美術館の壁にある文字に煽られる
最近、美術館の展示を見ていて思った。展示室の壁に書いてある一文。
あのアイキャッチは説明というより、煽りなのでは。
何か悪い意味で言っているのではない。
本に帯や要約の仲間のような、情報がぎゅっと凝縮された感じがあるし、わかりやすいものは好き。単純に、提供する側が「なぜそれを選んだのか」ということが気になっている。
この1か月は奇跡的に3館も行って、立て続けにそう思わされたので印象に残っているんだろうと思う。
こちらの状況としては、「そうなんですか…」と心を動かされて、毎回涙目になっている。
美術館は本や映画館と似てる。
ハローキティ展で「肉食のHello, world」
展示室に入る前に置いてあるパネルに「Hello! You」という言葉があった。
紙袋から顔を出したキティ。初めて世界を知る。そして、自分ではない誰かの存在を知る。それは愛を知ることなのだという。
そうなんだー!すごくいいな。知らなかった。
キティは消費されるだけの存在ではない。あちらからも消費しに来ている。キティねえさんは攻めの姿勢だ。
勝手にそう思ってグッときた。
紙袋からおずおずとこちらを見ている様相で、実際は臨戦体制。社会生活だな。
キティ展は「妹が行きたがっていたから行った」ので、完全に街歩き気分だった。有料区間の散歩だけど懐かしくてかわいいものが見れるしー、程度の気持ちだったのに、入室前に入場料分は回収したようにすら感じた。あの袋から顔を出したキティのグッズを買うことも決定した。
展示まだ見てないのに。
これはかなり気持ちよく煽られた。
展示そのものの記録はこちら。
マリー・アントワネット展で「Nothing can hurt me nowで致命傷」
最期前後の展示の部屋に入ったところで、赤い壁に大きく書かれていた。
さっきまでの「実際色々あるんですが裕福」な世界からの急展開。
Nothing can hurt me now
もはや私を傷つけられるものなど何もない
マリーの言葉が、大きく掲げられていた。
ガツンとくる。最期へと向かっていくところでこれ?おぉ……と涙目。
そして涙でボヨンとした視界のまま、これってさー、と思い始める。
なんで英語なんだろう。
母語はドイツ語。でも14歳でフランスへ渡って以降、最期まで生活の中心にあったのはフランス語だったはず。本人の言葉として見せるなら、フランス語を大きく置いて、その下に日本語訳なんじゃ、とか思っちゃう。
でも英国で企画された世界巡回展で、大きな英語、その下に日本語は妥当なのかも。フランス語にした場合、読める人口は英語からかなり減る。
仮にフランス語にしてみると
NON, RIEN À PRÉSENT NE PEUT ME FAIRE DU MAL.
いいえ、今となってはもう、何ものも私を傷つけることはできません
すいませんでした。
ノンで、リタイアです。
この言葉、図録を見ても見つからなかった。どっかにあるのかなー。あるのかもしれないけど、展示ほどはロックオンしてもらえてない。
展示空間でしか成立しない演出だからなのか。それとも「ここへ来た人が見たもの」として、現場に残しておくものなのか。
壁に書かれた一文も展示物の一部なんだなあ、とあらためて思う。
マリー展も「妹が行きたがっていたから行った」の仲間たちながらも、入ってみたら刺繍、ドレス、ジュエリーと大好物いっぱい。涼しいとこ歩くだけだしー、で行って、やっぱり料金以上に楽しんで図録まで持ち帰っている。
展示そのものの記録はこちら。
Tatreez展で「詩の連続殴打」
マレーシアのイスラム美術館で見た、パレスチナ刺繍の展示。こちらは母がマレーシア行こうと言うので、「行くかあ…行くなら美術館と博物館も行程に入れますよねー」で訪れたら偶然やってた展示。
刺繍を見に行ったはずなのに、かなり早い段階から詩が飛んでくる。
土地、女性、故郷、喪失、抵抗、パレスチナ。
身近じゃないはずなのに、英語なのに、超刺さる。そして当然のように涙目。忙しい。
英語、その下にマレー語。英語で3行あったら、次はマレー語で4行の感じで群れがそこにいる。しかも一回じゃない。行く先々で、いろんな詩が壁から話しかけてくる。今まで何度も言ってきた、これからも何度でも言うの構え。
長く争いの続いている土地を扱っていることもあって、メッセージはとてもドラマティックだ。
一撃が重い。しかも連続で来る。ああ、なんだか私の時代の教育と似ている。かなり強くこちらの見方を誘導してくる。何度も同じ方向へ押してくる。
もちろん、メッセージだけを押し付けてこられている訳じゃない。その歴史や土地と、刺繍の模様には密接な関わりがある。
それにしたってストーリーって強すぎる、と実感。自分の制作に立ち戻らされる。
ここまでくると、壁の言葉は作品の説明ではない。作品を見るための視線そのものを、展示側が組み立てている。
すべてが展示だった
私は展示に煽られることが嫌なわけではないらしい。それどころかむしろ、どうやら結構好きだ。
ハローキティ展では入る前から気持ちよく煽られ、マリー・アントワネット展では致命傷を負い、Tatreez展では詩の連続殴打を受けている。後から考えれば全部泣きながら喜んでいる。ついてっただけなのに。ちょっとこわい。
なんで効いたんだろうと思う。
なぜこの言葉を選んだのか。なぜここに置いたのか。なぜこの大きさなのか。英語なのか、詩なのか。一回なのか、何度もなのか。
考えていて、ジョブズのプレゼンやトランプ大統領のスピーチを思い出した。目的も内容も全然違うけれど、複雑な情報の中から短く強い言葉を取り出して、大きく置く。ここを見て、これを覚えて帰って、と視線を集めるやり方は似ている。騒ぐところは決められている。
短い言葉を計画された場所に置くと強い。そして強いぶん、何を残して何を捨てたのか、提供する側の思惑も濃くなる。展示を組み立てて、こちらへ差し出している人の手が見たい。
自分が制作するとき、どこまでこちらで組み立てて、どこから見る人に渡すのか。自分もいつか使うかもしれない。その手法まで、展示としてじっくり見たい。
これからも泣きながら、これってさーって考えるんだと思う。
しかし、ついてった展示の場合は黙ってたほうがいいのかもしれない。没入感を返せということになりかねない。
