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私が愛した彼、僕を愛した彼│第五章

第五章

 自室の玄関とリビングの電気を順につけて、バッグを椅子の上に置き、ピアスを外す。いつも通り、外出先から帰宅したあとの動きを淡々となぞっていく。脱衣所で手を洗い、着ていたワンピースを脱いで、下着姿のままヘアバンドを装着し、鏡の中の自分と向き合う。
 ひどい顔だった。表情筋が重力に負けて、何度も涙をこらえたせいで目元が浮腫んでいる。
 あのあと、敬太さんと私はそれ以上会話を続けることができなかった。私はエンディングノートのことが自分の勘違いだったという事実に向き合うまでに時間がかかったし、敬太さんも呼吸が震えていて、自分がした発言を読み返すように視線を泳がせていた。沈黙を破ったのは、敬太さんだ。

「すみません、今は一人になりたいです」

 私はその一言に弾かれるように立ち上がり、借りていたパーカーを敬太さんに押し付ける。「すみませんでした」と、何に対してかすらわからない謝罪をひとつ投げ捨てて、駅に向かって走った。頭の中が混乱したままだったが、何かを洗い流そうとするように涙が止まらなくなった。

 ……そのあとの、この顔だ。クレンジングオイルを手のひらで伸ばし、頬や額に伸ばしていくと、どろどろと、分厚く塗りたくった武装が溶けていく。

 敬太さんの言葉一つひとつが、胸元、鎖骨下、喉の奥、下腹部、あらゆるところに刺さって抜けない。
 僕が僕として生きているだけなのに。たまたま同性を好きになるように生まれてきただけなのに。肩身の狭い思いをしなければならない。なぜ隠さなきゃいけないのか。どうしてこんなに苦しいのか。
 痛い。やめて。吐いた息が震える。鏡の中の私はひどく醜い。相手の苦しみを想像することすらできない、女の顔。消えてしまいたい。
 何度お湯を顔に叩きつけても、すべてを落としきれた気がしない。敬太さんの言葉を思い起こすたびに、どろどろと肌が溶けてべたつく気がする。何度も、何度も、顔を洗い続けた。排水口がゴボゴボと音を立てている。


  部屋着に着替えてベッドに寝転んだあと、ずいぶんと時間が経っていた。ベッドサイドに置いたデジタル時計の数字を確かめて、枕に顔を埋める。特に何をしていたわけでもない。ただ、波のように寄せては返す痛みを抱きながら、腕に爪を立てたり、唇を噛んだりしていただけだ。敬太さんの言葉が削れて、私の中で丸くなってくれるのを、ただ待っていた。

 その間、覚えてしまうくらい堂々巡りした思考の道順がある。
 まず、「そんなの、わかるわけないじゃん」という自己防衛。私は同性愛者じゃない。敬太さんの苦しさなんて、言ってもらわなければ理解できるわけがない。
 しかし、そうやって自分の無知や無神経を肯定しようとすればするほど、自己否定という逆刃となって、その思考が私の内面を抉る。「じゃあ、私の苦しさを真樹はわかっただろうか」と。結婚したのに、子どもを、家族を望むことが許されない。社会の、周囲の、親の期待に応えられない。愛されていない。愛されていれば自然とできることが、できない。女にはタイムリミットがあるのに。老いれば二度と手に入らない幸せがあるのに。そうやって私が苦しんでいたことを、真樹は知っていただろうか。「そんなの、わかるわけないじゃん」。だって真樹は女じゃない、、、、

 それと同時に「敬太さんだって、女じゃないからわからない」という、別の切り口の自己防衛が暴れ出す。敬太さんが吐き出した苦しみと同じように、私にだって女の、女だけの苦しみがあったんだ。私の心が、今まで味わってきた乾いた叫びを押し出す。
 美しくなければ価値がないと叩き込まれ、若いうちに女としての役割を果たさなければと急かされて、友とさえ嫉妬や羨望といった感情を静かにぶつけ合い、はやくまっとうな男性と生活の基盤を作らなければと、手を伸ばし続けた、終わることのない渇きと焦り。女になんて生まれたくなかった。選べるならば。

 何度も、何度も、自分を守ろうとしては傷つけて、疲れ切った心は、やがてぽっかりと空いた穴にたどりつく。それでもなお、私が敬太さんに言った「男だったらよかった」という言葉は、なんてひどかったのだろう、という事実。変えようのない事実。痛みが走る。
 数えきれないほど問答を繰り返して、敬太さんの言葉より先に、私の心のほうが輪郭を失っていった。やがて痛みは鈍い痺れになってくる。なんとかスマートフォンを手に取り、敬太さんとのメッセージの画面を開く。「ごめんなさい」につながるさまざまな言い訳を並べてみては、消去する。

 そういえば真樹は、「ごめんなさい」を言わせてくれない人だったな。私はきっと何度も、真樹を傷つけたり、怒らせたりしたと思う。けれど、真樹はそれを顔には出さなかった。いや、顔に出ていることがあっても、頑なに隠そうとしていた。彼が正直に感情を吐き出してくれないから、私も「ごめんなさい」と言えなかった。
 真樹の影を帯びた横顔を思い出していると、敬太さんの真正面の顔が重なる。彼は歪んだ表情を隠すことなく、真っ向から私に苦しさをぶつけた。出会ってから二度目、同じ男を愛したという共通点があるだけの、言ってしまえばどうでもいい女に。
 それほどに、私は彼にひどいことを言ったのだ。我慢できないほどの言葉を投げつけたのだ。敬太さんだって、屈辱的だっただろう。自分の奥底に隠してきたものを、引きずり出されるのは。「ごめんなさい」の一言で、済まされることではない。私は敬太さんとのメッセージ画面を閉じ、今までのやりとりの一覧を過去へとさかのぼっていく。『お義母さん』という名前で登録されたトーク画面は、まだ残っていた。

 しばらく考えたあと、指を滑らせる。できるかぎり失礼がないよう、電話で相談したいことがあるという趣旨のメッセージを作って送ると、間もなく着信が入った。予想以上に早い反応に心臓が跳ねるが、深呼吸をひとつして、応答ボタンを押す。

「夜分遅くにすみません、ご連絡ありがとうございます」
〈佳乃子ちゃん、大丈夫、気にしないで。それよりどうしたの、何かあったの〉
 まるで実母のように心配する声。いや、私の実母はこんなふうに私を心配しない。真樹の母親は、私の母親以上に母親らしかった。その優しさに今まで何度救われたかわからないのに、私はまだ、彼女を頼りきれてはいない。そこには一種の、罪悪感もある。私が真樹にとって愛される女になりきれなかったから、彼女にとって大切な息子の人生を狂わせたという罪悪感。離婚という欠落を作ってしまった罪。唾をひとつ飲み込んでから、口を開く。

「……真樹さんの、エンディングノートのことについて、訊きたかったんです」
 スマートフォン越しに、沈黙が流れる。私は不安を押し殺しながら、言葉を続ける。
「私はもう家族ではない立場なのに、真樹さんの個人的なことについて訊いてしまって、申し訳ありません。ただ、どうしても気になっていたんです。真樹さんが最後に、どんなことを想っていたのか、誰にその想いを託したのか……」
〈お姉ちゃん。真樹の姉の、葉月よ〉

 ……真樹の、姉。私の脳裏に瞬時に浮かんだのは、初めて会ったとき、マスクを外す瞬間の彼女だった。


 振り返れば、真樹が両親よりも先に私を紹介した家族は、真樹の姉だった。まだ結婚について本格的に動き出す前、けれど互いを最良のパートナーだと確かめあえた頃、「姉ちゃんと軽く食事でもどうかな」と、真樹が提案したのを覚えている。私はただ、嬉しかった。家族に会わせてもいい相手として認められたんだ、と受け取ったからだ。
 コロナ禍で、外出時は誰もがマスクをしていた時期だったと思う。駅で待ち合わせしたとき、真樹と目元がそっくりだから、遠目でもすぐにその人だとわかった。到着前、年が離れていること、幼い頃から気が合う姉弟だったことなどを、実家で暮らしていた頃のエピソードと共に真樹が話してくれた。その話をする真樹の表情は、とても柔らかかった。

 合流してから店に着くまでの間、三人で何を話したのかはほとんど覚えていない。ただ、初めて家族に会うからと緊張していた私が、すぐ安心して、珍しく身構えずに雑談をできたことだけは覚えている。そうさせてくれたのは、紛れもなく、姉の葉月さんだった。
 真樹は彼女と話すとき、私に向けるのとは異なる笑顔を咲かせていた。無邪気な子どものような、あどけない表情を。そこに女としての嫉妬心は当然ない。けれど、家族愛に対する羨ましさが、心を引っ掻いた。これが信頼できるきょうだいの間に流れる空気なのか、と。
 私は実家で暮らしていた頃、兄の存在を感じるたびに肩に力を入れていたが、真樹は葉月さんと話せば話すほど、全身の力が抜けていっているようだ。わずかな時間、三人で並んで歩きながら話しただけで、真樹とお義姉さんの関係の深さを推し量ることができた。

 強烈に記憶しているのは、店の席に着いて、注文が一通り終わったあと、おもむろに彼女がマスクを外した瞬間だ。目元の印象から、真樹と瓜二つの女性を想像していた。けれど、なんとも言えない違和感が走る。
 はじめは何がおかしいのかがわからなかった。真樹と葉月さんは、マスクを外したあとも何一つ変わらないトーンで会話を続けている。私は適当な相槌を打ちながら、どうしても彼女の顔から目が離せない。やがて、違和感が言語化できてくる。上唇が極端に薄く、ねじれている。さらに、右の鼻筋が平たい。左右の非対称性、歪みが彼女の顔面の印象を決定づけていた。

 食事が終わって彼女と手を降って別れたあと、しばらくは楽しい時間の振り返りを二人でしていたが、結局我慢しきれず、私は質問したのだ。
「葉月さんの、あれ、怪我……?」
 自分のふっくらと濡れた上唇を指しながら、私は真樹を上目遣いで見つめる。真樹の表情がふと曇る。訊いてはいけなかっただろうか。不安になったが、真樹は変わらない声色で答えた。
「口唇口蓋裂っていう先天性疾患。小さい頃に手術したんだけど、跡が残っちゃったんだ」
 私はその場でスマートフォンを出し、聞き覚えのない病名を入力して検索した。症例の画像を見て、口元の歪みに合点がいく。
「こういう病気があるんだね……知らなかった。子どもの頃、いじめられたりしなかった? 大変だったんじゃないかな……こういうの、女子って特に叩くから」
 真樹に話しかけたというよりは、頭の中に巡った言葉をそのまま口にしただけだった。スマートフォンの画面を見ながら、ひとりごとのように。あのときは何ひとつ意識していなくて、そのあとどういう話をしたのかも覚えていない。真樹はあのとき、なんて答えたんだっけ……?


〈……ちゃん、佳乃子ちゃん?〉
 真樹の母親の声で、現実に引き戻される。
「ご、ごめんなさい、電波が弱くて……」
〈あら、大丈夫かしら……今は、聞こえてる?〉
「はい、聞こえます」
〈エンディングノートは、真樹から葉月に託されたものだから、一通り手続きが終わったあと、葉月に返したの。だから、もしも内容について訊きたいなら、葉月に直接訊いてもらったほうがいいかもしれないわ。あの子、真樹と……最後まで、よく連絡を取り合っていたみたいだから〉
 私はその言葉を反芻する。エンディングノートを誰が託されたのかは、わかった。明らかになってしまえば、どうしてはじめから思い至らなかったのだろう、と不思議な気持ちになる。真樹があれほど慕っていた姉だ。自然なことだった。

 その可能性に考えが至らないくらい、私の認知は歪んでいたのだ。「真樹に愛されなかった、捨てられた私」という自認が膨張し続け、耐えられなかった。だから、真樹に選ばれた相手がエンディングノートを託されたのだという物語を作ることで、都合のいい矛先を手に入れようとしたのだろう。自分自身の非に向き合うよりも、架空の誰かを妬んでいたほうがよっぽど楽だったから。
 敬太さんに歪んだ想いをぶつけたのも、そうやって心が逃げて招いた過ちで……。ああ、なんて自分勝手で傲慢なのだろう。照明もつけず暗闇に沈んだ天井に視線を向けて、なんとか涙がこぼれないよう、力を込めて目を見開く。私の沈黙を、スマートフォン越しの丸く優しい声が包み込む。

〈……佳乃子ちゃんとの離婚が決まったあと、私もお父さんも、実は真樹と前ほどは話せていなかったの。これは佳乃子ちゃんが悪いという意味じゃないからね、自分を責めないでね。あのとき強く反対してしまったこと、きっと真樹は気にしていたから、真樹が自分で相談してくるとき以外は、むやみに私たちの意見を……私たちが望むことを押し付けないようにしようねって、お父さんと話し合って。それが、まさかこんなに早く、話せなくなるなんてね……想像もしていなかったから……〉
 終始穏やかな声だったけれど、最後は震えていた。きっと今、彼女には彼女の、母親としての後悔の波が押し寄せているのだろう。私はその痛みを想像して、目を伏せた。

 私はきっと、真樹と向き合いきれていなかった。でも、その過去をやり直すことはできない。だから今、やるべきことをしなければ。この瞬間の行動から、変えなければ。
 私の心の中には、今もなお、震える声で苦しみを訴え続ける敬太さんがいる。敬太さんは、真樹が愛した敬太さんは、今この瞬間も、苦しみながら生きている。真樹が生きていたら、きっと敬太さんを救おうとしただろう。だったら、私は。

「……真樹のお姉さん……葉月さんの連絡先を、教えてもらえませんか」


 葉月さんと連絡を取り合って、日程を合わせられたのは約二週間後の月曜日だった。土日に休みが取れない仕事で……という申し訳なさそうなメッセージを見て、彼女が飲食店の厨房を任されていると、年末年始に真樹の実家を訪ねたときに聞いたことを思い出す。
 人が休んでいるときほど忙しい働き者だからね、しょうがないよと、真樹と両親は肩をすくめて笑っていた。そして彼女がふだん座っているはずの食卓の空席を、私に埋めるよう勧めてくれたのだった。
 私は葉月さんが休みを取れるという月曜、ためらいなく有給休暇を取得し、彼女の住まいを訪ねた。三軒茶屋駅から続く商店街を抜け、入り組んだ路地を抜けた先にある、築年数が経っていそうな佇まいの小ぶりなマンションである。
 自宅を指定された理由は、玄関のドアが開いた瞬間、理解する。お腹がすぐさま反応する、複雑に絡み合う美味しそうな香りが鼻をくすぐったからだ。

「どうぞどうぞ、あがって」
 満面の笑みで迎えてくれた葉月さんは、ドアを開けたあとはすぐキッチンに戻っていく。

「お邪魔します」と声をかけながら玄関口に靴を並べ、用意されていたスリッパに足を通す。柔らかくあたたかな感触が、足先を緩めた。ここは心地のよさを隅々まで考えている人の空間だと、一歩入った瞬間から感じる。
 こぢんまりとした部屋には、びっしりと本が詰まった本棚と、小さな丸いテーブル、えんじ色の布が張られた丸椅子二脚が、はじめからこの部屋に来るためにデザインされたかのように、美しく収まっている。テーブルには北欧風の皿がいくつも並んでおり、焼き上がった肉が湯気を立てていた。

「美味しそう……」
 思わずこぼれた本音に、キッチンからスープを運んできた葉月さんが目を細める。
「そりゃあ美味しいよ、本職だから」
「すみません、お休みの日まで料理をさせてしまって」
「いいえ、私がつくりたかったの」
 洗面所で手を洗ったあと、促されるままに丸椅子に座れば、そこは私たち二人のためにオープンした特別なカフェのようだった。
「さ、召し上がれ」
「……いただきます」
 スープを一口飲むと、優しい野菜の甘みが口の中いっぱいに広がった。
「美味しい!」
「よかった」
 葉月さんは私の反応に満足そうに頷き、食べ始める。私はテーブルに並んでいる品々を少しずつ口に運びながら、そのたびに感動の声をあげた。頬がゆるみ、フォークを持つ手が止まらない。

「私、このサラダも、鶏肉も、味付け、全部、大好きで……」
「知ってる。真樹から聞いてたからね。佳乃子ちゃんが好きな食べ物」
 口に運ぼうとしていたフォークをはたと止めて、私は葉月さんを見つめる。
「真樹から料理教えてって言われて、ときどきここで秘密の特訓してたの。佳乃子ちゃんが好きな食材を使うレシピで」

 一緒に暮らしていた頃、真樹は料理をよく作ってくれていた。そのどれもが美味しいから、もともと料理が上手い人なのだと思っていた。彼が立っていると、狭いキッチンがさらに狭く見えた。大きな背を丸めて野菜を刻む姿を思い出して、視界が歪む。涙が頬を伝ってしまった。

「さみしいね。私もさみしいよ」
 葉月さんの言葉に、ただこくりと頷いて、頬が膨らむほど大きな鶏肉を口に放り込む。そうして、しばらく黙々と、私たちは食事に向き合った。葉月さんは沈黙さえも心地よく過ごせる人だ。真樹が心を許した姉だということを、改めて感じる。口に運ぶ味わいのところどころに、真樹が作ってくれた料理の記憶の断片を見つけては、涙を抑えた。
 葉月さんは食べながら、時折、真樹の思い出話をしてくれた。

「私の口、変わった形、しているでしょ」
 そう切り出されて、過去の自分がじろじろと彼女の顔を見たときのことを詫びたい気持ちに駆られる。葉月さんはそれを察してか、まだ私が口にしていない言葉を先に払うように、手をひらひらと振って、構わず話を続けた。
「この口のこと、私よりもはるかに真樹のほうが気にかけていたのよ。学校で悪口言われていないかとか、容姿のせいで人生の選択肢が狭まっていないかとか……。それを私に直接言うわけじゃないんだけど、俺の姉ちゃんは最高なんだって、言い続けてて。優しい弟、ほんと」

 そこに真樹がいるかのように、葉月さんは笑った。私は彼女の唇が柔らかな曲線を描く様子を、見つめる。歪んでなんか、いない。彼女は美しい。それに気づけなかった過去の自分がいることも、そのまま痛みと共に受け止める。葉月さんは一息ついて、言葉を続けた。

「……おかげで、私はひねくれずにいられたし、誰かに悪く言われたってなーんにも、ほんとうに気にならなかった。『私、自分で幸せになれるから大丈夫だよ、心配すんな』って言ったの、いつだったかな。もう、私のことはいいからって。それからしばらくして、ずっと一緒に居たい人、彼女ができたんだって、ちょっと顔赤くして教えてくれたの。佳乃子ちゃんのこと。ようやく姉離れしてくれたわ、ってホッとしたの覚えてる」
 不思議な気持ちだった。こんなにも素敵な葉月さんを守ってきた真樹が、次に守る相手として私を選んでくれた。そんなふうに聞こえたからだ。葉月さんが語る真樹は、とても私を大切にしているように感じられた。

 一通り皿の上がきれいになってきた頃、おもむろに葉月さんは立ち上がり、本棚の端から一冊、薄いノートを取り出す。そして私がフォークを置いたタイミングに合わせて、それを私に差し出した。

「どうぞ」

 私は壊れ物に触れるように、そのノートを受け取る。どこの書店でも売っていそうな、グレーの表紙の平凡な罫線ノートだった。表紙をめくると、懐かしい文字が綴られていた。丸みのある、右肩上がりの文字。ボールペンで書かれている。

 ――もしも俺の意識がなくなったり、死んだりしたときに、伝えておきたいことをまとめました。

 その一文から始まるページを指でなぞると、次のページに書かれたぶんまで、凹凸が伝わってくる。真樹は強い筆跡の人だった。何かを郵送するときに送り状を書くと、カーボン紙の控えにくっきりと文字が残る。そういう些細な記憶が、触覚を通じて思い起こされ、指先が震える。
 次のページには、緊急時に連絡してほしい人の名前と連絡先が記されていた。敬太さんの名前と私の名前は、はじめに隣同士、並んでいた。他にも数人の名前が並んでいたが、横並びになっているのは、敬太さんと私だけだった。
 私がいつかこのページを見たとき、「私のほうが後ろってどういうこと。この敬太って人は誰?」と悔しがるのを、真樹は想像したのだろうか。実際、もしも敬太さんと出会っていなければ、私は敬太さんを何者だと受け取ったのだろうか。……真樹のパートナーだと、本人の説明なく理解できただろうか。

 ――僕らはイレギュラーな存在なんだよ。

 心の中の敬太さんが、目を真っ赤にして私に叫び、訴えている。こうして名前を並べられて初めて、私と敬太さんの違いを、知る。私は一時的であれ真樹の妻、家族だった女だ。たとえ私を知らない人がこのノートを見たとして、誰も私のことを真樹の友人などとは思わないだろう。けれど、敬太さんは、どうだろう。
 真樹がここに、一番自分の危機を伝えたい相手として名前を記しても、二人の関係性は確定しない。過去の私なら、親友だと思うかもしれない。
 自分自身が放った「男ならよかった」という言葉が、敬太さんが叫んだどの言葉よりも深く、心の芯に喰い込んでいく。私は取り返しのつかないことを、したのだ。

「そこに書いてある敬太くんっていう人は、真樹のパートナーだった子」

 気がつけば、葉月さんはキッチンに立っている。お湯を沸かすケトルの音が、柔らかく響いてきた。私が敬太さんとすでに会っていることを、葉月さんは知らない。それを明かす必要も感じなかった。それよりも私は、その先に、敬太さんに代わって訊きたいことがあった。

「……敬太さん、のことを、真樹さんは、ご家族に……」
「うん、教えてくれた。わざわざ家族全員を集めてね」
 葉月さんはそのまま、当時の話をする。コーヒーを淹れる香りに乗って、ありありとその様子が目に浮かんだ。

 深刻な表情をして、しばらく真樹は何も話さなかったという。けれど一度話し始めてからは、まっすぐ家族の目を見つめた。自分にとって誰かを想うことと、その誰かの性別は全く関係がないということ。そして、敬太さんという大切なパートナーができたこと。決してやましいことなどないのだと自分に言い聞かせるように、真樹は一つひとつの言葉を置くように、語った。
 一連の話を聞いて、父親は少なからず動揺したらしい。それは、相手が男性だったからというよりは、結婚が浮ついた決断だったのだと早とちりをしたからだった。それを父親が口にすると、真樹は今まで見たことのない剣幕でそれを否定した。佳乃子のことは心から大切に想っていた、と。

 葉月さんはそこまで振り返ってから、言葉を止める。しばしの、空白。まだ彼女の視線は、過去を追っているように見える。私は先を促すように葉月さんを見つめたが、葉月さんはそこで話を閉じた。

「……佳乃子ちゃんが、この話をどう受け止めるかはわからない。けれど、私たちは真樹から、そう聞いたよ」
 葉月さんは食器を片付けたテーブルに、ざらりとした手触りのコーヒーカップをふたつ置いて、自身も丸椅子に座る。私は頷いて、もう一度ノートに視線を落とし、ページをめくる。

 ――長谷部敬太は、俺のパートナーです。家族と同じくらい大切な存在です。けれど、法律上は家族になれません。もしものことがあったとき、どうか彼に必ず連絡してください。

 より強く、凸凹が激しく残ったページだった。切実な想いが、そこには刻まれていた。敬太さんの中で渦巻く葛藤や悲しみを、一生懸命に想像して、真樹はこのページを綴ったのだろう。

 敬太さんのことを家族に打ち明けるとき、真樹はどれほどの覚悟をしただろうか。家族から受け入れられるか、選択した道の先で敬太さんを傷つけないか、二人にとって何が一番いい形なのか。二人でゆっくり考えていきたかったのだろう。けれど、お互い納得のいく答えにたどりつくまでには、途方もない時間がかかるかもしれない。だからこうしてノートを書いておかなければと考えるほどに、真樹は敬太さんのことを、愛していたのだろう。

 そのままページをめくっていくと、老後に敬太さんが一人遺された場合のこと、自分の資産が余っていた場合のことなど、思いつく限りのパターンの対応が書かれていた。そうか。遠い未来のことまで考えたら、もしかしたら自分に理解ある家族が全員先立っているかもしれない。そのとき自分を弔う第三者に敬太さんの存在を伝えるという機能も、このノートは担っていたのだ。
 書いているうちに、想像が止まらなくなったのだろうか、敬太さんの老後が一人さみしいものにならないよう、未来の敬太さんに宛てた手紙のような言葉まで綴られている。そうして、はたと気づいたように、(このページごと切って渡してもらったほうが、早いかもしれません)といった注釈が、余白に走り書きされていたりする。

 気づけば、私の頬には涙が伝っていた。これは、エンディングノートじゃない。ラブレターだ。
「……苦しい? 読まなければよかった?」
 葉月さんが、そっと私に問う。私は首を横に振った。
「読めてよかった。……私、真樹さんのことが、ほんとうに大好きです」
 あたたかく、優しい人だった。大切な人が幸せに生きることを、心から願っている人だった。だから私は、真樹が願った未来を継ぐ。それが今、私にできることだから。

「真樹を愛してくれて、ありがとう」
 葉月さんの言葉を、私はぐしゃぐしゃの笑顔で受け止めた。泣きじゃくって乱れた呼吸を一度落ち着かせて、葉月さんに問いかける。

「……このノート、敬太さんには……」
「最後のページ、読んでみて」
 促されるまま、ぱらぱらと最後のページをめくると、そこにはこう書かれていた。

 ――このノートは、俺の家族に託します。このノートが必要になったとき、敬太がここに書かれていることを望んでいるかどうか、今の俺には、わかりません。このノートを託した家族の判断に、委ねます。

「……私たち、結局一度も敬太くんと会うことはできなかったの。お母さんは『そのうち会わせてよね』って笑ってたんだけどさ。私だってね、真樹にちょくちょく言ってたんだよ。両親に会わせるハードルが高いなら、まずは私からでもって。それでも真樹は、慎重だった。……きっと、敬太さんと自分の家族とのベストな関係を模索している最中に、真樹は死んじゃったんだと思う。だから、このノートのことを安易に伝えるべきなのかどうか、私も慎重になってる。記帳で葬式に本人が来てくれたことはわかってるんだけど、彼から私たちに声をかけてくることはなかったから、顔も知らないし。難しいよね……まだ、考えてる」

 葉月さんは、私が閉じたエンディングノートをそっと受け取り、表紙をなでた。私はコーヒーを一口飲んでから、もうひとつ質問をする。
「敬太さんのこと、皆さんがどう想っていたか……もっと詳しく、できるだけすべて、教えてください」


 敬太さんと会う約束をしたのは、それから一週間と少しが過ぎた日曜日だ。もう会ってもらえないことも覚悟していたけれど、メッセージは意外とすぐ返ってきた。淡々としたやりとりからは、敬太さんが今、どういう心情なのかは読みきれない。取ってつけたようなメッセージでの謝罪はしなかった。今までの私は「ごめんなさい」と打ち込むことで、自分が楽になりたかっただけだと気づいたからだ。

 待ち合わせ場所には、代々木にあるノルウェーをコンセプトとしたカフェを選んだ。葉月さんの部屋に雰囲気が似ていたからだ。話がどんな流れになったとしても、あの日、葉月さんから受け取ったものを、敬太さんに渡す。不安になったとき、空間から力をもらえるだろうと思った。
 スカイツリーの前で待ち合わせたとき、敬太さんが自分よりも早く駅に到着していたことを思い起こし、いつもよりも早めに準備をして出発した。それでも、カフェの前に着いて間もなく、敬太さんは現れた。

「早いですね」
 敬太さんからの第一声は、それだった。表情からは、特に怒りや不快感は見られない。むしろ驚いているような、困惑しているような表情だ。私は一人で待つ時間で気持ちを落ち着けようと思っていたのに……と、思わず唇を尖らせてしまう。

「待っている間に、深呼吸しようと思ってたのに」
 直後に敬太さんがひとりごとのようにつぶやいたのは、私の心の中をそのまま読み上げたような一言だった。私は目を丸くして笑う。
「え、私も!」
「そうなんですか……それで早く会っちゃったら、お互い意味ないですね」
 敬太さんも、苦笑だけれどゆるく笑顔を浮かべてくれて、緊張がほぐれる。
「不安なときほど、早く待ち合わせ場所に行きます」
 私が言い訳のように言うと、敬太さんは何かを思い出すように遠くを見た。その視線が何を指すのか想像できずに私が首をかしげると、敬太さんは少し間を置いて言った。

「……そういえば真樹と初めて夕飯を食べに行ったとき、待たされたっけ……って思い出しちゃって」
「初めてで?」
「そう。真樹って、佳乃子さんと僕みたいな感覚ないんだろうなって思いましたよ。初対面でも遅刻できるんだから」
「たしかに。無礼ですけどね」
「ね。お詫びに奢るって言うから、いっぱい注文してやったんです」
 私はくすくすと笑う。彼から真樹の知らない表情を聞かされても、私の心が波立つことはなかった。席に着いて注文をして、二人の間にコーヒーが並ぶまでの間、敬太さんはそんなふうに、こともなげに会話をつないでくれていた。それが彼なりの気遣いだと気づいたとき、やっぱりこの人は、真樹とは違うタイプだけれど、同じように優しい人なのだろうと思う。

 互いに一口コーヒーをすすったあと、私はひとつ呼吸を整えて、頭を下げた。
「この前は、ほんとうに、ごめんなさい」
 そうしてしばらく頭を下げ続けている間、アコースティックギターのスローなBGMが、二人の間の空気を和やかなものにする。

「気にしてないですよ、顔を上げてください」
 その声は、少し呆れているようにも聞こえた。私は姿勢を直し、彼の目の奥を見つめる。そこには、あの日の怒りのような激しい感情は見られなかった。敬太さんは革張りのソファ席に背を預け、窓の外に視線をやった。
「あのときは、僕も変な感じで怒っちゃってすみませんでした。あんなこと言われたって困るだけ……」
「いいえ」
 私が強く否定すると、敬太さんはそこで言葉を止め、口を小さく開いたまま私を見つめている。私は背筋を正して、言葉を続けた。

「はっきり言ってくれたから気づけたことが、たくさんあったんです。私は……敬太さんと真樹が、どんな環境に置かれているのか、何もわかっていなかった。想像すらできていませんでした」
 言葉にすれば、やはり胸が締め付けられるように痛む。敬太さんは何も言わない。私はもう一度、頭を下げる。

「エンディングノートの持ち主は、真樹のお姉さんでした。誤解したままで、敬太さんにひどいことまで言って……ほんとうにごめんなさい」
「……お姉さん。ああ、真樹と仲良かった、あの」
 敬太さんは、納得、という口調で言ってから、いまだ頭を下げている私の肩をぽんぽんと、軽く叩いた。
「もう、大丈夫です。ほんとうに、気にしてない……いや、気にしてないって言ったら嘘になるけど」
 私が頭を上げて、その先を促す視線を送ると、しばらく敬太さんは言葉を探しているような間を置いてから、ゆっくりと続けた。

「正直に言えば、最初は理解できませんでした。当たり前のように好きな人と交際して、誰の目も気にせず関係を深めていくことができるうえに、結婚という選択肢まであったのに、いったい何が不満なんだろう……って。強欲な人、って思った。すみません。でも……それでも歪んでしまうほどの、佳乃子さんの立場の辛さを想像するくらいには、期間が空いていたから」

 敬太さんにもまた、敬太さんの日々があったのだろう。私は頷いてから、その先を自分が話したかったことに代えて、引き継ぐ。

「私も、敬太さんの立場の辛さを、想像していました。何ができるだろうって、考えたんです。ほんとうにちいさなことかもしれないけれど、私がお姉さんに会って、聞いた話を、させてください」

 私はできるかぎり、脚色も誇張もしないよう気をつけながら、葉月さんの家で聞いた話を語り始める。心の中で私に何度も苦しみを叫び続けていた、河川敷に居た記憶の中の敬太さん。私が愛する真樹が、愛した人。もう、私はあなたと張り合ったり、あなたを妬んだりしない。真樹がまっすぐ願い続けたように、あなたの幸せを願う。


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