが鉄則だ。それなのに、わずか三年で、富士山は再び「生み出す」ための活動を始めたというのか。

「信じられん。これは再噴火の予兆なのか? それとも……」

センター内には緊張が走った。もしこれが新たな大噴火の兆候であれば、ようやく再生の歩みを始めた関東・中部圏のコミュニティは再び壊滅する。原たちは息をのみ、二十四時間体制での監視を開始した。

だが、観測を続けるうちに、研究者たちは、自分たちが目にしているものに戦慄した。それは、どう考えても、噴火後によくある地形変化ではなかった。火口内部に形成されつつあったのは、単なる溶岩ドームではなかったのだ。中心部から、円錐形の火山丘が、ゆっくりと、だが確実に成長を始めていたのである。それはまるで、巨大な傷口の奥から、新たな命が芽吹いているかのようだった。

専門家たちも驚いていた。通常、VEI-7規模のカルデラ形成級噴火のあと、山体が再び形成されるには、数万年単位の時間が必要だと考えられていたからだ。だが、富士山では異常な速度でマグマ活動が安定し、新たな火山丘が形成され始めていた。まるで、地球そのものが、慎重に、新しい富士を育てているかのような穏やかな活動だった。

「新しい富士が生まれ始めている……」

そのニュースは、日本中を駆け巡った。


長岡の『ミライ』でも、この現象は大きな話題となっていた。

「普通じゃありえない速度です」

火山学にも詳しい研究員のひとり山本が、興奮気味に言った。

「マグマ溜まりの状態も異常に安定している。それに、周辺の地磁気データまで変化しているんです」

「地磁気?」

十蔵が眉をひそめる。

研究員がうなずいた。

「富士山周辺だけ、シューマン共振との同期率が異常に高いんです。まるで……」

彼は言い淀んだ。

「まるで?」

ジョナサンが先を促す。

研究員は、巨大モニターへ映し出された波形を見つめながら、静かに言った。

「地球そのものが、“響き”を取り戻し始めているみたいなんです」

その場にいただれもが、言葉を失った。

富士山は、単なる火山ではない。日本列島そのものの“共鳴点”なのではないか──そんな仮説さえ語られ始めていた。実際、富士山周辺では、奇妙な現象が次々と報告されていた。枯れたはずの森林地帯から、新芽が急速に芽吹き始めている。動物たちが戻ってきている。長年姿を消していた鳥類まで確認され始めた。


人々はその映像を食い入るように見つめていた。灰色の巨大火口。その中央から、まだ黒々とした岩肌をむき出しにしながらも、たしかに“山”が生まれ始めている。だれもが、そこに希望を見ていた。

崩壊した富士山の“傷口”から、新しい富士が生まれる──。

それは、日本人にとって、まさに希望そのものだったのである。いや、日本だけではない。富士山の再生は、世界中に希望を与えていた。海外メディアは、新しい富士をこう呼び始める。

Mountain of Hope──希望の山、と。

人々は、富士山の映像を見ながら涙を流した。崩壊したはずの山が、再び生まれようとしている。ならば、人類もまた、やり直せるに違いない。そう思えたからだ。


第二節 目覚める神器

2044年4月。

自衛隊の輸送ヘリが、春まだ浅い富士山上空へと高度を上げていった。機内は静かだった。エンジン音の向こうで、だれも言葉を発しない。窓の外、眼下に広がる富士の裾野には、今はもう「樹海」はない。かつて富士五湖と呼ばれた地域も、噴火による地殻変動で一つの巨大な湖「富士新海」へと変貌していた。だが、確実に、緑が戻りつつあるのが見て取れた。

富士山の山肌は、噴火からまもなく四年が経とうとしている今もなお、黒々とした溶岩の傷跡を残している。頭部を失った巨大な黒い外輪山。だが、その傷跡の合間から、細い緑の筋が、いくつも這い上がり始めていた。新しく生まれつつある、漆黒と深紅のグラデーションをまとった、美しき「希望の山」の頂が。

「あれが……」

遥が、窓に顔を近づけた。火口縁の向こう、はるか下の暗闇の底に、それは見えた。

赤黒く、艶やかに光る岩塊。まだ小さい。だが、たしかに、そこにある。

「生きてる……」

葉月がつぶやいた。草薙剣を抱えるその腕に、わずかに力が入った。


前夜、一行は、 『ミライ』の会議室で、火山学に詳しい研究員・山本から、富士山の「実際の形成の過程」について、火山観測センターから共有された最新データをもとに説明を受けた。

「この新しい火山丘は、通常の地質学でいう『流紋岩質』の粘り気のある溶岩ドームではありません。驚くべきことに、かつての富士山と同じ『玄武岩質』なんです」

山本の言葉に、みなが興味深そうに耳を傾ける。

「玄武岩質って、サラサラしていて、ハワイの火山みたいに流れる溶岩ですよね? それがなんで、こんなにきれいな円錐形の山を作れるんですか?」

綾子が質問する。

「そこが、この『希望の山』の最大の謎であり、奇跡なんです」

山本は画面のグラフィックを指し示した。

「通常、サラサラした玄武岩溶岩は平らに広がってしまいます。しかし、この新火口から湧き出ている溶岩は、まるで自らに『形の設計図』があるかのように、火口の中心から一定の角度(約三十度)を保ったまま、急速に結晶化して積み上がっています。それだけじゃありません。表面の温度は摂氏百度前後と、マグマとしては異常に低いんです。なのに、流動性を失わない」

「それって、もしかして……」

澪がハッとして悠真を見た。

「うん。水の結晶が、美しい音楽を聞かせると綺麗な六角形になるように、マグマが、地球の底で鳴り響いている『シューマン共振(7.83Hz)』の美しさに合わせて、自ら幾何学的な結晶構造を整えながら固まっているんだ。だから、爆発も激しいガス噴出もない」

九明がつぶやいた。

「噴火ではなく……、地球による『結晶の彫刻』……」

データによれば、新しい火山丘はすでに直径500メートル、高さ200メートルに達していた。その中心からは、かつてアークの地下最深部で感じたものと同じ、瑞々しい、生命の振動がパルスとなって地上へ放射されている。

十蔵は興奮気味に言った。

「そうなんです。これはまさに、地球そのもののソニックテクノロジー……『響』そのものなんです」


輸送ヘリは、かつて富士山五合目だった場所の近くに設けられた自衛隊の臨時着陸帯に降り立った。まだ寒い。が、そこから先は、徒歩だった。

「徒歩で行くのか?」

名嘉が確認する。悠真がうなずいた。

「ここから先は、機械じゃなく、自分たちの足で登るんだ。大地の呼吸、富士山の鼓動、地球の“響き”を感じながら」

名嘉はなにも言わなかった。ただ、黙って先頭に立った。

一行は、自衛隊の装備を身に着け、火山ガスに対応したマスクをつけ、黒い溶岩の斜面を登り始めた。足元は不安定だった。かつての登山道は、噴火によって完全に消えている。残っているのは、岩と灰と、そしてわずかな新芽だけだった。

「足元に気をつけて」

麗が澪に寄り添いながら言う。澪は麗の手を借りながら、しかし自分の足で、たしかに歩いていた。悠真も和真の手を取って歩いている。

風が吹く。冷たい、硫黄の匂いを含んだ風だ。

「この風……」

道心が、深く息を吸いながら言った。

「生と死が、混在している」

「いかにも」

九明が静かに応じた。

「山岳修験道の聖地が、多くの場合、火山や険しい山にあるのは、そのためです。生と死の境界に立つことで、人は、本来の自分に戻れる」


火口縁に辿り着いたとき、一行は言葉を失った。眼下に広がるのは、直径3キロを超える巨大なカルデラだった。かつての富士山の姿は、ここにはない。あるのは、黒く焼けた岩壁と、底から立ち上る白い噴気だけだった。

だが、その中央に、それはあった。

赤黒い円錐形の丘。

高さはすでに200メートルを超えている。それが「生き物」のように呼吸していた。溶岩ドームの表面には、まるで血管のように、かすかな赤色を帯びたエネルギーのラインが幾筋も走り、それがリズミカルに明滅している。耳を澄ますと、ゴーーーという地鳴りではない。もっと低く、心地よい、まるで母親の胎内にいるかのような重低音の「ハミング」が、足の裏から全身へと響き渡ってきた。

かつての富士山の雄大さとは比べようもないが、しかし、新しい富士は、たしかに、ここにあった。

「生まれてます」

和真が静かに言った。その声は、幼いのに、どこか古い時代の言葉のように響いた。

「うん」

澪がうなずいた。

(感じる、悠真。あの丘から、鼓動が来てる)

(わかる)

悠真が、火口縁の端に立った。眼下の丘を見下ろす。

その瞬間、草薙剣が、葉月の腕の中で、かすかに光った。

「……葉月」

悠真が振り返らずに言った。

「はい」

「剣を、前へ」

葉月は、草薙剣を両手で捧げ持ち、火口へ向けた。剣の刃文が揺れた。まるで、呼吸しているかのように。

そのとき、火口の底から、低く長い振動が上がってきた。耳で聞こえるものではない。足裏から、骨から、血液から伝わってくる“響き”だった。

「シューマン共振……」

十蔵が計測機器を手に、息をのんだ。

「周波数が……上がっている。7.83ヘルツから、急速に……」

「いくつまで?」

ジョナサンが問う。

「わかりません。こんなデータ、見たことがない」

剣の光が強くなる。葉月は、それを手放すまいとしていた。だが、剣は、まるで自分の意志を持つかのように、葉月の手の中で震えていた。

「葉月」

澪の声がした。葉月が振り返ると、澪が静かに微笑んでいた。

「大丈夫。あなたが持つべきものだよ」

葉月は、深く息を吸った。そして、剣を掲げた。

その瞬間だった。

火口の底、あの赤黒い丘の頂点から、細く、まっすぐな光の柱が立ち上った。

「なに……」

遥が息をのむ。光は、剣の青白い光と交差した。ただ一点で。

その瞬間、空気が変わった。

風が止む。

噴気が静まる。

世界が、一瞬だけ、息をひそめた。

「次は、勾玉を」

悠真が言った。和真が前へ出る。小さな手に、八尺瓊勾玉を握りしめている。

「和真、怖くないか?」

名嘉が、低く問いかけた。

「怖くないです」

和真はまっすぐに答えた。

「ここは……懐かしい場所です」

そして、勾玉を掲げた。草薙剣が放つ青白い光と、勾玉が放つ緑の光が、重なった。

火口の底から、新たな振動が来た。今度は、温かかった。

「お母さんのおなかの中みたい」

和真がつぶやいた。その言葉を聞いた瞬間、名嘉の目が、わずかに潤んだ。

「最後は、鏡だ」

悠真が、遥を見た。遥は、八咫鏡を抱えていた。その手が、小さく震えている。

「遥」

名嘉が言った。

「自分を映せ」

「え?」

「鏡なんだろ。自分を映してみろ」

遥は、少しの間、名嘉を見た。そして、鏡を自分の顔の前に向けた。

その表面が、揺れた。映ったのは、遥の顔だった。ただ、少し違った。弱さも、傷も、逃げていた過去も、全部映っていた。それでも、前を向いていた。

「……大丈夫」

遥が小さくつぶやいた。そして、鏡を火口へ向けた。

三つの光が、一点で交わった。

青白い光。

緑の光。

そして、鏡が反射した、火口から立ち上る光。

三つの光が火口の中央、生まれつつある新しい火山丘の頂点へと収束していった。

その瞬間。ズゥゥゥゥン……

富士山が、鳴った。低く、深く、大地の底から。

地鳴りではない。

爆発でもない。

地球の底から、大きな、だがどこまでもやさしい振動が返ってきた。それは、機械の数値でも、超常現象の破壊でもない。人間の「生命」と「祈り」の響きが、地球の「再生」の意志と、完全にガチリと噛み合わさった──そんなふうに感じられる音。まるで巨大な楽器が、初めて正しく調律されたような、完全な「共鳴」だった。

「──同調率、100%。周波数が……一致した。シューマン共振、安定……」

十蔵が手元の計測機器を見ながら、興奮を隠せずに声を震わせた。

「三種の神器のすべてが……富士山のシューマン共振と……完全同期しています」

それを裏付けるように、草薙剣も八咫鏡も、経年のクスミが嘘のように取り除かれて、古(いにしえ)の輝きを取り戻している。

ジョナサンが空を見上げた。

「父さん……見ているか」

その声は、だれにも聞こえないほど小さかった。だが、直海には聞こえた。直海は、父の隣に立った。なにも言わなかった。ただ、その手を取った。ジョナサンは、娘の手を握り返した。

澪が、悠真の隣に来た。ふたりで火口を見下ろす。あの赤黒い丘は、変わらず、そこにあった。だが、なにかが違った。丘の頂点から立ち上る光の柱は、まだ細かった。しかし、その光の色は、たしかに変わっていた。

赤黒から、白へ。

暗から、明へ。

(悠真)

澪が、心の中で呼んだ。

(見てる)

(あの丘……7月7日まで、どのくらい大きくなってるかな)

悠真は、少しの間、黙っていた。

(きっと、もっと大きくなってる)

(富士山は、おれたちより先に、もう知ってるんだと思う)

(なにを?)

(生まれ直すことを)

澪は、悠真の手を握った。風が、また吹き始めた。今度は、硫黄の匂いがしない。冷たいけれど、澄んだ風だった。


第三節 『かごめかごめ』

「遥、どうかしたの?」

翌日、綾子が心配そうに声をかけた。

「富士山の帰りから、なんかへんだよ。体調悪い?」

あかりが遥の手を取って脈を取りながら、その顔を覗き込む。

「特に熱はなさそうだけど……。大丈夫?」

「うん……。ちょっと考えごとしてて……」

「考えごと? どうした? なんかおまえらしくねえな」

名嘉も心配そうに言った。

「なによ、またばかにして!」

そう言って、ぷいっと名嘉に背を向けた途端、遥が声を上げた。

「あっ、わかった! そうだったんだ!」

うれしそうに向き直った。満面の笑みをたたえている。

「なんだ? どうした? 急に」

名嘉が驚く。遥が言った。

「『後ろの正面』って、このことだったんだ!」

「遥、どういうこと?」

綾子が尋ねる。

「あの『かごめかごめ』だよ。

『かごめかごめ

 籠の中の鳥は いついつ出やる

 夜明けの晩に

 鶴と亀が滑った

 後ろの正面だあれ?』」

みなが首を傾げた。遥が続ける。

「前に剣山で、綾ちゃんが、この歌は、ヘブライ語だったっていう説があるって言ったよね? その意味が、三種の神器のことだっていう解釈もあるって」

「うん」

「富士山の火口に行ってから、ずっと考えてたの。あれって、もしかして、富士山そのものにも当てはまるんじゃないかって……」

「どういうこと?」

葉月が言う。いつのまにか、みなが遥に注目していた。

「『籠』というカルデラの中の『鳥』、つまり神器の響きである新しい富士は、いつ出てくるのか?

 『夜明けの晩』という文明の転換期に、『鶴と亀が滑った』つまり、旧文明の崩壊を経て、大地が統べられた……。

 そして、だれもが見上げるのをあきらめ、死んだと絶望していた富士山の傷口の奥つまり『後ろの正面』から、今、新しい山頂がこちらを見つめている……。

 ……そういう歌だったのかもしれない。富士山が、もう一度、生まれ直す日の歌──ずっと昔から、この時代のことを歌ってたのかもしれないなって」

九明が深くため息をつき、感心したように言った。

「さすが、遥だ。“響き”を舞に変える者だけある。

 わらべ歌というものは、不思議なものだ。意味が失われても、“響き”だけは残る。
 人は、それを無意識に歌い継いでしまう……」


「なあ、悠真」

ふと、名嘉が悠真に言った。

「7月7日……おまえが完全量子化して“響き”になった後、富士山はどうなるんだ」

悠真は少し考えてから答えた。

「きっと、もっともっと大きくなる」

「それだけか」

「それだけで、十分だよ」

名嘉は黙った。そして、ぽつりと言った。

「……そうだな」

富士山の麓にも、再建が進む日本の街は広がっていた。まだ傷だらけだった。それでも、たしかに、生きていた。


その夜、悠真がひとりで夜空を見上げていたところに、澪がやって来た。

「まだ、星は戻ってこないね」

「そうだな。もう一度、澪と一緒に見たかったな」

悠真がぼそりと言った。そして続けた。

「『かごめかごめ』の遥の解釈……おれにとっても発見だった。考えたこともなかった」

「うん、驚いた。でも、なんかしっくりきた。

 遥の直観力というか、感受性、すごいよね」

「おれさ。あの遥の解釈を聞いて、思ったんだ……。

 あの歌って、おれにも当てはまるのかもしれないって。おれのことも含めて、長い間歌い継がれてきたのかもしれないって」

澪が、悠真の肩にそっと頭を預けた。悠真は澪の細い肩を抱き寄せた。その温もりを感じるたびに、彼の胸には、切ないほどの愛おしさと、自らに課せられたタイムリミットへの覚悟が去来する。

「ダビデの鍵」として、完全な量子情報体(響き)となり、迫り来る超巨大太陽フレアへ自らを重ね、悠真自身が地球のグリッド全体へ自らを融解させる。それによってフリーエネルギー発生装置『響(HIBIKI)』と『量子共鳴通信網』を起動させなければならない。新しい世界のために。人類の未来のために──。

その運命の日まで、あと、わずか。

「ねえ、悠真」

澪が、まだ星の見えない空を見上げながらつぶやいた。

「新しい富士山が、これから何百年も、何千年も、新しく生まれてくる子どもたちを見守っていくんだよね」

「ああ、そうさ」

悠真は、自らの輪郭が、ほんの少しだけ透き通っていくような錯覚を覚えながらも、力強く微笑んだ。

「富士山だけじゃない。空も、星も、全部残る。人間が、自然を支配するのをやめて、こうして一緒に呼吸を始めたんだ。地球が、おれたちを見捨てるはずがない」

「悠真のおかげだね」

澪が寂しげに言った。

「いや、おれの力なんかじゃない。おれは、澪のおかげで生きてこられたんだから」

ふたりは、そっと唇を重ねた。


【第4章】 それぞれの場所へ

第一節 太陽フレア

2044年7月5日午前10時00分/米ワシントン時間7月4日午後9時、太陽表面の巨大黒点群で、観測史上最大の「X100クラス超」のスーパーフレアが発生した。一万年に一度という人類史上最大級のものである。旧文明を終わらせた2041年10月末の太陽フレアでさえ、人類史上最大規模であったが、X60~70だったとされている。それをはるかに凌ぐレベルだった。

太陽と地球の距離は約1億5千万キロ。スーパーフレア発生から8分後、午前10時08分。第一波ともいえる電磁波が光速で地球に届き、電離層を乱すことによって起こる通信障害「デリンジャー現象」が発生。これにより、地球の昼の側で、短波を用いた長距離無線通信(短波通信)が完全に途絶した。

ヨーロッパやアフリカなど、夜明け前の地域でも、空が、不気味なオーロラの前兆で一瞬妖しくきらめき、世界中の既存の通信網が悲鳴を上げ始めた。

長岡の『ミライ』の古い通信機器や、世界中から届く悲鳴のようなノイズが、ブツブツと途切れ、ザー……という砂嵐の中に消えていく。

「ついに、始まったか……」

和真と綾子がモニターを見つめる中、十蔵とジョナサンがつぶやいた。


ワシントン時間7月4日の夜、そして日本時間7月5日午後から夜にかけては、「プロトン現象」により、太陽で加速された大量の高エネルギー粒子(陽子線)が、第二波として地球を直撃。ただし、2041年の太陽フレアで人工衛星は全滅していたため、衛星障害は発生しなかった。


太陽フレアの本体ともいうべき第三波・コロナ質量は、時速約540万キロという猛烈な速度で、今まさに地球に向かっていた。直撃は、発生から33時間後、7月7日午後2時00分。

太陽フレアと同時に発生するCME(コロナ質量放出)が厄介なのは、莫大な質量のプラズマの塊が地球に衝突することによって磁場を激しく揺さぶり、世界規模の巨大な地磁気嵐を引き起こすからである。原子力など消費型の電力供給に依存しきっていた旧文明のシステムでは、電線やパイプラインなどの長い導体に巨大な電流(誘導電流)が流れ込むことにより変圧器が焼き切れ、広範囲で長期間にわたる大規模停電が発生するリスクがあった。

さらに、高エネルギー粒子の衝突や磁気嵐が、宇宙空間にある人工衛星の精密機器を物理的に破損させることにより、GPSの測位誤差や通信・放送の遮断、インターネット回線の寸断など、生活基盤が一斉に麻痺する可能性があった。

なにより、太陽フレアによる「光(エックス線など)」は約8分で地球に届くが、CMEは時速数百万キロメートルで飛来する「実体を持った爆風」。光が届いたあとも長時間にわたり地球環境を揺るがし続け、防ぐことが極めて困難だった。

それゆえに、三年前、人類の文明は、一度終焉を迎えたのだった。


「X100クラス」超のスーパーフレア発生。世界の科学者たちに大きな緊張が走った。

あれから三年。人類は、それまでとは本質的に異なる新しい文明を築き始め、ようやく光が見えてきたと感じていた。日本政府が公開してくれたクリーンな技術と、なによりも、人類全体の未来に対する愛のおかげで、と。

世界をつなぐ既存の通信網だけは、なお旧文明時代のインフラに依存していた。そのため、そこには甚大な被害が予測されている。だが、『プロメテウス』と『響』を基盤とする新文明の技術体系そのものは、理論上、超巨大太陽フレアにも耐えうると考えられていた。もちろん、不安定化は避けられないだろう。

一度、文明の終焉を経験したからこその恐怖であり、不安であり、緊張はある。

それでも、人類は三年前とは違う──それは、人類に遺された最後の希望とも言えるものだった。

世界各地で、人々が祈るように空を見上げる中、悠真たちは、最後の行動を起こそうとしていた。


第二節 最後の晩餐

7月5日の夕方。ひとりで部屋にいた悠真に、連絡が入った。『ミライ』の特別室に来てほしい、と。

何事かと思って駆け付け、扉を開けたそこに待っていたのは、これまで行動をともにしてきた仲間たちだった。ジョナサンも、三木も、岡もいた。

テーブルにはたくさんの食べ物が並べられ、飲み物も用意されていた。

入口で呆然と立ち尽くす悠真のもとに澪が来て、笑顔で手を引く。

「悠真との最後の夜を楽しもうって、みんなで作ったり、持ち寄ったりしたんだ」

「悠真さんにばれないように準備するの、たいへんだったんだから。ね?」

遥が和真と綾子、直海を見ながら笑う。

「はい。でも、すごく楽しかったです」

和真が笑顔で答える。出会ったときは五歳だった和真も、もうすぐ九歳になる。あのころより、背もずいぶん伸びたが、まだあどけなさが残る。そのきれいな心のまますくすくと育ってほしい──悠真は、ふと、そう祈っていた。

「いや、全然気づかなかった」

素直に驚き、自然に笑顔になった。

乾杯の後、みなで持ち寄った食事を楽しむ。

「悠真君、これ、私が打った本場の讃岐うどん。名づけて、『プロメテウスうどん』。さ、食べてみて」

三木が勧めると、岡が対抗して言った。

「私だって、負けてないぞ。本場のたこ焼きだ。たこ焼き器は、大阪人なら一家に一台は必ず持っているからね。たこ焼き歴50年の腕前を楽しんでくれ」

「おい、岡君。ちょっと紅ショウガ多すぎないか?」

「いやいや、これがいいんだよ。私が50年かけて極めた味だ。

 そんなこと言うなら、三木君のうどん、ちょっとコシがありすぎないか?」

「それは、岡君の顎が弱ってるからだ」

そんなおやじ漫才をしているところに、ジョナサンが割って入ってきた。

「おや、賑やかですね。私だって、おふたりには負けてませんよ。佐渡産コシヒカリの手巻き寿司──三木博士に対抗して、あえて名づけるなら、『ミライ寿司』だ。悠真君、食べてみて」

そう言って、悠真に勧める。

「父さん、それ絶対、ただ自分が米好きなだけだよね」

「直海、余計なことを言わない」

悠真は、みなの笑い声を聞きながら、静かに目を細めた。こんな時間が、永遠に続けばいいのに──ふと、そんなことを思った。


そこに名嘉がやって来た。ワインを持っている。グラスを一つ悠真に渡して、ワインを注ぐ。美しいワインレッドがグラスの中で揺れる。

「おれのお気に入りの山梨のワインだ。あちこち探し回って、ようやく見つけた。おまえと一度飲みたかったんだ」

しみじみと言う。ふたつのグラスが合わさり、美しく、気持ちのいい響きが広がった。

「名嘉さん、飲みすぎないでよ」

遥のからかうような声が近づいてきた。

「なめんな、遥。安心しろ、酔っぱらうほど飲まねえよ」

このふたりのあたたかなやり取りに、みながどれほど癒されてきたことか。名嘉と遥──お互いに癒し、癒され、紡がれてきた関係。これからもずっと続いてほしいと、悠真は心から願った。

そんな悠真の心を察したかのように、遥が、少し照れくさそうに名嘉に言った。

「ね、名嘉さん。私が二十歳になったら、お祝いに、一緒にお酒飲んでくれる?」

一瞬、キョトンとした顔を見せた名嘉が、ぶっきらぼうに答えた。

「しょうがねえな。おれでよかったら、いつでも付き合ってやるよ」

しかし、その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


悠真の隣に澪が座った。豚汁を渡す。

「お、豚汁? 澪が作ったの?」

「悠真、おばあちゃんの豚汁、大好きだったでしょ? だから……」

悠真は手渡された豚汁の香りに目を細め、ゆっくりすすった。

「あー、懐かしい。これこれ。おれが大好きな豚汁だ。やっぱり、うまい!」

そう言って、大喜びする。

和真と綾子、麗とあかりも、お椀を持ってやってきた。

「ねえねえ、澪さん。子どものころの悠真さんって、どんな感じだったの?」

綾子が尋ねた。

「あ、それ、私も聞きたい。私とあかりが知ってる悠真は、医者としての悠真からだもんね」

麗があかりのほうを見ながら言うと、あかりも「そうそう」とうなずいた。葉月と直海もそばに来て座った。

「そうね……悠真はね。どっちかというと、おっちょこちょいだったな」

「おっちょこちょい? そんなことないだろ」

悠真は反論したが、澪が言った。

「いやいや、だいぶおっちょこちょいでそそっかしかったよ。いっつも、私の少し前を歩いてて、私のほうに振り返っては、『みおー、早くしろよ』って声かけてきて……。その途端、電柱に激突したり、溝に落っこちたりして」

みながどっと笑うと、悠真は真っ赤な顔をして言った。

「いや……、あれは、だって……」

反論にならない悠真を見て、さらにみなが笑い転げる。「信じられない」と言いながら。

「あるときなんか、『澪、足元水たまり』と言ったかと思ったら、自分がその水たまりで転んでね」

「澪、わかったから、もういい。やめてくれ」

悠真が耳まで真っ赤にして、頭を抱え、泣きそうな顔で澪に懇願するのを見て、道心や九明や十蔵、名嘉、カラスまでもが大笑いしている。

「ぼく、もうすぐ九歳になるけれど、悠真さんは九歳のとき、どんなことを考えてたんですか?」

和真が尋ねてきた。

「そうだなー、あのころは、まだなんにも知らなかったからな。

 でも、じいちゃんや澪のばあちゃんから、ヤマト・コードについて教えてもらうのが、楽しくて、楽しくて。澪と一緒に、これからも、いろんなことを知りながら、生きていきたいってことしか考えてなかったかな……。

 だから、そんなおれなんかに比べたら、和真は、ほんとうにすごいと思う」

和真は少し照れながらも、うれしそうだった。

「でも──」

意外な、「でも」だった。和真が言った。

「悠真さんは、とにかく、澪さんのことばかり考えてたってことですね」

そう言って、ニッと笑った。

「和真、おまえ……いつのまに、そんなませたことを……」

呆気にとられたのは、悠真だけではなかった。綾子が手を口に当てて、なんだかうれしそうに見ていた。


楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

夜10時。

十蔵が突然、部屋の電気を消して言った。

「みなさん、窓の外を見てください」

促されるまま、窓の外を見る。みなが息をのんだ。

「オーロラ……」

「なんてきれいなの……」

超巨大太陽フレアの影響により低緯度オーロラが発生したのだった。十蔵が解説してくれた。

「太陽フレアによる磁気嵐の影響で、いつもより多くの電子が大気中に降り注いでいます。それらが、高度約200〜400km付近の酸素原子と反応することで、観測されるんです。

通常は赤黒い光として見えるのですが、今回は、一万年に一度という規模の太陽フレアですから。夜空にまだ星は戻ってきていませんが、赤だけでなく、緑も青も見られますね」

しばらく、だれも、なにも言えなかった。ただただ、自然が織りなすその美しさに圧倒されていた。

やがて、九明が口を開いた。

「太陽フレアは、旧文明では、脅威でしかなかった。しかし、それが今や変わった。美しいと思えるものに。自然の偉大さへの畏怖に」

道心がうなずきながら続けた。

「人間が人間のあるべき姿を取り戻しつつあるということかもしれませんね。自然とともに生きる者としての。自然と共鳴しながら生きる者としての」

岡が言った。

「そのためにこそ、私たちは、研究し、開発し続けてきた。そして、時空を超えて集められたみなさんと、こうして出会うことができた……」

三木は頭を下げながら、静かに続けた。

「悠真君、澪さん、そしてみなさん。みなさんのおかげで、私たちの人生は、まもなく報われようとしている。ほんとうにありがとう」

ジョナサンも深々と頭を下げた。

「みなさんが、必ず成し遂げてくださることを、私たちは信じています。ご健闘を祈ります」


第三節 それぞれの場所へ

翌7月6日、それぞれが、それぞれの役割を果たすために、散っていくことになっていた。

悠真と名嘉と麗、そしてあかりの四人は、東京の一ノ瀬家へ。そして、“ピラミッド”地下、契約の箱が安置されている石室に向かう。そこで、悠真は、自らを完全量子化させるのだ。

澪は、カラスとともに皇居へ行く。そして、三代目卑弥呼として、“表”の祈り手である永成天皇とともに、祈祷をささげていくことになる。

陰陽師である葉月と九明、また山伏である道心の三人が向かうのは、四国・徳島県。そこから、“草薙剣”を携えて、霊峰剣山の山頂を目指す。

“言霊”と“舞”の継承者・神楽の遥と、太鼓をもって“響き”をもたらす能楽者・直海のふたりは、佐渡島に渡り、“八咫鏡”で真実を照らし返す。

皇太子和真と内親王綾子、そして、科学者十蔵の三人は、長岡の『ミライ』で、ジョナサン、三木、岡らとともに、フリーエネルギー発生装置『DAICHI(大地)』と『量子共鳴通信網』を起動させる。 “八尺瓊勾玉”をもって。


「ワン! ワン!」

建物の入口を出ると、一匹の真っ白な大型犬が吠えながら駆け寄ってくるや、和真の足元におすわりして、見上げている。遅れて、子どもたちが駆けてきた。

「タロウ!?」

戸来村にいるはずの十蔵の子どもたちと、秋田犬のタロウだった。

十蔵が頭を掻きながら言った。

「すみません、妻と子どもたちにも、これから起こることを見せなければと思いまして、呼び寄せてしまいました。つい先ほど到着したようで……」

和真がうれしそうに、タロウにしがみついた。綾子と遥もなでている。タロウはおなかを見せて喜んでいたが、ふと、悠真を見上げて、座り直した。その黒い瞳は、なにかを理解しているかのように、静かだった。


『ミライ』の敷地内にあるヘリポートに行くと、自衛隊の輸送ヘリが3機待機していた。自衛隊員らが横一列に整列している。

驚いたことに、そこにいたのは、彼らだけではなかった。『ミライ』で働く博士たち、学者たち、研究員たち、整備士や工員、さらには一般の職員や警備員、世界各国から『ミライ』に学びに来ていた研究員や政府関係者、留学生たちまでいる。日本の臨時政府の人々も。

三年ほど前に、臨時政府の代表団のメンバーとして、能登と一緒に『ミライ』の悠真たちを訪ねてきた人々もいた。数百人はいるだろうか。建物の窓から顔を出して、手を振っている人々もいる。

悠真たち一行を迎えながら、能登が言った。

「太陽フレア到達まで、必要最低限のシステム以外は、一応、安全のため、稼働をストップしているからね。それなら、悠真君たちを見送りに行きたいということになってね。こうして、集まってしまったんだ」

悠真たちは感動していた。能登は続けた。

「あのとき、臨時政府の意向に逆らって、君たちに賭けたのは、間違いじゃなかった。人類全体の未来のためにと言っていたみなさんに託して、ほんとうによかった。ありがとう……」

「お礼を言わなければならないのは、私たちのほうです。能登さんの行動に、私たちはほんとうに励まされたんです。必ずやり遂げてみせると、覚悟できた者たちもいたはずです。

 今まで、ほんとうにありがとうございました」

悠真はそう言って、深々と頭を下げた。

「悠真君、君たちに出会えて、よかった。ありがとう。

 みなさんの健闘を、私たち全員、この『ミライ』で、心から祈っています。そして、またお会いしましょう! いってらっしゃい!」


神楽の衣装に身を包み、麻布に包まれた八咫鏡を大事そうに胸の前に抱える遥。能楽の衣装に身を包み、撥(バチ)を片手に持つ直海。ふたりが、悠真と固い握手を交わして、まず一機目に乗り込んだ。涙はない。いや、いらない。窓際からこちらを見ている。悠真は、力強くうなずき、手を振った。

ヘリのメインローターが回転を始める。大きな音とともに、強烈な風圧が押し寄せる。ふわっと、機体が浮き、上昇を始めた。

遥と直海が、さらに強く、大きく手を振っているのが見える。

(遥、直海。ありがとうな。この時代で、おれと出会ってくれて。ふたりで、最高の舞と音を響かせてくれ。そして、その響きを、世界中に共鳴させるんだ!)

祈りながら、佐渡島目指して飛び立つヘリを見送った。


次は、四国組の出発だ。

陰陽師の装束に身を包んだ葉月と師匠・九明。葉月は、麻の納め袋に入った草薙剣を抱えている。

「悠真殿。葉月を弟子に選んだわが目に狂いはなかった。あなたと出会えて幸いだった」

握手をしながら、九明が感慨深そうに言った。

「悠真さん、この剣をもって、必ず大地に響きを起こすから!」

葉月が力強く言って、ヘリに乗り込んでいく。

山伏の恰好をし、背には法螺貝、手には金剛杖の道心は、必死に涙をこらえているのがわかった。悠真を抱きしめて言った。

「悠真さん。これが終わったら、私は、もう一度、家族のもとに帰ろうと思う。みんなに出会えたから、そう思うことができた。ほんとうにありがとう」

そう言って、ヘリに乗り込んだ。

(三人とも、ありがとう。九明さん、葉月は、すごいやつです。おれにとっても、自慢の仲間です。葉月、頼んだぞ。

 そして、道心さん。きっと、家族は待ってるよ)

四国に向かって旅立ったヘリを見つめながら、悠真は語りかけた。


名嘉が慣れた感じで最後の一機に乗り込んだ。いつのまにか、すでにカラスが乗っていた。驚く名嘉に、カラスが微笑む。

「……ったく、あいかわらずだな。あんたには、勝てる気がしねえ」

そう言って苦笑いした。

続いて乗り込もうとしたあかりに、ジョナサンが声をかけた。

「あかりさん、またいつでも、直海を訪ねてやってくださいね。あなたも、私にとっては家族ですから」

「ありがとうございます。そのうち、太鼓を習いに、佐渡へ行きます」

笑顔であかりが答えた。

麗が続く。能登が尋ねた。

「麗さんは、すべてが終わったら、どうするおつもりなんですか?」

「私は……以前働いていた国立先端医療病院で、また看護師として働くつもりです」

麗ははっきりと答えた。

「麗さんなら、きっと、これまで以上にすばらしい看護師になると信じています。

 ただ……。もし引き受けてくださるなら、この『ミライ』の非常勤の嘱託看護師としても働いてくれませんか? ま、ゆっくり考えてみてください」

「それなら……。今、ふと思ったのですが、国立先端医療病院と『ミライ』で提携を結んで……というのも、ありかもしれませんね」

そのやり取りが聞こえたのか、あかりが顔を出して、言った。

「あ、それなら、私もお手伝いできそうです」

ふたりの言葉に、能登が手を打ってうなずいた。

「それはすばらしいです。そして、ありがたいです。たしかに……たくさんの人たちで手を取り合ってやればいいんですね。これからはそういう時代ですからね」

悠真の隣で、澪が微笑みながらささやいた。

「ね、悠真。今、ここに響きがあるよね? 『ダビデの鍵』って、やっぱり、そういうことだよね?」

「うん。おれもそう思うし、そうであるべきだと思う」


十蔵が握手を求めてきた。

「悠真君。前に、フリーエネルギーの研究開発を何度もやめようと思ったことがあると話したことがありましたよね。大学や学界の中に、『政治』というものが入ってくると、その研究が正しいかどうかより、政治的に“認められるかどうか”で決まる、と。『フリーエネルギー』という言葉を口にした瞬間に、空気が変わり、存在そのものがなかったもののようにされる恐れがあったから、と」

悠真がうなずく。

「でも、私は、ひとりじゃなかった。三木博士や岡博士、ジョナサン博士らとの縁をつないでくれて、心からそう思うことができました。そして、時代は、たしかに変わった。

 あのとき、あきらめず、やり続けてきて、ほんとうによかったと、今思っています。みなさんのおかげで、子どもたちに誇りとされる背中を見せられていることが、なによりうれしい……」

十蔵はそう言って涙ぐんだ。

「必ず、『響(HIBIKI)』と『量子共鳴通信網』を起動させ、新しい時代の、たしかな礎を築きましょう! おれも、十蔵さんと出会えてよかった。ありがとう」

悠真は十蔵の手をしっかりと握り返した。


最後に、和真と綾子がやって来た。

「綾子、自分の生きる道はみつかったか?」

「うん。前は、皇室の血筋とか、しきたりとか……そういうもので、なんか自分ががんじがらめにされているようで、窮屈に感じてたんだけどね」

そう言って、和真の頭を愛おしそうになでた。

「でも、悠真さんや澪さん、みんなと一緒に生活する中で気づいたんだ。窮屈に感じていたのは、表面的な形しか見てなかったからだったって。なんのために、どんな思いで、受け継がれてきたのか──そんな一番大切なことを見てなかったからだったんだなって。だから、自分の中に、なにも響いてこなかった……。当然よね」

「じゃあ、今は……」

「うん。この千数百年も受け継がれてきたものを、私もまたしっかりと次の世代に受け継いでいきたい。そして、私たちだからこそできることを……いえ、私たちが、この世界に対してなすべきことを果たしていきたいと思ってる。世界の国々を積極的に回りながら、ね。

 悠真さんのこと、絶対に忘れないから。そして、未来の子どもたちにも、ちゃんと語り継いでいくから。だから……ありがとう!」

明るく、晴れ晴れとした笑顔で、綾子が言った。悠真は静かにうなずいた。

「和真、お母さんと離れて四年間、よくがんばったな。この国と、世界のこれからを頼んだぞ。おまえは決してひとりじゃないからな。母親である永成天皇もいるし、綾子もいる。澪も、そのほかの仲間たちも、おまえが困ったときは、必ず助けてくれるから。だから、ひとりで全部を抱えようとするな。みんなを頼れ。みんなはもう、おまえの家族なんだから」

悠真はそう言って、和真の頭をなでた。

「はい。悠真さん、今までありがとうございました」

和真はそう言って頭を下げた。そして、顔を上げて、言った。

「また会いましょう。楽しみにしていますから」

悠真も、澪も、もちろん、綾子も、一瞬、なんのことかわからなかった。ただ和真だけが、なにかを知っているかのように微笑んでいた。


六人を乗せたヘリが上昇を始める。ヘリポートへ見送りに来てくれた数百人、建物の窓から手を振っている人々──声は聞こえない。だが、「ありがとう!」「がんばれ!」「頼んだぞ!」と叫んでいるのがわかった。

ヘリが機体を東京方面へ向けて進み始める。

──必ず、やり遂げて、この人々の、そして世界の未来を守る! そして、青空と星空を取り戻す!

悠真は、そう心に誓った。


東京に向かうヘリの中で、悠真と澪は、あえて普段通りの会話をしようと努めた。が、お互い、思うように言葉が続かず、すぐに沈黙にのまれてしまった。麗とあかりも、懸命に話題を見つけて、ふたりに振るのだが、それでも続かない。いつの間にか、あかりが声を殺して泣き始めていた。そのやさしい涙が、ふたりに別れの近いことを、ますます思い知らせる。そして、ますます言葉が出なくなる。同時に、ますます、互いへの愛おしさが募っていった。

やがて、ヘリは、新宿区市谷に着陸した。大災害前まで防衛省のあった敷地である。そこから、待機していた車に乗り換えて、澪とカラスは皇居へ、悠真たちは一ノ瀬家へ向かうことになっていた。

「澪、足元気をつけろよ、段差になってるからな」

そう言うなり、悠真は、足を踏み外して外に転がり落ちた。

「いてて、ドジった」

そう言って、頭を搔いた。自衛隊員たちが慌ててやって来て、心配そうに悠真が起き上がるのを手伝った。澪も名嘉も一瞬唖然としたが、澪が悠真のもとに駆け寄って来るなり言った。

「もう、ほんとに、悠真ってば、おっちょこちょいで、そそっかしいんだから」

そう言って、笑顔を向ける。

「ごめん、ごめん。

 やっぱり、澪の言うとおりだ。おれはおっちょこちょいだったよ」

悠真も笑う。服とズボンをパンパンとはたいて、澪をまっすぐに見た。

「じゃあ、澪。ここでお別れだ。永成天皇によろしく。ふたりなら、絶対に大丈夫だから。成功を祈ってる」

悠真はそう告げると、背を向けて歩き出した。

何歩か進んだところで、澪が背中にしがみついてきた。顔を押し付けながら言う。

「悠真、ありがとう。私と一緒に生きてくれて……」

「……おれのほうこそ、ありがとな。

 澪……。愛してる」

悠真は一度も振り返らなかった。澪は、その背中をいつまでも見つめ続けていた。


【第5章】 起動

第一節 天と地の祈り

2044年7月7日午前11時。太陽フレアの本体であるコロナ質量放出(CME)──実体を持ったプラズマの爆風が地球を直撃するまで、あと、3時間。

空は白かった。それは曇天ではない。超巨大太陽フレア接近によって乱れた電離層と高層大気が、空全体を乳白色に変えていたのである。世界中の空で、赤や緑の淡いオーロラが昼間でさえ揺らめいていた。太陽そのものが、地球へ語りかけてきているかのようだった。

だが、その異様な空気の中でさえ、皇居の杜だけは、不思議な静けさに包まれていた。

風が止んでいる。いや、正確には、風そのものが耳を澄ませているようだった。

巨大な森の中心。静まり返った宮中の一角。そこに、天皇が即位の後に一度だけ行う、国家最高峰の秘祭・大嘗祭の舞台が再現されていた。建てられたのは、二つの主要な聖殿。東に位置する「悠紀殿(ゆきでん)」には澪が、そして、西に位置する「主基殿(すきでん)」には永成天皇が入る。そのところで、今、人類史上最大の祈りが始まろうとしている。

古来、日本には、「表」と「裏」の祈りがあった。

太陽に向かい、国の安寧と五穀豊穣を祈る“表”の祭祀。そして、その背後で、人知れず、魂と大地と死者たちへ向けて捧げられる“裏”の祈り。

光と影。

陽と陰。

顕(あらわ)と幽(かく)れ。

それらは対立するものではなく、互いを補い合うことで、この国を支えてきた。そして今、そのふたつの祈りが、千数百年にも及ぶ歴史の果てに、再び一つになろうとしている。

主基殿。

悠紀殿。

本来、大嘗祭において、天皇が神々へ新穀を捧げ、自らも食すことで、「国そのもの」と一体になるための聖域。

古代日本において、それは単なる即位儀礼ではなかった。

天と地。

人と自然。

生者と死者。

そのすべてを結び直すための、“共鳴の儀式”だったのである。

だからこそ、今、この場所が選ばれた。

世界のために。

人類のために。

そして、地球そのもののために。


澪のその白い指先は、かすかに震えていた。怖くないわけではない。

三時間後、悠真は、“響き”になる。肉体を捨て、完全な量子情報体へ変わり、太陽フレアそのものへ自らを重ねながら、地球全体の量子共鳴ネットワークを起動させる。それが、人類にとっての、新しい文明・新しい時代を開くことになる。

だが同時に、“悠真という人間”との別れでもあった。

(悠真……)

澪は胸の奥で、その愛おしい名を呼んだ。あたたかな感覚が広がっていく。

あの日。

契約の箱の前で感じた、“響き”。

直海の涙を、みなで抱きしめた夜に感じた、“響き”。

富士山の火口で、大地そのものと共鳴した、“響き”。

それらすべてが、今、澪の中で静かにつながっていた。

前を行くカラスが立ち止まった。黒い装束のまま、静かに言う。

「澪様。ここから先は、おひとりで」

澪はうなずいた。

「ありがとう、カラス」

「……あなたは、立派になられました」

カラスは、それだけ言って、深々と頭を下げた。その目は、少し潤んでいた。

澪は、ゆっくりと聖殿へと足を踏み入れた。中には、静寂だけがあった。だが、その静けさは、“無”ではない。千数百年もの祈りが積み重なった、濃密な沈黙だった。


午前11時ちょうど。ふたりの祈り手が、それぞれの聖殿の畳を静かに踏みしめた。

「西」の主基殿に入ったのは、表の祈り手である永成天皇。その身を包むのは、古来より徳島県の忌部(いんべ)の血筋によってのみ織り継がれてきた、阿波忌部の麻織物──「麁服(あらたえ)」である。

植物の麻から作られるこの織物は、お世辞にも滑らかとは言えない。硬く、無骨で、荒々しい。しかし、これこそが「荒魂(あらみたま)」を象徴する、大地に根差した剛なる結界の衣だった。

旧文明の科学ではただの植物繊維と切り捨てられた「麻」は、日本において「祓い」と「現実世界」を象徴する繊維だった。穢れを払い、大地に立つ人間の営みを清めるもの。強靭な波動でエネルギーを物質化し、空間の歪みや乱れた響きを整える力があると信じられてきた。古来、神職たちが麻を尊んできたのは、そのためである。

永成天皇は、地に深く座し、その麻の衣を揺らしながら祈りを語り始めた。彼女の祈りは、大地の周波数(シューマン共振)と同調し、日本列島、ひいては地球そのものの「磁場(プロテクション)」をガチリと支えるための『盾』となる。

一方、その対角線上──「東」の悠紀殿に入ったのは、裏の祈り手、三代目卑弥呼としての澪だった。澪がまとったのは、愛知県の三河の地で古式ゆかしく調製され、奉納されてきた純白の絹織物──「繪服(にぎたえ)」である。

絹は、霊性を象徴する。赤ん坊の肌のように滑らかで、光を吸い込んで淡く発光するような純白の絹──柔らかく、光を宿し、風のように揺れるその布は、古代において「神々の気配」を映すものと考えられていた。

絹(にぎたえ)は「和魂(にぎみたま)」。天の響きを受信するための柔なる衣。高次元の微細な響きを狂いなく受信し、それをやさしく包み込んで拡散させる、いわば生体超伝導のアンテナの役割を果たす。

麻が“地”なら、絹は“天”。

麁服が“陽”なら、繪服は“陰”。

麻(あらたえ)の剛と、絹(にぎたえ)の柔。

主基殿(すきでん)の地と、悠紀殿(ゆきでん)の天。

「表」の永成天皇が大地を、国家の形を固定し、「裏」の澪が天の響きを、悠真の量子化された意識をやさしく包み込む。この陰陽一対のシステムが揃って初めて、日本が千年以上秘匿してきた「ヤマト・コード」は真の覚醒を迎え、人類に、新しい時代を開く。この日、この二つの聖殿は、地球の磁場と人類の意識を繋ぎ止める「表と裏の巨大な共鳴回路」として起動する。

「悠真……」

澪は、繪服の袖が擦れるかすかな音を聴きながら、深く、深く目を閉じた。目を閉じれば、市谷のヘリポートで振り返らずに去っていった、あの愛おしい背中が今も鮮烈に浮かぶ。彼の不器用で、狂おしいほどのやさしさ。

(泣かないで、笑って。おれが守る世界を、信じて──)

悠真の背中は、言葉以上にそう語っていた。だから、澪の瞳に、もう涙はなかった。あるのは、ひとりの男の命懸けの愛に応えようとする、巫女としての、そしてひとりの女性としての、凛とした覚悟だけだった。

澪は、祭壇の前に静かに座した。拍手(かしわで)を打つ。その瞬間、悠紀殿の空間の周波数が、張り詰めた弦のようにピンと跳ね上がった。

西の主基殿からも、永成天皇の低く厳かな祝詞が響き始める。二つの聖殿から放たれた目に見えない「響き」は、皇居の杜の上空で美しく交差し、二重螺旋の波動となって天へと立ち上っていった。

その瞬間だった。

ゴォォォォォ……。

低く、深い振動が、大地の奥から響いてきた。地震ではない。恐怖でもない。それは、地球そのものの鼓動だった。

澪は、静かに目を閉じた。

(響け、みんなに!

 響け、この地に!

 響け、この星に!

 そして──届け、悠真に!)

二つの聖殿の上空で、乳白色だった空が、わずかに揺らいだ。


第二節 天と地を貫く剣

皇居の杜から放たれた二重螺旋の響きが、見えない津波となって日本列島の地脈を駆け抜けた。

午後1時15分。

平家の落人伝説が今も息づく徳島県・剣山。標高1,955メートル。西日本第二の高峰でありながら、その山は、古来よりどこか異質だった。なだらかな稜線。不自然なほど平坦な山頂。そして、山全体を覆う、言葉にしがたい静けさ。

古代イスラエルの失われた契約の箱が眠る山。

空海が封印した山。

ソロモンの秘宝と三種の神器が交差する山。

そんな伝説が、千年以上にわたって囁かれ続けてきた。だが今、その山全体が、まるで“目覚め”を待っているかのようだった。

空は白い。太陽フレアによって乱れた電離層が、高空を乳白色の膜で覆っている。

しかし、その奥。見えないはずの空のさらに向こうで、巨大な何かが脈動しているのを、葉月は肌で感じていた。

風が強い。だが、不思議だった。吹き荒れているのに、どこか「呼吸」のようだった。山そのものが、生きている。

陰陽師の装束をまとった葉月が、胸の前に抱えた麻袋へ視線を落とした。その胸には、麻の納め袋に包まれた“草薙剣”が抱えられている。三種の神器の一つ。古代より、“風を鎮める剣”として語られてきた神器。袋越しでさえ、剣が内側から未知の周波数でドクドクと脈打っているのが分かった。まるで、早鐘を打つ心臓のように。

「……近いな」

前を歩く九明が立ち止まり、低く言った。陰陽師の狩衣が、山頂の風に揺れている。その隣では、山伏姿の道心が、金剛杖を強く握り締めていた。

「空気が違う……」

「うむ。地脈(龍脈)が完全に震えておる。永成天皇の麁服(あらたえ)が、この大地の底にある磁場をガチリと固定した証拠だ。葉月よ、時は満ちつつある」

道心もつぶやく。

「山そのものが、待っているようだ」

葉月は無言でうなずいた。

三人は、剣山山頂のさらに奥──古代祭祀場跡とされる巨石群へ向かっていた。そこは、かつて秦氏や忌部氏、陰陽師たちが密かに儀式を行っていたと伝えられる場所だった。大災害以前は観光客で賑わってはずの山。だが今は、人の気配がない。

いや、人だけではない。鳥の声も、虫の羽音も、なにも聞こえない。あるのは、空全体を覆う低い振動だけだった。

ゴォォォォォ……。

地の底から響くような音。それは恐怖ではなかった。むしろ、“巨大な楽器が調律されていく音”に近かった。

やがて、三人は開けた場所へ辿り着いた。そこには、巨大な岩盤があった。まるで、剣を受け入れるために存在しているかのような、細長い裂け目が中央に走っている。

九明が静かに振り返る。

「葉月」

「はい」

「ここだ」

葉月は、ゆっくりとうなずいた。そして、麻袋を解く。

ゴォッ──。

突風が吹き抜けた。

白木の鞘に収められた草薙剣が姿を現した瞬間、周囲の空気そのものが変わった。

空が鳴っている。

いや。剣が、空を鳴らしていた。

刃文が青白く発光している。まるで、雷を内部に封じ込めているかのようだった。

「……これが……」

道心が息を呑む。

「草薙剣の真の姿……」

葉月の手が震えていた。恐怖ではない。巨大すぎる“響き”が、身体を貫いているのだ。旧文明の考古学ではただの青銅器や鉄剣として片付けられていたこの剣の正体は、地球のマグマ層から湧き上がる強力な地磁気を一本の「線」として集束し、放射するための、超伝導エネルギー・ロッド(伝導体)だった。

その瞬間だった。葉月の脳裏へ、無数の光景が流れ込んできた。

古代。

炎。

巨大な蛇。

それを切り裂く剣。

空海。

陰陽師たち。

戦乱。

祈り。

血。

封印。

そして──、

富士山。

皇居。

佐渡。

長岡。

東京地下。

日本列島そのものが、巨大な陣になっている。

「見えるのか」

九明が静かに尋ねた。葉月は、震える声で答えた。

「はい……」

涙が頬を伝っていた。

「全部、繋がってる……」

九明はゆっくりとうなずいた。

「そうだ」

そして、空を見上げる。乳白色の空の向こう。見えない太陽が、地球へ迫っていた。

「陰陽道とは、本来、呪いではない」

九明が言う。

「天地の響きを読み、人と自然を繋ぐための学問だ」

風が吹く。九明の白髪が揺れる。

「だが旧文明は、それを忘れた。自然を支配しようとした。だから、響きを失った」

葉月は草薙剣を見つめた。剣が、呼吸している。待っている。

「葉月。おまえは、なぜ選ばれたと思う」

葉月は答えられなかった。ずっとわからなかった。自分が陰陽師として正しいのか。神器に触れる資格があるのか。

だが──。

直海の涙。

遥の舞。

澪の祈り。

悠真の覚悟。

それらすべてを見てきた今なら、少しだけわかる。葉月は小さく息を吸った。

「……痛みを知ってる人間だから」

九明が静かに笑った。

「そうだ」

その途端、葉月の言葉に反応するかのように、剣山全体が震えた。

ゴォォォォォォ────ッ!!

空の色が変わる。乳白色だった空に、巨大な赤いオーロラが走った。

「来るぞ!」

道心が叫ぶ。

遠く上空。磁気嵐によって歪んだ雲の向こうで、巨大な雷光が蛇のように走っていた。地球磁場が悲鳴を上げている。太陽フレア到達まで、あとわずか。

師匠である九明が、白髪を激しく風に棚引かせながら、五行の印を結ぶ。その鋭い眼光は、恐怖を完全に超越していた。

「おうりゃあああああ!」

その横で、山伏の正装をした道心が、裂かんばかりの咆哮とともに背中の法螺貝を構え、天に向けて吹き鳴らした。

ブオォォォォォォ──ッ!

地鳴りのような法螺貝の重低音が、山頂の暴風を切り裂き、剣山全体の岩肌を共鳴させていく。修験道が千年以上かけて培ってきた、山を、大地を揺り動かすための「音霊(おとだま)」が、剣山の地下深くに眠る脈を物理的に呼び覚ましていく。

九明が叫ぶ。

「葉月!!」

葉月は前へ出た。風が吹き荒れる。

草薙剣の柄を両手で握り締める。重い。だが同時に、恐ろしいほど馴染む。まるで、この瞬間のために生まれてきたかのように。

葉月は岩盤の裂け目、地脈のエネルギーが最も一極集中する「龍穴」の直上に剣先を向けた。その瞬間、天空の乳白色の雲が渦を巻き始め、太陽フレアの電磁波と呼応するように、紫色の激しいプラズマの稲妻が山頂を走り抜けた。

「九字(くじ)を切る! 葉月、大地の蓋を開けぃ!」

九明の鋭い怒号。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前──ッ!」

葉月が叫ぶと同時に、草薙剣がブゥゥゥンという凄まじい高周波の駆動音を立て、眩いばかりの「青い光」を放ち始めた。それは、地球の奥底に眠るクリーンな地磁気エネルギーが、剣というアンテナを介して臨界点に達した輝きだった。

「響け……」

葉月がつぶやく。

「この星に!

 いっけええええええ!」

葉月は、渾身の力と魂のすべてを込めて、岩の裂け目へ向かって草薙剣を突き立てた。そして、一気に大地の奥深くへと刺し通した。

ガギィィィィィン!

岩石が砕け散る金属音が響いた直後、一瞬、世界から音が消えた。ついで、

ドォォォォォォォォン───!!

世界が鳴った。地震ではない。爆発でもない。地脈のエネルギーの大爆発であり、地球そのものの共鳴だった。剣山全体が、巨大な鐘になったかのようだった。

草薙剣から放たれた青白い光が、文字通り大地を一刀両断するように走る。

山肌を。

森林を。

断層を。

日本列島そのものを駆け抜けていく。

そして次の瞬間。その裂け目から、今度は、天空の乳白色の雲をも一刀両断にするほどの、巨大な青い光の柱(ライト・ピラー)が垂直に突き抜けた。それは、地球の核(コア)から吸い上げられた、無限の地磁気エネルギーの奔流だった。青い光の柱は、電離層へと達すると、まるで網の目のように四国から日本列島全体、そして世界へと、青い稲妻となって駆け巡り始める。

「おお……おおお……!」

道心が金剛杖を突き立てながら、その圧倒的な光の絶景に涙を流した。九明は、天を衝く青き光の柱を見上げながら、不敵に、しかし深く微笑んだ。

「見たか、旧文明の科学者ども。これが自然の力、これぞ『草薙剣』の真なる響きだ……!」

暴風の中に立ち尽くす葉月の両手には、まだ、大地の激しい拍動が伝わっていた。剣を通じて、自分の魂が地球そのものと直結したかのような感覚──響き。

(悠真さん、届きましたか? 私たちは、大地の盾を起動しましたよ)

剣山の山頂から放たれた圧倒的な青い光のレーザーは、乳白色の空を青く染め変えながら、日本海に浮かぶ佐渡島へと、一瞬にして繋がっていくのだった。

空を見上げる九明の目には、涙が浮かんでいた。

「ようやく……」

彼は、震える声で言った。

「千年の封印が、解かれる」


第三節 舞と太鼓の響き

午後1時40分。太陽フレア直撃まで、あと20分。

剣山の山頂から放たれたまばゆい青い光の柱は、日本列島の地脈を震わせながら北上し、日本海に浮かぶ佐渡島へと到達しようとしていた。

空は、乳白色の膜に加えて、剣山から流れてくる「青い磁気エネルギー」と、宇宙から迫る「赤いオーロラ」が混ざり合い、妖しくも美しい、紫と琥珀色のグラデーションに染まりつつある。

海もまた、異様だった。荒れてはいない。むしろ、不気味なほど静かだった。波はある。だが、その波さえも、なにかを待っているように見える。やがて、風がやさしく吹き始めた。

剣山から放たれた青き響きを受け止めたのは、佐渡の表玄関であり、島の経済と文化の中心地・両津地区にひっそりと佇む「椎崎(しいざき)諏訪神社能舞台」であった。明治35年(1902年)に建立されて以来、幾多の名優たちの汗と息遣い、そして島民たちの敬虔な祈りを吸い込んできた。佐渡に現存する能舞台の中でも、最も盛んに「薪能(たきぎのう)」が奉納され、生きた“響き”が脈打ち続ける、島民にとっての精神的聖地である。

その椎崎諏訪神社能舞台の目の前には、加茂湾が広がる。2041年に臨界を迎えた世界的な海面上昇によって、完全に日本海とつながり湾になったのだが、もともとは、「加茂湖」と呼ばれていた。

大佐渡と小佐渡、二つの山脈に挟まれた国仲平野の北端に位置したその湖は、ただの湖ではなかった。日本海と細い水路で繋がった巨大な「汽水湖」──すなわち、淡水と海水が混ざり合う、まさに潮の満ち引きによって呼吸する陰陽調和の水域だった。それゆえ、古来より「境界の水」と呼ばれてきた。

海と陸。
外界と内界。
生者と死者。
現実と神域。

その境界に浮かぶ島こそ、佐渡だった。たとえ地形は変わっても、その本質は、今も変わらない。

そして、古来、流刑地として知られたこの島には、都から追われた貴族、僧侶、芸能者、知識人たちが数多く流れ着いた。彼らは、この島に「都の文化」を根づかせた。能もまた、その一つだった。

室町時代。世阿弥が佐渡へ流されたことで、この島には“祈りとしての能”が深く残された。だからこそ、この島には、今も三十を超える能舞台が残っている。その中でも、かつての加茂湖を見下ろす高台に建つ椎崎諏訪神社能舞台は、特別な場所だった。

海から吹く風。
水面を渡る湿った空気。
山から降りる霧。

それらすべてが、この舞台へ集まる。まるで、島そのものが「響き」を待っているかのように。

天空を覆う乳白色の電離層と、宇宙から迫る琥珀色のオーロラが、鏡のようになめらかな加茂湾の水面(みなも)に妖しく反射し、世界を紫色の幽玄な光で満たしていた。風が止んでいる。波もおさまった水面は、まさに巨大な「天の鏡」そのものとなった。


茅葺き屋根を戴く野外舞台の上に、ふたりの女性が立っていた。

舞台の真ん中に立つ神楽の継承者・遥の姿は、見る者を圧倒した。彼女がまとっているのは、石見神楽や広島神楽の伝統が息づく、豪華絢爛な刺繍衣装。総重量は二十キロを超える。金糸銀糸で織り込まれた龍と鳳凰、雲と炎が、まるで天そのものを織り込んだように美しい。太陽フレアによる異様な紫の光の中で、妖しく、生きているかのようにうねっている。

神楽とは、本来、「神を招く舞」だった。だが今、遥が舞おうとしているのは、単なる奉納舞ではない。

天と地。
人と自然。
そして、人類そのものを再び共鳴させるための舞。

その胸には、麻布を解かれた「八咫鏡」が、周囲の光をすべて吸い込むように、静かに、しかし底知れぬ鈍色の輝きを放っていた。

そして、その背後に据えられた巨大な大太鼓の前に、直海がいた。直海がまとっているのは、能装束の最高峰、絢爛豪華な「唐織(からおり)」だった。金箔をふんだんに使い、紅や緑の植物紋様が立体的に浮き出るように織られた、息をのむほどに美しい衣装。

長い袖が風に翻る。銀糸が、空の異光を受けて星屑のように瞬く。本来、能舞台で静かに舞うための衣。能楽において、激しい動きを伴う太鼓方が、この重厚で袖の長い唐織をまとって撥(バチ)を執ることなど、絶対にあり得ない。長く重い袖は撥を振る腕に絡みつき、細やかな打音のテンポを狂わせ、表現者の体力を無慈悲に奪うからだ。伝統を重んじる能楽の世界であれば、狂気の沙汰と一蹴されるだろう。

だが、それでも直海は、その装束を選んだ。

(「狂気の沙汰」──上等じゃん。でも、今日は、演奏じゃない。命を賭けた祈りだ。だからこそ、最高の音を響かせるためにも、この世界で一番美しい姿じゃなきゃならない。遥の舞を、澪さんの祈りを、なにより、悠真さんの命を、世界中に届けるために!)

直海は、長い袖をあえて捌(さば)くことなく、大きな撥を両手に握り締めた。目の前には、巨大な大太鼓が据えられている。古代杉を削り出して作られた、佐渡鬼太鼓(おんでこ)の系譜を継ぐ特別製の太鼓。その胴には、“響”の紋が刻まれている。それはもはや楽器ではなかった。世界を震わせるための、“鼓動”そのものだった。

直海が静かに手を添える。

そのとき。

ゴォォォォォ……。

加茂湾の水面が、わずかに震えた。

「来た……」

遥が空を見上げる。空が鳴っている。いや。違う。日本列島そのものが鳴っていた。

皇居。

剣山。

二つの聖地から放たれた“響き”が、地脈を駆け抜け、今まさに、この佐渡へ到達しようとしていたのである。

直海の瞳が震える。

感じる。

大地の奥を走る、巨大な脈動。

永成天皇の祈り。

澪の祈り。

葉月の草薙剣。

九明の術。

道心の法螺貝。

それらすべての“響き”が、海の底を伝い、この島へ集まり始めていた。

「来るよ、遥」

遥は静かに目を閉じた。深く息を吸う。

直海が、ゆっくりと撥を振り上げる。

遥が一歩前へ進む。

風が吹いた。長い袖が、空へ翻る。

ドン───ッ!!

直海が、渾身の力で大太鼓の腹を叩いた。地響きのような重低音が、椎崎諏訪神社の床を震わせ、加茂湾の水面全体へ巨大な波紋が広がった。

ドォン。
ドォン。
ドォン。

唐織の重い袖が風をはらみ、一打ごとに美しい放物線を描いて宙を舞う。それは通常の太鼓方の動きを遥かに超えた、壮絶なまでの映像美だった。

太鼓の重低音が、大地を揺らす。その響きに呼応するように、遥が舞い始めた。

足拍子。

袖の返し。

旋回。

二十キロの刺繍衣装の重さを微塵も感じさせない、しなやかで、かつ力強い足運び。そのひとつひとつが、まるで空間そのものへ“紋様”を描いていくようだった。皇居の澪、剣山の葉月たちから流れてくる「赤」と「青」の波動が、遥自身の魂の周波数と混ざり合い、遥の舞う軌跡に沿って、鮮やかな緑色の光の輪を描いていく。

長い袖が風を孕むたび、光が揺れる。オーロラのように。波のように。

遥は、その胸に、八咫鏡を抱いている。三種の神器の一つ。真実を映し返す鏡。その表面には、乳白色の空が映っている。だが時折、その奥に、赤や青の巨大なプラズマの筋が走り始めた。

遥は、舞いながら、鏡を天へ掲げた。

ドン! コ、ドン! ドドォン───!!

直海の打音は、次第に神がかった速度へと突入し、空を震わせている。それは雷神の音だった。いや、地球そのものの鼓動だった。その凄まじい“響き”が舞台から駆け抜け、眼下に広がる加茂湾へと叩きつけられる。加茂湾の水面を大太鼓の振動が揺らし、無数の同心円状の波紋──美しきクラドニ図形──を描き出していた。そして、その波紋ひとつひとつが、遥の持つ「八咫鏡」と完全に波長を同調させ、加茂湾そのものが、数キロメートルに及ぶ「地球上で最大の鏡」になった。八咫鏡と加茂湾の水鏡──ふたつがまさに合わせ鏡となり、“響き”を無限に増幅させていく。

そこに、さらに人々の“祈り”が加わる。

悲しみ。

失望。

絶望。

愛。

喜び。

感謝。

希望。

それらが、ひとつの大きな“響き”へ変わっていく。

遥の舞が、最高潮に達する。八咫鏡を掲げたまま、空へ向かって回転する。長い袖が巨大な円を描く。空に巨大な渦が生まれた。空が、開き始める。剣山から放たれた青い光の柱が降ってくる。

ゴォォォォォォ──!!

空全体が鳴動する。

遥の八咫鏡が、その光を受け止めた。そして、鏡面を、南東の空、本土・長岡の方向へと向けた。鏡面が、青白く発光する。

ブゥゥゥゥゥン──。

低く、高く、耳では聞こえない振動が空間全体へ広がっていく。

海が震え、島全体が共鳴していく。

木々が揺れる。

岩が鳴る。

空が脈打つ。

佐渡島そのものが、巨大な共鳴装置へ変わっていた。

直海が、さらに強く太鼓を打ち鳴らした。

ドォォォン!!

「響けぇぇぇぇぇ!!」

「届けぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

遥の叫びと、魂を削り出すような直海の大太鼓の爆音とが完全にシンクロした。

カァァァァァァァァン!!!

その瞬間、八咫鏡から放たれたのは、皇居の「赤」、剣山の「青」、そして佐渡の「緑」──それらが一つに統合された、まばゆい白銀の光だった。その光が、加茂湾の水面で何万倍にも増幅され、そのエネルギーのすべてを、南東の空の彼方──和真たちの待つ長岡の『ミライ』へと、一瞬にして怒濤のごとく流れ込ませていった。空間の次元そのものを歪めるようにして、天頂の乳白色の空をやさしく包み込みながら。

光が海を走る。

島を包む。

空へ昇る。

それはまるで、人類の祈りそのもの──“言霊”であり、“響き”であり、“共鳴”そのものだった。

(悠真さん……)

遥は、鏡の中に、一瞬だけ見た。白い光の中へ溶けていこうとする、悠真の姿を。


第四節 大地の起動

午後1時45分。太陽フレア直撃まで、あと15分。

新潟県長岡市──旧文明の終わりを告げた大災害からの復興のシンボル。その心臓部、かつて「長岡技術科学大学」と呼ばれていた広大な研究学園都市は、今や、新しい知の都、人類文明再生の中枢施設──『ミライ』へと生まれ変わっていた。自己修復素材『KIBOU』で構築された巨大ドーム群。施設全体が、ひとつの巨大な「脳」のようだった。

空はもはや乳白色の域を超え、不気味な赤黒いオーロラが幾重にも引き裂かれ、火の粉のように発光するプラズマの塵が地上へと静かに降り注いでいた。

その『ミライ』の中央研究棟、最深部の「共鳴核」と呼ばれる円形の空間に、今、世界中から集まった人々がおり、かつてない緊迫感と、奇妙な熱気に包まれていた。研究者。技術者。政府関係者。留学生。そして、かつて「大審判の国」と呼んでいた国々から来た人々も。国境や政治的理由によって分断されていた人類が、今、この場所でひとつになっていた。

だれも言葉を発していない。

天井まで十五メートル。直径三十メートルの円形空間の中央に、それは鎮座していた。

フリーエネルギー発生装置『DAICHI(大地)』。十蔵が生涯をかけて作り上げた、人類史上最大の夢の結晶。

その外観は、意外なほど静かだった。白磁のような球体。直径は三メートル。表面には、細い金属の線が幾何学的な紋様を描いている。六芒星。五芒星。そして、三種の神器の形を模した文様が、螺旋状に刻まれている。

『プロメテウス』の常温核融合装置が「火」なら、『DAICHI』は「大地」そのものだった。地球の呼吸を乱さずに、その鼓動へ寄り添う──燃やさない、壊さない、奪わない。ただ、「共鳴」する。地球の自転エネルギー、地球そのものが持つ磁場、シューマン共振、地磁気の流れ、量子真空の揺らぎ──地球という惑星が三十八億年かけて蓄積してきた「生命エネルギー」を、それらと調和することで直接取り出す装置。それが完全稼働すれば、人類はもう二度と、石油も石炭も核燃料も必要としない。

だが、それにはまだ、最後の「鍵」が必要だった。

十蔵が、装置の前に立っていた。白衣ではなく、今日は、珍しく和服を着ていた。彼の祖父が大切にしていた紬(つむぎ)の着物。それをまとった十蔵の姿は、まさに、かつてのサムライそのものだった。

節くれ立った指先が、静かに装置の表面をなでる。

「……長かったな」

だれにでもなく、つぶやいた。

独楽が回り続けている間に生まれるエネルギー。それが始まりだった。子どもだったあのころから、ずっと追いかけてきた夢。学界から無視され、存在を消されるのを恐れ、幾度となくあきらめそうになった瞬間。それでもやめられなかった理由。

「子どもたちに、明るい未来を残したかったから」

十蔵の声は、震えていなかった。

ジョナサンが隣に立った。青い瞳が、装置を見つめている。

「十蔵さん。AI〈レムノス〉だけでなく、もっとずっと前から、私の父は言っていたんです。『日出づる国、東の島々に、希望がある』と」

十蔵は微笑んだ。ふたりは、長い間、黙って装置を見ていた。


「和真」

綾子が、甥の隣に寄り添った。ふたりとも純白の装束に包まれている。和真は、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を両手で包んでいた。九歳の少年の掌に、淡い緑の光が脈打つように揺れている。

「ねえ、和真。怖い?」

綾子の声は、少しだけ震えていた。だが、それは恐怖ではない。歴史の瞬間に立ち会っている震えだった。

「怖くないよ」

和真は即答した。綾子が驚いたように、まだ幼さを残す和真の横顔を見つめる。

「でも……」

掌の中の勾玉を見つめながら言った。

「悲しい。悠真さんがいなくなるのは、悲しい」

綾子はなにも言えなかった。

「でも」

和真が続けた。

「悠真さんは、いなくなるんじゃないから。ただ、見えなくなるだけで……ずっとここにいるから」

綾子の目から、涙がこぼれた。

「……そうだね」

「だから、また会えるんだ」

和真は静かに微笑んだ。その笑顔は、九歳の子どものものではなかった。もっと遠い、もっと古いなにかを知っている者の笑顔だった。


午後1時50分。太陽フレア直撃まで、あと10分。

その瞬間、「共鳴核」の空間全体が、わずかに揺れた。

揺れ、ではない。

震動だ。

足の裏から伝わってくる、深く、低い振動。地震ではない。これは、地球の奥底から来ている。

「来ました!」

モニターを監視していた研究員が叫んだ。

「皇居と剣山それぞれからの共鳴波が……!」

大型モニターに、波形が映し出された。二重螺旋。澪の祈りと永成天皇の祈りが織り成す波形が、地脈を通じて長岡に到達していた。

そして次の瞬間。

ゴォォォォォォン──!!

空間全体が鳴動した。天井から床まで、建物全体が巨大な楽器になったような振動。それは恐怖ではなかった。人々は思わず、手を伸ばして隣の人の手を握った。国籍も言語も立場も違う人々が、その瞬間だけは、同じ「響き」を感じていた。

「佐渡からの白銀波、到達!」

別の研究員が叫ぶ。大型モニターに、新たな波形が加わった。皇居から剣山を経て、遥と直海が佐渡で増幅させ生み出した、白銀の光のエネルギーが、日本海を越え、長岡の大地へと流れ込んできたのだ。

「三波、同期確認!」

十蔵が深く息を吸った。

「周波数合わせます。『DAICHI』、起動準備」

ジョナサンが装置の制御盤へ向かう。

「『響』、共振スタンバイ」

建物の外から、低い唸りが届いてくる。量子共鳴塔だった。長岡の街に立ち並ぶ共鳴塔が、一斉に活性化し始めていた。それぞれの塔から、目に見えない「響き」が放たれ、長岡の上空で複雑な干渉縞を描いている。まるで、巨大な楽器が一斉に調律されていくような音だった。

「和真様!」

十蔵が振り返った。

和真が前へ出る。小さな足が、床を踏みしめる。

『DAICHI』の前に立った和真は、両手に包んだ八尺瓊勾玉を、胸の高さまで掲げた。

その瞬間だった。

勾玉が、強く輝き始めた。

緑の光。草原のような、深い海のような、命そのもののような、緑の光。

ブゥゥゥゥゥン──。

空間全体へ、耳では聞こえない振動が広がる。勾玉の内部に閉じ込められていた無数の光粒子が、まるで銀河のように回転を始めた。

「量子位相反応……!」

「シューマン共振、同期率──上昇中!」

研究員の声が上擦る。

「7.83……8.2……9.4……」

「止まりません! 上がり続けています!」

十蔵が、モニターを見ながら声を震わせた。

「きた! 『DAICHI』が、自ら……」

装置が反応していた。和真の掲げた勾玉から放たれる緑の光が、『DAICHI』の白磁の表面に刻まれた六芒星の紋様の上に落ちた瞬間、紋様が呼応するように発光し始めたのだ。

古代イスラエルの「マナの壺」の記憶を継ぐ八尺瓊勾玉と、地球のエネルギーを取り出すための装置『DAICHI』が、今、共鳴していた。

「これは……」

ジョナサンが呆然とつぶやいた。

「マナは、ヘブライ語で『これはなにか』という意味です。神が荒野の民に与えた食物。それはすなわち、どこからともなく与えられるエネルギー──」

「フリーエネルギーです」

十蔵が引き取った。ふたりの目が合う。

「最初から、そういうことだったんですね」

ジョナサンが静かに微笑んだ。

淡い緑色の輝きを放つその神器は、旧文明の考古学では単なる縄文・弥生期の装飾品として葬り去られていたが、その真の姿は、「多次元量子共鳴(マルチディメンショナル・レゾナンス)の触媒」──すなわち、人間の意識波(精神エネルギー)と大地の磁気エネルギーを物理的に融合させ、空間の零点(ゼロポイントフィールド)から無限のエネルギーを汲み出すための、結晶化された超古代のインターフェースだった。

「『DAICHI』、起動します!」

十蔵が制御盤へ手を伸ばした。だが、その手が止まった。装置が、すでに動き始めていたからだ。だれも触れていない。指示を出していない。『DAICHI』は、和真の勾玉が放つ緑の光に、自ら応答していた。

白磁の球体の内部で、なにかが回り始めた。音はない。振動もわずかだ。しかし、その存在感は圧倒的だった。球体の表面から、淡い光が滲み出てくる。青白い、生命の光。

「出力……上昇中」

研究員の声が、信じられないというトーンになる。

「理論値の……30パーセント……50パーセント……」

「止まりません!」

「70パーセント……80……」

十蔵は、制御盤から手を放した。

「……もう、私たちが起動するのではない」

静かに言った。

「『DAICHI』が、自分で目覚めようとしている」


「『響』および『量子共鳴通信網』、展開開始!」

ジョナサンが叫んだ。

建物の外で、長岡の量子共鳴塔が一斉に唸り始めた。それぞれの塔から放たれる「響き」が、上空で交差し、干渉し、増幅される。

かつて人類は、情報を伝えるために、光ファイバーを海底に敷き、衛星を宇宙に打ち上げた。しかしそれらは、嵐に、地震に、戦争に、そして太陽フレアに、あまりにも脆かった。

『響』が構築する『量子共鳴通信網』は、違う。地球のシューマン共振を媒介として、惑星規模の量子もつれ状態を生み出す。物理的な回線も、人工衛星も必要ない。地球そのものが通信媒体になる。嵐が来ても。地震が起きても。太陽フレアが直撃しても。地球が存在する限り、この通信網は消えない。

「網の目が、広がっています!」

モニターに、世界地図が映し出された。長岡から放たれた量子共鳴の波が、同心円状に広がっていく。

日本列島を覆う。東アジアへ広がる。ユーラシア大陸へ。アフリカへ。アメリカへ。

「世界中の量子共鳴塔が、応答している!」

三木が声を震わせた。

かつて『ミライ』の技術を学びに来た各国の研究者たちが、自国に帰って量子共鳴塔を建設していた。その塔たちが今、『響』の呼びかけに応答し、世界規模の網の目を形成し始めていた。

「これが……」

岡が涙声で言った。

「『量子共鳴通信網』……」

「まだ完全ではありません」

ジョナサンが言った。声は落ち着いているが、その目が輝いていた。

「完全稼働には、最後の鍵が必要です。悠真君の量子が……」

その言葉が終わらないうちに、『DAICHI』の出力計が90パーセントを示した。

そして、止まった。90パーセントで、止まった。

「どうした……?」

岡がモニターを凝視する。

「エラーではありません」

十蔵が答えた。

「ただ……待っています」

「待っている?」

「はい。最後の10パーセントを、外から埋めてもらうのを……」

十蔵は、静かに天井を見上げた。

いまごろ、東京の一ノ瀬家の地下では……。


「『DAICHI』が、待ってる」

和真が静かに言った。勾玉を抱えたまま、天井を見上げる。乳白色の光が、建物全体に満ちていた。『DAICHI』が発する生命の光だった。

その光の中で、能登が立っていた。かつて「神話の浪漫を語る猶予をわれわれに与えてはくれません」と言い切った男が、今は涙を隠そうともせず、『DAICHI』の光の中に立っている。

「……悠真君」

だれにともなく、つぶやいた。

「きみは、ほんとうに……」

言葉が続かなかった。その代わりに、能登は深く頭を下げた。隣に立つ研究員が、その姿を見て、同じように頭を下げた。その隣も。その隣も。「共鳴核」に集まった数百人が、静かに頭を下げた。

国籍も、言語も、宗教も、立場も、関係なかった。ただ、ひとりの人間の覚悟に対する、人類としての敬意だった。


午後1時59分。太陽フレアの直撃まであと1分。

建物の外で、空が鳴り始めた。地鳴りではない。宇宙が鳴っていた。

「来る!」

ジョナサンが制御盤を握りしめた。『DAICHI』の出力計が、90パーセントのまま待機している。『量子共鳴通信網』が、世界規模で展開されながら、最後の接続を待っている。全ての塔が、全ての装置が、全ての人々が、同じものを待っていた。

「悠真君……」

十蔵が小さくつぶやいた。

午後2時ちょうど。

その瞬間。和真の八尺瓊勾玉が、突然、眩いばかりに輝いた。緑の光が、白へ変わる。白から、金へ。

「……来た!」

だれかが叫んだ。

『DAICHI』の出力計が動いた。90パーセントから。95パーセント。98パーセント。99パーセント。

そして──100パーセント。

「『DAICHI』、フルパワー!」

建物全体が光に包まれた。白磁の球体から放たれた光が、建物の壁を透過し、長岡の空へと昇っていく。量子共鳴塔が一斉に最大出力で鳴動する。

「『量子共鳴通信網』、完全展開!」

ジョナサンの叫び声が、光の中に消えた。

世界地図のモニターに、網の目が完成した。長岡から始まった量子共鳴の波が、地球全体を覆い尽くした。すべての塔が、すべての共鳴点が、一つの巨大なシステムとして機能し始めた。

地球が──一つの楽器になった。

その瞬間を、「共鳴核」にいた全員が感じた。言葉にできない感覚。耳で聞くのではない。目で見るのでもない。皮膚で感じるのでもない。心で、魂で──感じた。なにかが、自分たちを包んでいた。あたたかく、やさしく、しかし途方もなく広大ななにかが。それが悠真の「響き」だと、だれも言わなかった。

でも、全員が知っていた。

「繋がった……」

岡が涙をぬぐいながら言った。

「世界中の人々と……繋がった……」

三木が、隣に立つジョナサンの肩を掴んだ。ジョナサンも、三木の肩を掴んだ。どちらも言葉が出なかった。

和真が、『DAICHI』の前で、静かに勾玉を胸に戻した。その小さな手が、かすかに光っていた。

「悠真さん」

和真は、静かに言った。

「ありがとうございました」


【第6章】 天の川

第一節 光の龍

2044年7月7日正午。

悠真、名嘉、麗、あかりの四人が、一ノ瀬家の隠し扉を開けて、地下への階段を下り始めた。

以前、この階段を下ったときは、「過去」が思い出されて、「過去」と向き合わされた。とはいえ、そのとき溢れてきた感情は、苦しみや悲しみ、後悔というものではなく、ひたすら懐かしくて、やさしくて、あたたかくて、愛しいものだった。

だが、今日は、「過去」ではなかった。正確には、「自分自身の過去」ではなかった。地球の営みであり、歴史であり──「地球の記憶」だった。いや、地球だけではなかった。宇宙の誕生から、今に至るまで──「宇宙の記憶」そのものだった。しかも、過去だけではない。現在、そして未来に渡るものだった。

初めて経験するあかりは、言葉を失い、涙を流している。

「悠真、おれたちは、いったい、なにを見せられてるんだ?」

思わず名嘉が尋ねた。

しばらく考えた後、悠真が答えた。

「『アカシックレコード(Akashic Records)』って、聞いたことある?」

「『宇宙のデータバンク』みたいなもんだろ? 宇宙の誕生から現在、そして未来に至るまでのすべての出来事、思考、感情が記録されているとか、なんとか……」

名嘉が答えると、麗が続けた。

「別名『宇宙の図書館』とも呼ばれてるよね」

「スピリチュアルや潜在意識の話とか、都市伝説とされてるけど、その『アカシックレコード』がどうしたんですか?」

あかりが震える声で尋ねる。

「たしかに、半分は都市伝説みたいなものだけど……。でも、半分は事実だよ」

悠真の言葉に、名嘉が目を見開いた。

「どこかに、実在するってことか?」

「そ、あるよ」

悠真が階段を下りながら言った。下りるたびに、自分の足音が少し遅れて聞こえる気がした。心臓の鼓動が、自分のものではない巨大な脈動と重なり始めている。

「どこに……」

戸惑いがちに、あかりが静かに尋ねた。

悠真は、しばらく黙った。階段を下りる足音だけが響く。やがて、静かに、しかし、楽しそうに言う。

「みんなの中に、さ」

「みんなの中に……」

悠真の言葉を繰り返した麗が言う。

「もしかして……私たちの細胞……いや、DNA(遺伝子)?」

「さすが、看護師さん。

 そう、おれたちひとりひとりの中に──、それだけじゃない、生きとし生けるものすべての中に、それはちゃんとあるんだよ。初めから」

「じゃあ、もしかして……今、私たちが見ているのって……」

あかりは、それ以上言葉にしなかった。


午後1時36分──階段を下り始めてから90分も経っていた。四人は、契約の箱が安置されている部屋に着いた。始めて来たときよりも、空気が張り詰めているのがわかる。足元から、あのとき以上に振動が感じられる。振動というより、大地の響きであり、地球の鼓動だ。鼓動ばかりか、脈打っているようにさえ感じられる。どこまでも、厳かで、力強く、それでいて、どこまでも清らかで、あたたかくて、やさしい……。

悠真は、箱に手をかけ、ゆっくりと、丁寧に、なにより、愛おしそうに、蓋を持ち上げた。そして、中から、古代イスラエルの三種の神器のひとつ、マナの入った壺を取り出した。それを持って、あかりの前に立つ。

「あかりが、これを持ってて」

驚いて顔を上げたあかりに、悠真が壺を渡す。

「あかり。今日まで、おれたちと一緒にいてくれてありがとう。麗の心を救ってくれてありがとう。麗と一緒に、澪を支えてくれてありがとう。おれたちの家族になってくれて、ほんとうにありがとう」

「そんな……お礼なんて……。救われたのは、私のほうなのに……。

 それに、みんなとは無関係な、特別でもなんでもない私を、あたたかく迎えてくれて……」

あかりの目から、大粒の涙がこぼれた。

「あかり。君は、おれなんかよりも、ずっとすごい人だよ。すべてに全力で向き合い、取り組み、しかも、そのすべてに全力で愛を注ぐ……。あかりみたいに、人をまっすぐ愛せる人、なかなかいない。あかりと出会って、おれは、人間って、ほんとうに素晴らしいな、すごいなって……、そして、ほんとうに愛おしいなって思えたんだ。

 だから……ありがとう、あかり。これからも、澪やみんなのこと、支えてやってください」


次に悠真は、契約の箱から、十戒の石板を取り出した。

「麗、これを頼む」

それを麗に託しながら、言った。

「『汝の隣人を、汝自身のように愛せよ』──ここに刻まれているのは、そのこと。麗がまさに体現してくれたことだ。

 麗には、どんなに感謝しても足りないくらいだ。麗がいなかったら、澪はどうなっていたか……。あの1260日に、心が、きっと耐えきれなかったと思う。でも、麗がいてくれたから、澪は生きようとしてくれた。耐えきってくれた。

 あのとき、おれたちと一緒に来てくれて、ありがとう。そして、いままで、ほんとうにありがとう」

麗は、目に涙をいっぱいにためながら、静かに首を振った。

「それは違うよ、悠真。澪がいてくれたから、私はここまでこられたんだよ。

 それだけじゃない。悠真と澪のおかげで……、こうしてまたあかりと生きることができるようにもなった。また看護師として、だれかの命のために生きようと、私もあかりも思うことができるようになった……。

 悠真、ほんとうにありがとう」


古代イスラエル三種の神器の最後の一つはアロンの杖。悠真は契約の箱からそれを取り出すと、名嘉のもとに行き、差し出しながら言った。

「おれと会った最初の日──名嘉さん、おれになんて言ったか、覚えてる?」

懐かしそうに目を細めて、名嘉は言った。

「はっきり覚えてるさ。『おれの銃は、おまえに預ける。それで未来を撃ち抜いてみせろ』と言ったんだよな」

悠真が静かにうなずいた。

「おれは……戦場で、人が死ぬのを何度も見てきた。視力も声も失い、自分で歩くことさえできなくなった澪を見て、この子は、この過酷な大災害の中で生き抜くことができるのか?って思った。正直、無理かもしれないと……」

名嘉の目はやさしかった。

「でも、そのとき、おまえは言ったんだ。『未来と希望が澪の中にあるのが、おれには見える』と」

「……名嘉さん、おれは、未来を打ち抜くことができたかな?」

「もちろんさ。おまえは、見事に、未来を打ち抜いてきたよ。悠真、おまえは、ほんとうによくやった。

 ……でも、まだだ。まだ、あとひとつ、でっかく撃ち抜かなきゃならないもんがある。だから、おまえはここにいる。大丈夫。おまえなら。おれは絶対に信じてる!」

名嘉の目に涙が光った。

「ありがとう、名嘉さん」

悠真はアロンの杖を名嘉に手渡して、しっかりと抱きしめた。そして言った。

「名嘉さん。これはもう必要ないよな? おれが処分しておくよ」

そう言って、笑顔で、手の中にある名嘉の拳銃を見せた。名嘉も笑顔で返した。

「悠真、未来を撃ち抜いてこい!」


午後1時53分。太陽フレア直撃まで、あと7分。

名嘉、麗、あかりの三人が見守る中、悠真は、ふたが開いたまま、空になった契約の箱〈アーク〉の真横に静かに佇んでいた。

ゴゴゴ、と足元から伝わる、深く地を這うような震動。それは石室の壁を震わせ、大気を震わせ、やがて彼ら自身の骨組みへと共鳴していった。だが、そこには毛ほどの恐怖もなかった。かつて、あの荒々しくも神聖な富士山の火口の縁に立ったときに、魂が覚えたあの圧倒的な「畏怖」と、まったく同じ地響きだったからだ。

「……あたたかい」

あかりが小さく息を漏らした。三人がそれぞれの胸に抱く神器が、まるで意思を持つ生命体のように、じんわりと生命の熱を持ち始めていた。いや、熱だけではない。トクン、トクン、と、まるでそこに鮮血が流れ出したかのように、たしかな鼓動が脈打ち始めたのだ。そのリズミカルな脈動は、肌を、衣服を透過して彼ら自身の肉体へと伝播していく。

名嘉の、麗の、あかりの鼓動が、神器の脈動と完全にシンクロした。

それだけではなかった。彼らはいつしか、一つの巨大な肺が呼吸するように、寸分の狂いもなく同じタイミングで息を吸い、息を吐いていた。言葉を交わさずとも、互いの境界線が融けて消えていく。これまでの旅路、流した涙、背負ってきた痛みのすべてが、一本の美しい編み目のように繋がり、お互いの中にやさしく流れ込んでいくのを感じていた。

その完全なる調和(ワンネス)に応えるように、三種の神器がまばゆい輝きを放ち始める。名嘉の持つアロンの杖は、暗闇を切り裂く峻烈な青白色に。麗の持つ十戒の石板は、濁りなき気高き白銀に。あかりの持つマナの壺は、万物を育む瑞々しい緑に。

「悠真……!」

麗が声を震わせた。光の中に立つ悠真の姿──そこだけ、空間のゲインが狂ったように歪み始めていた。悠真の手の中にあった名嘉の拳銃が、サラサラと音もなく崩れ、金色の光の塵へと変わっていく。

そして、その金色の粒子は悠真の指先から、腕から、胸から、無数に舞い上がり、地下室の天井に向かって吸い込まれていく。金色の星屑を身にまとった悠真の輪郭は、すでに陽炎のように淡く、向こう側の石壁が透けて見えるほどに量子化が進んでいた。

午後1時59分。

悠真が、ゆっくりと振り返った。その顔には、一点の憂いも、恐怖もなかった。ただ、すべてを愛し、慈しみ、すべてを受け入れた者の、どこまでもやさしく、あたたかい微笑みだけがあった。

「おわかれだ。今までありがとう……」

その声は、耳ではなく、三人の脳裏に、心に、直接美しい音色となって響いた。

「だれもが……生まれてきてよかったと思える世界を……」

その刹那、三人の神器から放たれていた青白、白銀、緑の光が、まるで意思を持つ大蛇のように凄まじい奔流となって悠真の元へと解き放たれた。三色の光の帯は、悠真の放つ金色の引力に導かれ、彼を軸として激しい螺旋を描き始める。

「龍だ……」

名嘉が呆然とつぶやいた。それは、皇居から、剣山から、佐渡から、そして長岡の『響』と『DAICHI』から地脈(レイライン)を逆流して集結した、地球そのものの祈りの具現化──光の龍だった。四色の光が完全に融和し、一頭の神々しい龍となって悠真を抱きしめるように咆哮をあげた。

──そして、世界からすべての音が消えた。

絶対的な静寂の直後、柏手を打ったときのような、ぱんっ、と清らかな音を立てて、光の龍がはじけた。爆風はない。ただ、圧倒的な密度を持った光の粒子が、名嘉たちの身体を、魂を、やさしく包み込み、そのまま地下室の分厚い石壁も、地上を覆う大地も、あらゆる物理的な障壁をいっさい無視して、天へと向かって一気に舞い上がっていった。

東京の地下から解き放たれた光の矢は、建物の間を抜け、一瞬にして地球の電離層へと到達する。そして、地球のシューマン共振と完全に同期し、惑星規模の量子もつれを完成させる──長岡の出力計を、待望の「100%」へと押し上げるための、最後の10%の輝きとなって。

「悠真……」

「悠真さん……」

だれもいなくなった地下室で、光の残滓が、星の砂のように静かに降り注ぐ。名嘉、麗、あかりの頬を、あたたかい涙が静かに伝い落ちた。しかしその胸には、引き裂かれるような悲しみはなかった。彼らを包む大気は、まるで母親の胎内のように、悠真の愛のぬくもりで満たされていたからだ。


第二節 青空

国立先端医療病院の食堂や、上層階の連絡通路にある大きな窓からは、“一ノ瀬家のピラミッド”の異形を望むことができた。一部の東向きの病室からも、その無機質なシルエットは日常の景色の一部として溶け込んでいた。

7月7日午後1時50分。

内科医の田中は、長引いた午前の外来診察をようやく終え、職員食堂の片隅で少し遅い昼食を口に運んでいた。トレイの上の味噌汁が、不思議なことに、小さな同心円の波紋を立てている。ふと、窓の外に目をやる。昼間であるにもかかわらず、空は、太陽フレア接近によって宇宙から降り注ぐ琥珀色のオーロラと電離層の乳白色が混ざり合い、不気味な紫色のよどみに包まれ、ゆっくりと揺らめいていた。まるで、空そのものが生き物のようだった。

そのときだった。窓の向こうの“一ノ瀬家のピラミッド”が奇妙にブレた。レンズの歪みではない。ピラミッドの周囲の空間そのものが、まるで熱を帯びた陽炎のようにぐにゃりと激しく歪んだのだ。

(……目の錯覚か? 疲れているのか……)

田中が思わず眼鏡を外し、自身の目をこすろうとした瞬間。

──ぱあぁぁぁッ!!

それは、視覚を焼き尽くすような暴力的な光ではなかった。どこまでもやさしく、どこまでも深い、圧倒的な黄金の輝きが、ピラミッドの頂点から爆発的に溢れ出したのだ。

「なに、あれ……?」

「うそでしょ……なにが起きてるの!?」

ざわめきが広がる。食堂のあちこちから、職員たちの驚愕の声が上がり、椅子を引くガタガタという音が連鎖した。

「“一ノ瀬家のピラミッド”が……光ってる……!」

若い女性職員が、持っていたプラスチックのコップを床に落としながら、外に向かって震える指をさした。

「一ノ瀬さん。……榊先生……」

呆然としたまま立ち上がり、吸い寄せられるように窓辺に近づき、光源を見つめて、祈るように声を上げたのは、看護師長の斉藤だった。そのつぶやきに弾かれたように、田中もトレイを置いて窓際へと駆け寄る。

すべての人間が、言葉を失っていた。

その刹那だった。

ゴォォォォォォ──ッ!!

音は聞こえなかった。だが、“響き”だけが届いた。

そして、“一ノ瀬家のピラミッド”から、巨大な金色の光の奔流が天へ向かって解き放たれたのだ。

「光の……龍……?」

だれかがつぶやいた。光は、まるで巨大な龍のようだった。

いや、一匹ではない。

「二匹……?」

それはまさに、意志を持つ二頭の龍だった。一筋の金の龍は、猛烈な速度で螺旋を描きながら、天を覆う乳白色の雲を突き破って宇宙へと駆け昇っていく。そして、もう一筋の龍は、真下──大地の奥深くへと、弾丸のような速度で潜り込んでいった。そのように見えた。天と地。二頭の光の龍が、それらを繋いでいた。

地底へと潜った龍の波動が、足の裏から強烈な「響き」となって伝わってきたのと、ほぼ同時だった。

「あれ見て! 富士山のほう!!」

だれかの叫び声。食堂内からではない。院内の屋上テラスから、割れんばかりの叫び声が響いてきた。

「田中先生、屋上へ!」

斉藤師長が叫び、ふたりは示し合わせたように食堂を飛び出し、階段へと走り出した。他の医師や看護師、動ける患者たちも、なにかに導かれるようにして一斉に屋上を目指し、駆け上がっていく。

屋上テラスに出た田中の肌を、これまでにない奇妙な風がなでた。屋上には、すでに何十人もの人々が身を寄せ合うように集まっていた。みな一様に、南西の空──富士山の方角を凝視したまま、石のように立ち尽くしている。

遥か西の彼方──富士山の方向から、先ほど地へと潜ったはずの、あの圧倒的な金色の光の束が、天に向かって真っ直ぐに伸び上がっていた。あまりにも巨大だった。まるで、日本列島そのものが発光しているかのように。

地球のツボである霊峰から放たれた金の龍は、天頂を覆う赤黒いオーロラと乳白色の膜に、その牙を突き立てるようにして激しくのたうった。乳白色の空の中を泳ぐように。そして、まるで宇宙そのものを切り裂くように。

そのとき、天の最も高い場所で、龍が、ぱんっ、と清らかにはじけた。それは、世界のすべてを祝福するような、目も眩むほどの全天の閃光だった。

そして──。

宇宙の劫火に閉ざされていた乳白色の空が、まるで薄紙を中央から引き裂くようにして、みるみるうちに割れていった。その亀裂の向こうから、圧倒的な輝きを伴って、真っ青な空が姿を現し、広がり始めたのだ。

それは、ただの青ではなかった。大災害以降、人類が一度たりとも目にしたことのない、世界の不純物をすべて洗い流したかのような、どこまでも深く、どこまでも透き通った、吸い込まれそうなほどに瑞々しい「ほんとうの青空」。生まれて初めて見るような、「本物の青空」だった。

焦げ付いた大気に代わり、雨上がりの森のような、どこか懐かしくあたたかい大地の匂いが、瑞風(みずかぜ)となって屋上の人々をやさしく包み込んでいく。世界が今、数年ぶりに、深く、たしかな呼吸を取り戻したようだった。

気がつけば、屋上にいた全員が、言葉もなく涙を流していた。看護師も。医師も。患者も。子どもも。老人も。

声を上げて泣いている者もいた。ただ静かに涙を流している者もいた。

田中は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。隣で涙を拭おうともせず空を見上げる斉藤師長の横顔を見つめ、それからもう一度、どこまでも広がっていく、まばゆい青空を見上げた。その青の奥に、世界をやさしく包み込む、目に見えない無数の光の粒子の響きが、たしかに生き続けている──どうしてか自分でもわからないが、田中には、それが悠真であるように思えてならなかった。

「榊……」

田中の目にも涙があふれていた。


第三節 量子共鳴通信網

午後2時10分。

太陽フレアは地球に到達していた。だが、かつてのような沈黙は来なかった。

長岡『ミライ』の中央研究棟では、『プロメテウス』の火が、灯り続けた。フリーエネルギー発生装置『DAICHI』が、地球のエネルギーを供給し始めた。

そして、『量子共鳴通信網』が、世界中をつなぎ始めようとしていた。

「……通信、繋がります!」

十蔵のうわずった声が響いた。

ピィン──。

透明な音が響いた。『量子共鳴通信網』の初期接続音だった。

「来た!」

十蔵が叫ぶ。100パーセントの出力で定着した『量子共鳴通信網』が、その産声をあげる。物理的な光ファイバーも、宇宙を巡る人工衛星もそこにはない。地球の大気そのものを巨大な媒体(プロセッサ)とした新しい通信網が、ノイズひとつなく、瞬時にして世界中へと広がっていく。

長岡の中央ホストから、シベリア、ハワイ、ヨーロッパ、アフリカ、そしてアメリカ大陸の生存者拠点へ。ジョナサンが、震える手でマイクを握りしめ、声を解き放った。

「こちら日本、長岡『ミライ』。──聞こえますか?

 This is Japan, Nagaoka “Mirai”.──Can you hear me?」

直後、メインモニターのスピーカーから、地鳴りのような咆哮が響き渡った。ありとあらゆる言語の、ありとあらゆる人々の歓声。そして、言葉にならないむせび泣く声。大災害によって切断され、孤独の中に孤立していた人類の神経が、今、地球という一つの命を介して、大きなひとつの「家族」として完全に再接続された瞬間だった。

巨大モニターへ、次々に光が灯る。

北京。
ソウル。
ニューデリー。
エルサレム。
ロンドン。
ワシントン。
ナイロビ。
サンパウロ。

衛星ではない。海底ケーブルでもない。地球そのものを媒介にした、『量子共鳴通信網』だった。

「続いて、映像、来ます!」

次の瞬間、世界中の人々の顔が、一斉にスクリーンへ映し出された。

泣いている者。
祈っている者。
笑っている者。

「日本が見えますか?」
「こちらロンドンだ!」
「空が……空が戻った!!」
「青空だ!!」

「私たちのところでは……星が……星々が戻ってきた!」

歓声が響く。ワシントンの女性研究員が泣き崩れていた。

ところが、そのとき──。

「大変です。これを見てください!」

室内に緊張が走った。モニターを通じて、『ミライ』を見ていた各国の研究員の間にも、動揺が走った。

「なんだ? どうした?」

ジョナサンが叫んだ。振り向くと、三木、岡、十蔵、能登、綾子と和真たちが、大型モニターに映し出されたものを前にして、言葉を失ったまま震えていた。

「問題発生か?」

モニターに映し出されているのは、なにかの数値だった。「放射性物質」という単語が読み取れた。

「各国の原発事故により、世界中に飛散し、大気ばかりでなく、海洋をも、土壌をも汚染していた放射性物質が……」

十蔵は、答えようとしたが、その後を続けられなかった。自分の見ているものが信じられず、その後の言葉を口にすることがはばかられたのだ。その言葉を、一度口にしてしまったら、その後の全責任を負うことになるような気がして……。科学者であればこそ。

それを察した綾子が、代わりに口にした。

「有害な放射性物質が、消えてるんです、すべて。浄化されたみたいに」

「ばかな……」

それしか言葉が出てこなかった。

岡が、モニターの表示をグローバル・マップに切り替えた。そこに示されていたのは、旧文明の負の遺物──世界中に点在する核施設や、かつての戦争や事故によって生じた放射性物質の汚染地帯から、有害な放射線エネルギー(破壊的波形)が、徐々に、そして、やがて完全に消失していくという、物理学の常識を覆す奇跡の光景だった。

地球そのものが持つ独自の波動──シューマン共振と、東京の地下で完全量子化した悠真の純粋情報体が結合したことで、惑星規模の「浄化(チューニング)」が起きていた。不協和音を奏でていた有害な核の波形が、地球本来の健やかな響きによって、瞬時にして無害な調和の音へと書き換えられていく。

「まるで、地球そのものが、ソニックテクノロジー『響』の技術によって、自己修復材料『KIBOU』に置き換えられたみたいだ……」

青い目を大きく見開き、モニターを注視しながら、ジョナサンがつぶやいた。

「燃やさない、壊さない、奪わない科学の終着点は……過去の傷痕さえも癒やすことだったのか……」

三木の眼鏡の奥から、大粒の涙がこぼれ落ち、テーブルの上に小さなしぶきをあげた。

「……各国に共有します」

研究員の声は震えていた。ジョナサンがマイクを握り直し、告げた。

「こちら長岡『ミライ』。みなさん、これを見てください」

世界各地のリアルタイム観測値。赤く染まっていた放射線分布図が、みるみる青へ変わっていく。

中国、ロシア、アジア、ヨーロッパ、アメリカ……。太平洋も、インド洋も、大西洋も……。世界中の“死の土地”“死の海”“死の大気”が、静かに色を失っていく。

「ばかな……」

「こんなこと……あり得るのか……?」

世界中から声が上がった。しかし、同時に、背後から叫びが聞こえてくる。

「……間違いありません! チューニングされています! 大気、クリーン!!」

世界中で地響きのような歓声が上がった。涙を流しながら、抱き合って喜ぶ人々もいる。

その情報は、またたく間に世界に共有された。

そのとき、『ミライ』の観測室にいただれもが、ひとつの確信を胸に抱いていた。悠真は、ただ太陽フレアに乗って、自身を量子化させ、フリーエネルギー発生装置『DAICHI』を稼働させ、『量子共鳴通信網』を確立させるためだけに、あの瞬間に旅立ったのではない。宇宙の劫火が地球の大気を包み込み、すべてのエネルギーが最大値で共鳴する「この瞬間」こそが、地球にこびりついた放射性物質という猛毒を完全に洗い流せる唯一の好機であることを、あらかじめ知っていたのだ。自分という命を最高の調律師(ナビゲーター)として捧げ、地球を真に生まれ変わらせるために、彼は「この時」を選び、完全量子化した。

言葉にせずとも、十蔵も、ジョナサンも、能登も、ミライに集ったすべての人々が、その悠真の底知れない慈愛と覚悟を肌で、魂で、理解していた。


日本・長岡の最先端都市の研究施設『ミライ(未来)』。

常温核融合装置『プロメテウス』。

『合成燃料』。

自己修復材料『KIBOU(希望)』。

ソニックテクノロジー『響(HIBIKI)』。

フリーエネルギー発生装置『DAICHI(大地)』。

そして、『量子共鳴通信網』。

これらの循環型・共鳴型エネルギーにより、大患難を耐え抜いた人類に再び笑顔がもたらされた。

人々は、いつしか、だれからともなく、この『量子共鳴通信網』のことを〈Y-UMA〉と呼ぶようになった。


第四節 天の川

その日の夜、『ミライ』の建物中の電気が消えた。

中央研究棟の屋上で、真っ青な、透き通るような空を見上げながら、和真が、所長の能登に提案したのだ。

「みんなで、星を見ませんか」

と。

「悠真さんが、取り戻してくれた星空を」

能登は快諾した。

長岡臨時政府も協力を決定。その提案は、日本中、世界中に共有された。


午後7時00分。

『ミライ』は、外部最低限システムを除き、全照明を消灯した。

街灯。
ビル。
道路照明。

可能な限り、長岡の光が消されていく。

「百年前の戦時中も、こんな感じだったのかな」

能登が苦笑する。

「でも……こんな停電なら、悪くない」

やがて、長岡の夜が、ゆっくりと闇へ沈んでいった。その暗闇の中、人々が、静かに空を見上げていた。

『ミライ』の屋上。

和真。
綾子。
十蔵とその家族。
三木博士。
岡博士。
ジョナサン博士。

能登所長。
研究員たち。
留学生たち。
政府関係者たち。

施設の職員たち。

それぞれの家族。

そこには、国籍も、宗教も、立場もなかった。ただ、同じ空を見上げる人間たちがいた。

「……あ」

少女が小さく声を漏らした。

「一番星……!」

指をさす。

西の空。宵の明星だった。小さな、小さな光。しかし、信じられないほど強く、透き通った光を放っている。

「見えた……!」

「おお……」という地鳴りのような歓声が上がる。

その瞬間だった。

まるで、それを合図にしたかのように、宇宙の真の姿が爆発するように現れた。それは、息をのむような満天の星空だった。

「うっわぁ……!」

十蔵の息子が叫ぶ。

夜空を真っ二つに割るように、濃厚な「天の川銀河(Milky Way)」が、東から西の地平線へと流れていた。

無数の光の粒子──数えきれない星。

赤い星。
青い星。

銀色の星。
金色の星。

流星。

人々はあまりの美しさに圧倒され、だれもが言葉を失った。

宇宙そのものが、そこにあった。

「……これが……ほんとうの空……」

綾子が涙を流していた。

佐渡でも。
東京でも。
皇居でも。

剣山でも。

日本中で、世界中で、人々が空を見上げていた。

人類が、こんな星空を見たのは、いつ以来なのだろう。

文明が、空を狭めていった。

文明の光が、空を消していた。

欲望の光が、星々を隠していた。

当たり前にあったものが、いつの間にか、見えなくなっていた。いや、だれも、見ようとしなくなっていた。

だが今、世界は、もう一度、大空と、そして宇宙と繋がっていた。

十蔵が子どもたちを抱き寄せながら言った。

「……守らなきゃな」

「え?」

「この空を」

十蔵は、天の川を見上げながら続けた。

「この青空を。
 この星空を。
 おまえたちの、その次の子どもたちにまで。
 地球というこの星が続く限り」

ジョナサンが静かにうなずく。

「技術とは、本来、そのためにあるべきなんでしょうね」

三木が笑った。

「やっと、人類も、そこへ戻ってこれたか」

岡が、夜空を見上げたまま言う。

「いや、戻ったんじゃない」

その目に、満天の星が映っていた。

「……今、初めて、始まったんだよ」

国籍も、言語も、宗教も超えて、長岡の地で、そして世界中の拠点で同じ星空(天の川)を見上げているすべての人々の心に、ひとつの「言霊」が、美しい共鳴となって深く刻まれていく。──私たちは、もう間違えない。この奇跡の青空を、そしてこの美しい星空を守り抜き、次の世代の子どもたちへ、未来へ、必ず遺していく。

地球という一つの楽器が、人類のたしかな「意志」という音色を奏でた、新文明最初の夜が更けていく。


「ねえ、名嘉さん」

“一ノ瀬家のピラミッド”の裏山で、並んで、天の川を見上げているあかりが言った。

「悠真さんの最期の言葉……。あれって、『だれもが生まれてきてよかったと思える世界を、おれが取り戻すから』だったのかな?」

麗が、言葉を継いだ。

「それとも……、『そういう世界を創っていってくれ』っていうことだったのかな?」

フッと小さく笑って、名嘉が言った。

「そんなの、どっちでもいいんじゃねえか」

「そうだね」

風が吹く。

その風は、どこか懐かしかった。遠い場所から、「ありがとう」という声が聞こえた気がした。


【エピローグ】 新しい命

2044年8月3日(水)。

あれから間もなくひと月が経とうとしている。

信じられないほど透き通った長岡の夜空の下、信濃川の河川敷には数えきれないほどの人々が集まっていた。旧文明の崩壊を生き延びた人々だけでなく、量子共鳴通信網〈Y-UMA〉を通じて繋がった世界各地の代表たちやテレビ局のアナウンサーの姿もあった。世界中の言語が飛び交っている。


午後7時20分。

ヒュゥゥゥゥ……。

長岡花火の始まりを告げる、慰霊の白菊(シラギク)が夜空へと打ち上がる。尾を引いて昇った大輪の火の粉が、夜空で真白に弾けた瞬間、お腹に響く重低音が地響きとなって押し寄せる。

「おお……!」

歓声と拍手が沸き上がる。すでに泣いている人も大勢いた。

長岡は、日本中が大災害に見舞われた中でも、花火を捨てなかった。壊滅した街で。失われた世界で。それでも「慰霊と復興の花火は……絶対に絶やさない」──それが長岡の誓いだった。

ドォン。
ドォォン。

次々に、花火が夜空へ咲き始める。天の川の下で、星々と花火が、ひとつになっていた。

光に照らされた澪の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。麗も、あかりも、葉月も、直海も、遥も、綾子も、泣いていた。

「……きれい……」

思わず、ため息が漏れる。

「きれいなものをきれいと、美しいものを美しいと、そう言える日々こそが幸せなんですね」

道心がつぶやく。

十蔵の足元では、大型の秋田犬タロウも、花火を見上げながら、微笑んでいるようにさえ見えた。そのタロウの頭を、和真が、やはり花火を見上げながら、やさしくなでている。

花火が弾けるたびに、夜空を満たす「天の川」が、まるでやさしく微笑んでいるかのように、その音と大輪の花とを吸い込んでいく。

人々は、自分たちが今こうして生きて花火を見上げている奇跡に、静かに涙を流し、お互いの手を握りしめる。

花火のフィナーレ「フェニックス(不死鳥)」が、夜空いっぱいに黄金の翼を広げた。

「わあ……!」

「すごい……」

ため息交じりの大歓声が上がる。

そのとき、澪のお腹の中で、「トクン」と響いたのを感じた。

「え?」

お腹に手を当てる。そんな澪のしぐさに、麗が気づいた。そっと、澪の横に来てささやく。

「明日、病院に行って診てもらおう」

澪は、麗の目を見た。麗の目が、なにかを伝えていた。言葉にならないなにかを。

澪は、少しの間、黙っていた。

それから、静かに微笑んだ。

「……うん」


検査の結果を受け取ったとき、麗とあかりは、しばらくなにも言えなかった。澪は、ふたりの顔を見て、自分でも確認するように、静かに言った。

「いるんだね」

「うん」

麗の声が、わずかに震えた。

「いるよ」

あかりが、澪の手を握った。その手が、小さく震えていた。澪は、自分のお腹に、そっと手を当てた。

まだ、なにも感じない。それでも、たしかに、そこにいる。

(悠真)

澪は、胸の奥で呼んだ。

(いたよ。ちゃんと、いたよ)

返事はなかった。だが、澪の周囲の空気が、わずかにあたたかくなった気がした。


『ミライ』に戻ると、みなに伝えた。

「私……赤ちゃんを授かりました」

お腹をやさしくさすりながら、少し恥ずかしそうに報告すると、名嘉が驚いたように、立ち上がった。そのまま、しばらくなにも言えずに黙っていた。

それから、窓の外を見た。青い空だった。

「……そうか」

それだけ言って、またソファに腰を下ろした。だが、その目が、みるみる潤んでいった。指先も小さく震えている。遥がそんな名嘉を茶化した。

「気分は、おじいちゃんだね?」

そう言う遥の目にも涙があふれていた。

「うるせえよ」

名嘉は、誤魔化すように咳払いをして、そっぽを向いた。

直海は遥の背中を抱きながら、静かに涙を流した。

和真が、ニコニコしながら澪のもとに来て言った。

「やっぱり、ね」

「やっぱり?」

綾子が尋ねると、和真は言った。

「また会えるって、言ったでしょ」

唖然とする澪を、和真ごと綾子はしっかりと抱きしめた。

「よかった……! よかったよ……!!」

葉月は、両手を合わせたまま、長い間、動かなかった。

九明は、天を仰いで、なにかを唱えるように口を動かした。

道心は、深く頭を垂れた。その肩が、小さく震えていた。

十蔵は、スマホを取り出して、さっそく、『ミライ』にいる仲間たちに、嬉々として報告している。

カラスもまた、いつものように、少し離れたところで、みなを見守っていたが、その目には涙が光っていた。


東京に戻ってきた澪は、ある夜、ひとりで裏山に登った。7月7日の夜から変わらず、空には、無数の星が瞬いていた。天の川が、東から西へと流れている。

澪は、その星空を見上げながら、お腹に手を当て、小さな命をそっと抱きしめた。

「ねえ、悠真」

呼んだ。涙が、一筋だけ頬を伝った。

「私たち……ちゃんと、生きてるよ」

風が吹いた。その風は、どこか懐かしかった。あたたかかった。

澪は、空を見上げた。

悠真は今も、人々の祈りとともにある。

響きとともに。

光とともに。

(この子に、なんて名前をつけようか)

澪は、しばらく考えた。そして、静かに微笑んだ。答えは、最初から決まっていたような気がした。

世界は、続いていく。

命は、続いていく。

そして今日もまた、地球という星は、美しく響いていた。


2045年春。

桜の花びらが、風に舞っていた。生まれた子どもは、女の子だった。澪は、その子を胸に抱きながら、窓の外の桜を見ていた。青い空に、白い花びらが舞い上がっていく。

「名前は?」

麗が尋ねた。澪は、腕の中の小さな命を見つめながら、答えた。

「悠子(ゆうこ)」

「悠子……」

「悠久の悠。遠く、長く、続くという意味」

澪は、その子の小さな頬に、そっと触れた。

「この子が生きる世界が、これからも、ずっとずっと続きますように」

桜の花びらが、窓の外を舞っていた。遠くから、小鳥の声が聞こえた。

世界は、静かに、呼吸していた。


世界に広がる量子共鳴通信網〈Y-UMA〉は、今日も、地球の鼓動とともに脈打っている。嵐の夜も、どんな困難の中でも、その響きは消えない。地球が存在する限り、〈Y-UMA〉は、人々をつなぎ続ける。

だれかが笑えば、その笑いが響く。

だれかが泣けば、その涙が響く。

だれかが祈れば、その祈りが響く。

そして、その響きの中に、いつも、あたたかいものが混じっている。言葉にならない、あたたかいもの──。

それがなにかを、人々は知っていた。

だれも、口には出さなかった。

でも、みんなが知っていた。


2050年。

悠子は、五歳になっていた。

ある夕暮れ、澪と並んで、丘の上に座っていた。空は、橙色に染まっていた。地平線の向こうに、富士山の新しい頂が、小さく見えた。あの日よりも、ずっと大きくなっていた。

「ねえ、お母さん」

悠子が言った。

「お父さんって、どんな人だったの?」

澪は、少しの間、黙っていた。

それから、静かに微笑んだ。

「おっちょこちょいで、そそっかしくて」

「えー」

悠子が笑う。

「でも」

澪は、夕空を見上げた。

「この世界で、一番、やさしい人だったよ」

風が吹いた。橙色の空に、一番星が輝き始めた。

悠子が、それを指さした。

「あ」

「なに?」

「……なんか、笑ってる気がする」

澪は、その星を見つめた。しばらく、ふたりは黙って、夕空を見ていた。

やがて、澪が、静かに言った。

「そうだね」

「笑ってるね、悠真」

風が、もう一度、吹いた。


【完】




※本作はフィクションです。
登場する人物・団体・制度・法律・出来事等はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。
本作に関するすべての著作権は、著者・蒼顕(SOHKEN)に帰属します。
無断転載・引用・複製・翻案・映像化等は固くお断りします。
出版・映像・メディア等でのご関心がある場合は、必ず事前にご連絡ください。


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