YS 1.5 酸いも甘いも
ヨガとは、心や感情の揺れが静止した状態のことであると始まったヨーガ・スートラ。そうでないと、なかなか大変そうだなというのが分かったところで、根本的な疑問。心の感情や揺れって、どういうことでしょう。ぐぐっと寄っていきます。
※前回分は、こちら『YS 1.4 静かでないとき』をご覧ください。
ヨーガ・スートラ第1章5節
वृत्तयः पञ्चतय्यः क्लिष्टाक्लिष्टाः॥५॥
vr̥ttayaḥ pañcatayyaḥ kliṣṭākliṣṭāḥ ॥5॥
ヴィリッティヤハ パンチャタィティヤハ クリシュタ アークリシュターハ
心の作用には五種類あり、それらは、苦痛に満ちたもの(煩悩性のもの)、あるいは苦痛なきもの(非煩悩性のもの)である。(2)
心の作用(=心や感情の揺れ)は、種類が5つあるよという宣言がひとつ。そして、その5つは「苦痛に満ちたもの」と「苦痛なきもの」に分けることができるよというのが、もうひとつ。今回は、この後半部分にフォーカスします。
まず、インテグラル・ヨーガの翻訳をお借りしたところの「苦痛」。苦痛を引き起こす心の作用、ありますね。うん。ハリーシャは「harmful(有害)」と訳しているので、害のある心の作用として、もう少し対象を拡大してもよさそう。心当たり、ありますあります。
そして、残りを「苦痛なきもの」としたところ、私は面白いなあと思いました。苦痛に満ちたものとそうでないもの、煩悩性のものとそうでないもの。たとえば苦痛に対して快楽という、対になるものを引っ張りださずに、これとこれ以外という構図になっている。そのおかげで、議論が2極の別の存在を比較するのではなく、地続きの2つのあいだに存在する細かいメモリにも、光をあてやすくなっているんじゃないかと思うんです。
ハリーシャ (3) は、これを「benign」と英訳していました。「benign」(ベナインと読みます)は、「親切な、優しい」という意味もありますが、良性の腫瘍という時に使うような「良性の」という意味もあります。まああっても問題がない腫瘍。つまり、まああっても問題がないものも、その延長にあるあったら嬉しいもの(=快楽)も、全部が心の作用。うまく伝わるだろうか、この光を当てる範囲が広がるイメージ。私たちは、そこに目をこらし、耳を澄ませるわけです。
あったら嬉しいもの、そりゃ嬉しいです。でもそれが、無くなったらどうしようという不安、手放したくないという執着とリンクしてしまうと、それが苦しみを生みます。ポジティブな考えだって、「ポジティブでないと良いことは起こらない」という不安や、「ネガティブな考えは良くない」という執着があると、やっぱりどこか息苦しい。たとえ「良い」とされる考えや感情も、しっかり手綱を引いておかないと、次々と苦しみを生み出すことになってしまう可能性がある。だから、あったら嬉しいものも静かに収めるべき心の作用であると、ここで認識しておきましょう。
考えや感情が揺れることは当然だから、それ自体が悪いのではない。問題なのは、それらがさらなる考えや感情と切り離せないほどに、リンクしてしまうこと。見落としがちな、この境目も大事。
こういう風に考えていくと、自分の考えや行動の原因を探すのって、ほどほどでいいんだろうなと思います。その元となった考えや感情をどんどんさかのぼることって終わりがないし、その過程できっとまた、気付かない速さで別の考えや感情をリンクさせてしまうことになるから。下手したら、心は転がり続けて雪だるまみたいになってしまっていたら、それにとらわれた自分は苦しいだろうなあと思う。そんな経験、もちろん山ほどある。
だからむしろ、さかのぼるより、いま自然と湧き上がってきた考えや感情そのままとの時間を、少しでも長く過ごすことに注力する。思考や感情がどんどん広がってしまう、そのペースを落とすことの方を、ヨガは勧めてくれているように思います。
そもそも、経験したことに対して、第1の心の作用があり、そこからリンク付けされた第2の心の作用があって・・・と続いていくのかと思うと、知らないうちに忙しくしているんだなあと思います。そりゃつかれるわ。そりゃ確かに、静かにしてもらっていいわ、と思いませんか。
フォーチャプター (1) では、心の作用とはとても混乱を招きやすい言葉で、どんな哲学者や思想家も、適切に説明できていないと書いています。そして、8世紀に生きたGoudapadacharyaという偉大な学者(シャンカラチャリヤという、日本語のウィキペディで説明があるほど有名な方の、グルのグルだそう)が、「The whole world seems to be nothing but one of the forms of mental modifications of a supreme consciousness(訳:この世界全体は、〈大いなる意識〉による心の作用の、一つの現れでしかないようだ)」と述べたことを引用していました。
このはなしは、その規模までつながるわけです。
ますます大変なことを目指しているんだなあ、と思います。
自分が見過ごしてきた始めの始めから意識するなんて、ねえ。ただ、そこを意識することで〈見るもの〉と〈見られるもの〉の境目が、もう少し具体的になってきたようにも思いませんか。そして、ヨガがやろうとしていることは、その〈見るもの〉がなんであるかを知ること。
今回のサンスクリット語、長くて大変ですが、変わらず音読しましょう。役に立つか分からないけど、サンスクリット語は「a」が否定/not の意味があるので、最後の「クリシュタ アークリシュターハ」のところ、「クリシュタ(苦痛)、アークリシュターハ(苦痛でないもの)」と読むわけです。ということを知って、ちょっと音読が楽になったらいいなと。。
声を出すことで起こる、身体の中に響く揺らぎに感じ入ることが出来るといいよなと思っています。そして、だから、ああそうだ揺れることは悪いことではないと理解できる。これ、つくづくほっとするなあと思います。
では、その5種類の心の作用とは何でしょうか。さらにぐぐぐっと寄ってみていく次回のヨーガ・スートラ第1章5節は、こちらから⇩
※ 本記事の参考文献はこちらから。
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