見出し画像

<S2第3部・回収できないものを抱え 共同世界の再開を問う> 第7回 死者と異なる幸福を ひとつの答えにできるか(8/21改稿)

――宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む

Season2では、ここまで六つの作品を通して、「私」が世界の中心にいるという前提を少しずつ動かしてきました。

第1部では、土地、他者、利用という問題を通して、自分がどこから世界を見ているのかを問い返しました。第2部では、さらに人間の外へ開かれました。『鹿踊りのはじまり』では他種との遭遇によって見方が動き、『やまなし』では光や水や影や匂いが意味の確定より先に身体へ届き、『オツベルと象』では、その身体を取り囲む仕事や食事や拘束の条件そのものが誰かによって変えられることを見ました。

第6回の最後で残ったのは、条件を変えればすべてが戻るわけではない、という問題でした。白象は救出され、鎖と分銅を外されます。それでも、物語は痩せた白象の「さびしくわらって」という姿を残します。

ここからSeason2は第3部へ入ります。第3部の主題は、「回収できないものを抱え、共同世界の再開を問う」です。

第3部では、もう「正しい位置へ戻ればよい」とは考えません。異なるものを一つにまとめれば解決する、とも考えません。最初に必要になるのは、むしろ分けることです。異なる幸福を、異なるままに置く。異なる信仰を、一つの正しさへ統合しない。生者の願いと、死者の行き先を、同じ物語にしない。その最初の作品が、『銀河鉄道の夜』です。

この作品には、「ほんとうのさいわい」という強い言葉があります。だからこそ私たちは、その答えを知りたくなります。しかし、作品の中でジョバンニが「ほんとうのさいわい」を問うと、カムパネルラは「僕わからない」と答えます。幸福を願う言葉は残る。それでも、その内容は一つに確定されません。第7回では、この緊張をそのまま受け取ります。

(Season2では、文末に「今回の要点」を置きました。全文を読む時間のない方は、これを読むだけでも理解していただけると思います)

1 作品の場面

同じ列車に乗っていても、同じ場所へ向かうとは限りません

祭りの夜、孤独の中にいたジョバンニは、気がつくと銀河鉄道へ乗っています。隣にはカムパネルラがいます。列車には、鳥を捕る男や、船の事故を経て列車へ乗ってきた家庭教師と子どもたちなど、さまざまな旅人が現れます。彼らは同じ車内で言葉を交わし、同じ窓から銀河を見ています。しかし、同じ列車にいることは、同じ場所へ行くことを意味しません。

その違いがはっきり現れるのが、サウザンクロスへ近づく場面です。家庭教師と子どもたちは、そこで列車を降りなければならないと言います。ジョバンニは、一緒にもっと先へ行けばよい、自分たちはどこまででも行ける切符を持っている、と引き留めます。けれども少女は、そこが天上へ行くところだから降りるのだと言います。するとジョバンニは、天上へ行くより、ここで天上よりよい場所をつくらなければならないと教わった、と言います。さらに神についての言葉が食い違い、互いに自分の神こそ本当だと主張します。

興味深いのは、この場面が敵対だけで終わらないことです。家庭教師は、いつか本当の神の前で会えることを祈ります。少女は別れを惜しみ、ジョバンニも泣き出しそうになります。信じていることは一致していません。行き先も同じではありません。それでも、違いがただちに相手との関係を消してしまうわけではありません。

ここには、第3部の入口になる形があります。同じ列車に乗り、同じ時間を過ごすことと、幸福や信仰の内容まで同じにすることは、別のことです。『銀河鉄道の夜』は、最初から全員を別々の世界へ分けてしまうのではなく、一度同じ列車へ乗せます。そのうえで、違いを違いのまま現します。

2 通常の読解では見落とされる転倒

「ほんとうのさいわい」は、答えとして置かれているのではありません

『銀河鉄道の夜』を読むと、「ほんとうのさいわい」という言葉に強く引かれます。さそりの火の話では、自分がこれまで多くの命を奪って生きてきたことを悔いたさそりが、次には自分の身体を「みんなの幸」のために使ってほしいと祈ります。その話を聞いたあと、ジョバンニも、自分の身体を何度焼いてもよいほど、みんなの幸福のために生きたいと語り、カムパネルラもそれに同意します。

ここだけを取り出せば、自己犠牲こそ「ほんとうのさいわい」だと読むこともできるかもしれません。しかし、作品はその直後に答えを閉じません。ジョバンニが「ほんとうのさいわい」は何なのかと尋ねると、カムパネルラは「わからない」と答えます。そして二人は、それでも先へ進もうとします。

大切なのは、幸福を求める願いが否定されていないことです。ジョバンニは、みんなの幸福を探すと言います。カムパネルラも、それに応じます。けれども、その願いの内容が完成した教義として提示されるわけではありません。

ですから、この作品を「幸福論ではない」と言い切るのも強すぎます。むしろ、『銀河鉄道の夜』は「ほんとうのさいわい」を正面から問いながら、その問いを単一の幸福論へ閉じない作品と読む方が、物語に近いと思います。

ここで転倒するのは、「幸福とは何か」という問いそのものではありません。「本当に正しい幸福が一つあり、それを見つければ全員をそこへ統合できる」という、こちら側の期待です。

第3部の最初で必要なのは、幸福への願いを捨てることではありません。その願いを理由に、差異まで消してしまわないことです。

3 もう一つの転倒

分けることは、見捨てることではありません

私たちは、「分ける」という言葉に冷たさを感じることがあります。違いを認めると言いながら、結局は互いに無関心になるのではないか。共通の価値を持てないなら、共同世界そのものが壊れるのではないか。そう考えたくなるのは自然です。

しかし、『銀河鉄道の夜』の列車で起きているのは、単純な分離ではありません。ジョバンニは、家庭教師たちが降りることを惜しみます。少女も、ジョバンニたちと別れたくなさそうにします。信仰について意見が食い違っても、別れそのものには悲しさがあります。違うから、最初から関係がなかったことになるのではありません。

カムパネルラとの関係も同じです。ジョバンニは、どこまでも二人で一緒に行こうと願います。しかし、カムパネルラが窓の向こうに見た「ほんとうの天上」を、ジョバンニは同じようには見ることができません。カムパネルラは母のいる野原を指しますが、ジョバンニには、そこは白くぼんやり煙っているようにしか見えません。同じ窓を見ても、同じものが見えていないのです。

この場面を、「カムパネルラの方が真理を見ていた」と決める必要はありません。反対に、「ジョバンニだけが現実的だった」と決める必要もありません。物語が置いているのは、二人の見え方の差です。そして、その差は最後まで統合されません。

第7回でいう「分ける」とは、相手を遠ざけることではありません。相手の幸福や信仰や見えているものを、自分の説明へ移し替えないことです。

近くにいる。願いを交わす。一緒に進みたいと願う。それでも、「あなたが見ているものは、私にも同じように見えている」とは言わない。その距離を残します。

4 理解や制度の外に残るもの

カムパネルラの行き先を、ジョバンニは最後まで共有できません

銀河鉄道の旅の終盤、カムパネルラは窓の向こうに美しい野原を見つけ、そこに母がいると言います。ジョバンニも同じ方向を見ます。しかし、そのようには見えません。ジョバンニは寂しさを感じながら、それでも二人で一緒に行こうと言います。そして振り返ると、さっきまでカムパネルラが座っていた席には、もうその姿がありません。

ジョバンニは激しく泣き、目を開くと、もとの丘の草の上にいます。その後、現実の川辺へ走っていき、カムパネルラがザネリを助けるため川へ飛び込み、そのまま見つからなくなったことを知ります。カムパネルラの父は、落ちてから四十五分が経過したことを確かめ、生還の望みがないことを告げます。

ここで、カムパネルラの死を一つの意味に確定することには慎重でありたいと思います。彼がザネリを助けたことは物語に書かれています。しかし、それをそのまま「自己犠牲こそ、ほんとうの幸福である」という答えへ変えると、作品の直前に残された「わからない」と緊張します。

カムパネルラの行為は消せません。彼がザネリを助けたことも、ジョバンニとともにみんなの幸福を願ったことも消せません。しかし、その行為によって「ほんとうのさいわい」の内容まで決まった、と生者の側から言い切る必要はありません。

第8回では、死者の沈黙そのものをさらに深く考えます。ですから第7回では、まだそこまで進みません。

ここで残すのは、ジョバンニがカムパネルラと同じ旅をしながら、最後の見え方と行き先までは共有できなかったということです。近くにいたことと、同じ場所に立てることは同じではありません。

5 主体は、どのように変化するか

ジョバンニは、一つの答えを持って現実へ戻るのではありません

物語の初めのジョバンニは、孤独の中にいます。父は不在で、母は病気です。学校ではからかわれ、カムパネルラとも以前ほど言葉を交わせなくなっています。銀河鉄道の旅は、そんなジョバンニに、再びカムパネルラと並んで座る時間を与えます。

列車の中でジョバンニは、さまざまな人に出会い、別れます。異なる信仰を持つ人たちを引き留めようとします。さそりの話を聞き、みんなの幸福のために生きようと決意します。そして最後には、カムパネルラとどこまでも一緒に進みたいと願います。

しかし、旅はその願いを完成させません。ほんとうの幸福の答えは得られない。家庭教師たちとは同じ場所へ行かない。カムパネルラが見た野原も、自分には同じように見えない。そして、カムパネルラ自身もいなくなります。

それでもジョバンニは、何も得ずに戻るわけではありません。目覚めたジョバンニは、病気の母へ牛乳を届けるため町へ戻ります。川辺ではカムパネルラの死に直面し、その場でカムパネルラの父から、ジョバンニの父が間もなく帰るかもしれないという知らせも受け取ります。世界は、銀河の中で一つの答えに完成するのではなく、喪失と、なお続く生活の両方を抱えた現実として続いています。

第7回で主体に起きる変化を、「ジョバンニが幸福の真理を悟った」とまとめることはできません。むしろ、一つにまとめられないものを抱えたまま、現実へ戻されることです。

第2部までのiは、他種、環境、条件によって自分の位置を動かされました。第3部では、そこからさらに、動かされたあとにも統合できない差を消さずに持つ主体へ進みます。

6 デクノボウのiによる観測位置の回転

他者の幸福を、自分の答えで埋めません

第7回で、デクノボウのiはもう一度回転します。

今回は、他者の側へもっと深く入り込むための回転ではありません。むしろ、近づいたあとで、最後の一歩を越えないための回転です。

「相手の立場に立って考える」という言葉があります。それは大切です。しかし、カムパネルラの幸福や、カムパネルラが見た天上や、死へ向かったときの心を、ジョバンニがそのまま経験することはできません。作品の中でも、カムパネルラに見える野原はジョバンニには同じように見えず、「ほんとうのさいわい」についてもカムパネルラ自身が「わからない」と答えます。

ですから、今回のiは、

他者の場所へ立とうとする
 
➡️
他者の場所を、自分の答えで埋めない

デクノボウのiによる観測位置の回転

方向へ回転します。

理解しようとすることをやめるのではありません。幸福を共に願うこともやめません。しかし、理解しようとした結果を、その人自身の最終的な答えとして確定しない。

これは、第4回の「鹿になったつもりにならない」と似ていますが、同じではありません。第4回では異なる身体の境界が残りました。第7回で残るのは、異なる幸福、信仰、見え方、行き先の境界です。そして今回は、その差を一つの「正しい幸福」へ統合しないことが重要になります。

第3部の最初のiは、何かを付け加えるより、少し手を止めます。私が相手の幸福を完成させる直前で止まる。二つのものを一つにまとめる直前で止まる。分けたまま、関係を切らない。その位置に立ちます。

7 共同世界は、再開できるのでしょうか

同じ答えを持たない者が、同じ世界を共有できるでしょうか

銀河鉄道の車内は、短いあいだ、一つの共同世界のように見えます。異なる来歴を持つ者が同じ列車に乗り、話し、食べ、窓の外を見ます。けれども、それは全員を同じ終着点へ運ぶ列車ではありません。鳥捕りは自分の場所で降り、サウザンクロスでは家庭教師たちが降り、最後にはカムパネルラもジョバンニと別れます。

列車という共通の場があっても、目的地も信仰も見えているものも一致しません。では、共同世界とは何なのでしょうか。全員が同じ幸福を持つ世界なのでしょうか。それとも、違う幸福や信仰を持つ者が、違うまま一緒にいられる時間や場所も、共同世界と呼べるのでしょうか。

ここで、後者だとすぐ答えることもしません。なぜなら、『銀河鉄道の夜』の共同世界は、実際に途中で分かれていくからです。違いを認めれば関係が必ず続くという保証は、作品にはありません。

それでも、異なる者たちが一度同じ列車へ乗ったことは消えません。言葉を交わしたことも、別れを惜しんだことも消えません。共同世界を考えるとき、一致だけをその条件にしない。この作品から第7回で受け取れるのは、まずそこまでです。

同じ答えを持つから一緒にいられるのではない。しかし、一緒にいたからといって、同じ答えになるわけでもない。この二つを分けるところから、第3部の共同世界を考え始めます。

8 「未完成な自由」との接続

他者の幸福を、完成させません

未完成な自由は、何も決めないことではありません。Season2のこれまでの作品でも、人は判断し、選び、行動してきました。しかし、その判断や選択を世界のすべてとして完成させないことを考えてきました。

第7回では、その問いが他者の幸福へ向かいます。自分の幸福について考えることはできます。他者の幸福を願うこともできます。ジョバンニも、みんなの幸福を探したいと願います。問題になるのは、他者の幸福の内容まで自分の側で完成させてしまうことです。

「あなたのためには、これが一番よい」「本当はあなたも同じ幸福を望んでいる」「この犠牲には、この意味があった」。そう言いたくなることがあります。善意から出る場合もあります。けれども、その言葉が相手自身の答えに置き換わってしまうなら、他者は私の幸福論の中へ回収されます。

『銀河鉄道の夜』では、みんなの幸福を願う強い言葉と、「ほんとうのさいわい」が何かはわからないという言葉が、同じ作品の中にあります。この二つのどちらかを消す必要はありません。

幸福を願う。しかし、幸福を一つに決めない。

第7回における未完成な自由とは、この間に留まれることです。他者の幸福を無関心のまま放置するのでも、自分の幸福へ統合するのでもありません。相手の幸福が自分とは異なる可能性を残し、その違いを消さずに関係し続けること。そこまでです。

9 次の思想への問い

共通の世界は、共通の目的を必要とするのでしょうか

ここからSeason3へ、一つの問いを渡します。

共同世界には、共通するものが必要です。同じ場所で暮らし、何かを一緒に行うなら、言葉、決まり、役割、判断の仕方など、共有しなければならないものがあります。何も共有しなくてよい、と言うことはできません。しかし、その共有を、幸福や人生の目的まで広げなければならないのでしょうか。

全員が同じ「よい生」を持たなければ、共同世界は成立しないのでしょうか。反対に、「幸福は人それぞれだ」と言うだけで、同じ世界を維持できるのでしょうか。

『銀河鉄道の夜』は、この問いに制度的な答えを出しません。同じ列車には乗れるが、降りる場所は違う。みんなの幸福を願うことはできるが、その幸福の内容はわからない。カムパネルラとジョバンニは深く結ばれているが、最後に見えるものは一致しない。

Season3で必要になる思想の言葉は、この差を消すためのものではありません。なぜ人は共通のものを必要としながら、同時に一つへ統合されないのか。その関係を考えるための言葉です。

ここではまだ、承認、多中心性、他者の不可還元性、制度といった答えを先に置きません。作品から持ち出すのは、もっと素朴な問いです。

異なる幸福を持つ者が、幸福を一つに定義せず、それでも同じ世界について決めていくことはできるのでしょうか。この問いをSeason3へ渡します。

10 花巻で問われること

「みんなのため」と言うとき、誰の幸福を一つにしているでしょうか

この問いを花巻へ持ち帰ると、「みんなのため」という言葉が見えてきます。

地域づくりでは、「地域全体のため」「住民の幸福のため」「将来のため」といった言葉を使います。共通の事業を進める以上、ある程度の目的を共有することは必要です。しかし、「みんなのため」という言葉が出たとき、その「みんな」が同じ幸福を望んでいると考えていないでしょうか。

農業を続けたい人と、別の仕事を選びたい人。観光客を増やしたい人と、静かな暮らしを守りたい人。便利さを求める人と、変化を急ぎたくない人。同じ花巻に暮らしていても、何をよい未来と感じるかは一つではありません。

ここで、どちらが正しいかを決めることが第7回の目的ではありません。また、「人それぞれだから何も決められない」とすることでもありません。

『銀河鉄道の夜』から持ち帰りたいのは、共通の判断をすることと、幸福の内容まで統一することを分けることです。

何かを決める必要があっても、その決定を「全員が同じ幸福を望んだ結果」と言い換えない。違う願いや違う理由が残っていることを、消さない。

花巻で第7回から問うのは、まだ制度の設計ではありません。「みんなのため」と言うとき、その中の違いをどこまで残しているでしょうか。共通の未来を語るとき、異なる未来像を一つの言葉で覆っていないでしょうか。まず、そこまでです。

11 次回へ

異なる幸福を分けたあとに、答えを返せない死者が残ります

第7回で、第3部は始まりました。

第2部では、世界の側からiが動きました。他種に触れられ、環境に反応し、条件によって自由の形が変わることを見ました。そして第3部では、動かされたあとにも一つにできないものを扱います。

最初に分けたのは、幸福です。ジョバンニは「ほんとうのさいわい」を求めます。カムパネルラも、みんなの幸福を願います。それでも、その内容は一つには決まりません。異なる信仰や異なる行き先も、同じ答えへ統合されません。

そして物語の最後で、さらに難しいことが起こります。カムパネルラはジョバンニの隣から消え、現実の川辺では、ザネリを救ったあと戻ってこないことが明らかになります。

ここから問いの質が変わります。

生きている他者なら、こちらの理解が違っていれば、相手が訂正してくれるかもしれません。自分の幸福はそうではない、と答えてくれるかもしれません。しかし、死者はもう同じ仕方では答えません。

では、生者は死者について、どこまで語ってよいのでしょうか。死者の幸福を、死者の意味を、残された者が代わりに完成させてよいのでしょうか。

次回は、『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』『青森挽歌』を読みます。第7回では、「異なる幸福を一つへ統合しない」ところまで来ました。第8回では、その一方がもう答えられないとき、空白をどう扱うのかを考えます。
第3部は、分けることから、沈黙を残すことへ進みます。

今回の要点

  • 今回の転倒
    『銀河鉄道の夜』では、「ほんとうのさいわい」を求める願いそのものが否定されるのではありません。その内容を一つの答えへ統合できるという期待が揺らぎます。

  • 通常の読解では見落とされる点
    この作品は幸福を問わないのではありません。むしろ「ほんとうのさいわい」を正面から問いながら、カムパネルラに「わからない」と言わせ、その問いを単一の幸福論へ閉じません。

  • 第3部最初の操作
    第7回では、まず分けます。異なる幸福、信仰、行き先を、異なるまま残します。分けることは関係を切ることではなく、違いを一つの答えで覆わないことです。

  • 理解や制度の外に残るもの
    カムパネルラが見た母のいる野原は、ジョバンニには同じようには見えません。二人は深く結ばれていても、最後の見え方や行き先まで共有できません。

  • 主体はどう変わるか
    ジョバンニは幸福の答えを得て戻るのではありません。幸福、信仰、別れ、死を一つにまとめられないまま、母の待つ現実へ戻ります。

  • デクノボウのiとは
    第7回のiは、他者の場所へ入りきるための記号ではありません。他者の幸福を自分の答えで埋めず、統合の直前で止まる主体です。

  • 今回のiによる回転
    「他者の幸福を理解し、一つの幸福へまとめる」から、「異なる幸福を異なるまま残し、それでも関係を切らない」へ回転します。

  • 共同世界は再開できるのか
    同じ列車に乗っていても、同じ場所へ行くとは限りません。共同世界を、同じ幸福や同じ目的地を持つことと同一視せずに考えられるかが問われます。

  • 未完成な自由との接続
    未完成な自由とは、他者の幸福に無関心であることでも、他者の幸福を自分の幸福論へ統合することでもありません。他者の幸福を願いながら、その内容を完成させないことです。

  • 次の思想への問い
    共通の世界は、共通の幸福や共通の人生目的を必要とするのでしょうか。異なる幸福を統合せず、それでも共同で判断することはできるのでしょうか。

  • 花巻で問われること
    「みんなのため」と言うとき、その「みんな」が同じ幸福を望んでいることにしていないでしょうか。共通の決定と、幸福の統一を分けられるでしょうか。

  • 第3部での位置
    第7回は、「分けて、統合しない」です。第8回では、そこからさらに、答えを返せない死者の空白を埋めないことへ進みます。

いいなと思ったら応援しよう!