私が愛した彼、僕を愛した彼│第六章
第六章
佳乃子さんの言葉が信じられなかった。
隅田川で佳乃子さんが口にした、エンディングノートの存在。それは確かに真樹が残したもので、受け取っていたのは真樹の姉だという。
そしてそこには、僕の名前がしっかり書かれていた。ただの友人の一人ではなく、大切なパートナーとして。
男同士ではどうしたって法律婚ができない。だからこそ、いざという時にパートナーである証明をするのが難しくなってしまう。どんな不利益を被ったとしても、抗う術がほとんどない。
真樹は、そんな僕のことを守ろうとしてくれた。エンディングノートに名前を残すことによって、僕の存在を守ろうとしてくれたのだ。
葬儀の日、僕は自分がただの友人と見なされてしまうことが悔しかった。真樹との愛情を否定されたようで、虚しくなった。でも、ああして葬儀に参列できたのは、真樹が僕の名前をエンディングノートに書き残してくれたからだ。もしもノートがなかったら――僕は真樹が死んだことすら知らないまま、急に連絡がつかなくなってしまったパートナーの存在に打ちひしがれるだけだったかもしれない。想像するだけで全身が粟立つ。
同時に一つの事実に思い至る。
「そのノートって……、もしかして、あの、真樹のご両親も、読んだ、んですか……」
佳乃子さんは優しく微笑むと、頷く。
「もちろん」
「じゃあ、ご両親は――」
「というかね、真樹はエンディングノートを残す前に、ご家族にカミングアウトしていたの。自分は今、一人の男性とお付き合いをしていて、大切に思っているんだ、って」
そんなこと、まったく知らなかった。
コーヒーカップを持つ手が震える。コーヒーの水面がかすかに揺れ、カップをソーサーに戻すとき、必要以上に音が鳴ってしまった。
「真樹のご家族は、ちゃんとそれを受け止めたそうです。真樹の母親なんて、『真樹が選んだ人なら、別にどんな人だって構わない。その人が男だって、真樹が幸せになれるんなら、それでいいじゃない。ただし、そのうち会わせてよね』って嬉しそうに言っていたみたい。ただ、実際に家族と敬太さんを会わせることには慎重だったって。真樹なりに気を使って、タイミングを見計らっていたのかもしれない」
真樹の両親は、僕と真樹の関係を知っていた。それだけではなく、知った上で受け入れてくれていた。
信じられない――。
煙草が吸いたい、と思った。真樹があまり好まないので自然と吸わなくなり、真樹がいなくなってからも禁煙状態が続いていた。でも、今だけはなるべく重たい煙を肺一杯に入れて、軽い目眩のようなもので思考回路を鈍らせたかった。
「そんなことあるはずない、って思いましたか……?」
戸惑っている僕を気遣うようにして、佳乃子さんは言った。
「あ、当たり前じゃないですか。真樹はどうして……、だって、そんなの……」
「そんなの?」
「誰も……、誰も、幸せにならないじゃないですか」
「そんなことないです」
「そんなことありますよ! 自分の息子が男と付き合ってるって知って、喜ぶ親がいますか? 真樹は佳乃子さんと別れて、おかしくなったんだ。そう思ってもおかしくないですよ」
「どうして、どうしてそこまで自分のことを否定するの?」
「どうしてって、そんなの決まってるじゃないですか。だって……」
思わず涙が零れそうになり、両目をギュッと瞑る。瞼の裏に、これまで自分を見下してきた人々の顔が浮かんだ。僕のセクシュアリティをしつこく探ろうとしてきた人、気持ち悪いと蔑むような目線を向けてきた人、オネエ言葉で喋ってみてよと茶化してきた人。忘れようと思っても忘れられなかった顔が並び、僕を見ている。みんな、僕を見て、嘲笑している。
と、手のひらに温かさを感じた。目を開くと、佳乃子さんの両手が僕の右手を優しく包み込んでくれていた。その手はかすかに震えている。
佳乃子さんにこうして触れるのは二度目だ。でも、一度目に触れた時――あの握手を交わした時には分からなかった温かさが、今、僕の手を包んでいた。
目線を上げると、佳乃子さんと目が合う。佳乃子さんの瞳は濡れていて、苦しそうだった。
「気づいてますか? 敬太さんが自分のことを否定するたび、それはつまり、一緒の時間を過ごしてきた真樹を否定することになっているって」
「そんな……」
「真樹の思いまで否定しないでください。そんなことしたら、真樹が可哀想すぎる」
瞬間、真樹の笑顔を思い出した。
一緒にいるとき、真樹はいつも笑っていた。綺麗に並ぶ歯を見せながら、大きな声で笑う真樹のことが大好きだった。たとえば仕事のミスで落ち込んでいるようなときでも、真樹の笑顔を前にすると、なんだか大丈夫なような心持ちになったものだ。どんな未来が待っているかはわからなかったけれど、この人とだったら不確かな未来の中へ踏み出していけると思った。
僕にとって真樹は、未来そのものだった。
だから、そんな真樹が死んでしまって、僕の人生からは未来が失われたのだと思った。もうなにもない。たった一人で代わり映えのない日々を生き、そうして死んでいくのだと。
でも、そうじゃない。真樹は消えてしまったけれど、僕の中には真樹の欠片がたくさん残っているじゃないか。それらが、また別の未来を照らしてくれるかもしれないじゃないか。
「佳乃子さん」
口にした名前は、思いがけず強く響いた。佳乃子さんは少々驚いた表情をして、僕を包んでいた両手を引っ込める。
「真樹のご両親の連絡先、教えてもらえませんか?」
「……え?」
「今更ですけど、ちゃんと挨拶したいんです。僕が真樹のパートナーでしたって」
しばし固まった後、佳乃子さんは目を細めながら何度も頷いた。
二週間後の土曜日、朝から小雨が降りしきる中、僕は小田急線の経堂駅へ向かった。
到着すると、興味本位で周囲を見渡す。駅からすぐ商店街へとつながっているようで、何組もの親子連れが傘を差しながらも楽しそうに行き交っていた。
湿度が高いことも相まって、額に汗が染み出てくるように滲む。この数日で気温は急激に上昇し、雨の日であってもは短パンにTシャツといったラフな格好で過ごすのがうってつけになった。
でも、今日はそうもいかない。薄手のスラックスにシャツという綺麗目な格好でまとめた。カバンには新宿駅で買った手土産も入っている。
二週間前、僕は真樹の両親に連絡を取った。佳乃子さんから連絡先を教えてもらうと、その晩、躊躇うことなく電話をかけた。
正直、まったく怖くなかったわけではない。真樹からのカミングアウトを受け入れることと、そのパートナーを受け入れることとは異なる。佳乃子さんの話によれば、「いつか会わせてよね」などと言っていたらしいけれど、それでもそのいつかが現実になってしまったら、やはり狼狽えてしまうのではないか。
でも、きっと大丈夫だと思えた。だって、相手はあの真樹の両親なんだから。どこまでも健やかで、素直で、真っ直ぐな真樹を育て上げた人たちなんだから、きっと大丈夫。
コール音が鳴る間、何度も自分に言い聞かせた。いや、その間、真樹が隣にいてくれたような気がする。
――大丈夫だから、俺の両親を信じて。
そんな風に言いながら、真樹の大きな手が、僕の背中を何度も擦る。
やがて「もしもし」と女性の声がした。きっと真樹の母親だ。僕がゆっくり自己紹介すると、息を呑むような音が聞こえた。そうして僕は、真樹の両親と実際に会う約束を取り付けた。
商店街を真っ直ぐ抜けるとやがて住宅街が見えてくる。細長い道を十分ほど歩き、路地の突き当りに小さな一軒家を認める。表札には〈篠山〉とある。ここが、真樹の生まれ育った家だ。
さすがに築年数が経っているのか、白い外壁はところどころくすんでいて、門扉には錆も浮いていた。でも、こぢんまりとした庭は手入れが行き届いていて、雨に濡れたヒマワリやサルビアが色鮮やかに咲いていた。強い生命力を感じながら、敷地内に一歩足を踏み入れる。
念のため全身をチェックし、変なところがないことに安心すると、僕はインターホンをゆっくり押した。扉の向こうでくぐもった呼び鈴がしたかと思うと、控え目な足音が近づいてくる。
やがて、ドアが押し開けられる。立っていたのは、あの葬儀の日、確かに親族席に座っていた女性だった。今日は品の良いネイビーのツーピースに身を包んでいる。化粧っ気はないものの、それでも丁寧にブローされている髪の毛はとても艷やかだった。
「敬太さん、ですよね?」
「あ、はい。押しかけてしまってすみません」
「いいえ、いいのよ。……真樹の母です」
真樹の母親は深く頭を下げる。つられるようにして、僕もお辞儀をした。
「さぁ、上がって。お父さんも待ってますから」
促されるようにして三和土で靴を脱ぐと、僕はリビングへと案内された。
十畳ほどの広さのリビングにはダイニングテーブルとソファ、テレビが置いてあり、真樹の父親はテーブルについていた。が、僕の姿を認めると、すっくと立ち上がる。
「敬太さん、わざわざありがとうございます。真樹の父です」
僕も再び頭を下げ、自己紹介する。
と、キッチンで母親が何やら準備をはじめた。僕は慌ててカバンから手土産を取り出し、渡す。
「これ、もしよかったら。あまりこういうのに慣れていなくて、どんなものを選べばいいのかわからなかったんですが……」
「あらぁ、和菓子ね! 綺麗」
選んだのはさまざまな花を象った和菓子だった。
「じゃあ、これは後でお茶と一緒にいただきましょう。ほら、すぐだから、敬太さんは座って座って」
言われるがまま、テーブルにつく。と、父親が立ち上がり、「母さん、敬太くんに早くビールでも出してあげて」などと言いながらキッチンへ向かっていった。
あの、おかまいなく……と呟いたものの、二人には届いていないみたいだった。
居心地が悪い。真樹の母親も父親も想像以上に優しく僕を迎えてくれていることは伝わってくるし、それにはホッとしている。でも、今この場所にどんな顔をして座っていればいいのかがわからない。そもそも、パートナーの両親に会うなんて初めての経験だったし、自分の人生にそんな瞬間が訪れるだなんて考えたこともなかった。だから、どう振る舞うのが正解なのかわからず、しっくりこない感じがする。
仕方なく、もてなしの準備をする二人には気づかれないように、そっと部屋を見渡した。
リビングの一点、角に置かれた小さなサイドボードに目が止まる。その上にはいくつかの写真立てが置いてあった。甘い蜜に誘われる虫のように、僕は思わずそれに近づいていった。
写っているのは、母親と父親、真樹、そしてお姉さんだろう。
みんな、若い。真樹は坊主頭をしていて、全力でピースサインをレンズに向けている。その隣にいるお姉さんはマスクをしていて、でも嬉しそうに目元を細めていた。そんな二人を挟むように母親と父親が立っている。どの写真もそうだった。まるで絵に描いたような幸せな家庭像が、そこにはあった。
「それね、真樹が小学生とか中学生の頃の写真なのよ。高校生になったら思春期になっちゃったのか、一丁前に、家族写真を撮るのを嫌がるようになってね」
キッチンから母親の声が飛んでくる。
「あ、勝手にすみません」
「全然、気にしないで好きにしてちょうだいね」
「あの、今日は、お姉さんはいらっしゃらないんですか」
「ああ、そうなの。敬太さんが来ることは話したんだけど、家族総出で迎えたら緊張させちゃうだろうから、またの機会にするってきかなくて」
真樹が家族にカミングアウトしていたことを佳乃子さんに伝えたのは、お姉さんだ。きっと、優しい人なのだろう。だから今日も、こうして僕のことを気遣ってくれたのだ。
「それにしても、若い頃の真樹なんて見たことなかったでしょ?」
「そうですね。だから、なんていうか……、新鮮です。真樹にもこんな時代があったんだなって」
「そうなのよ。大人になって丸くなってくれたけど、その頃はもう本当にやんちゃで生意気でね、すごく手がかかる子だったんだから」
「なんか信じられないです。真樹、すごく大人で、いつだって穏やかだったから」
「それはさ、格好つけてたんでしょ。……好きな人の前なんだし」
その言葉に振り向くと、母親と目が合った。彼女は優しく、そしてどこまでも寂しそうに微笑んでいた。
母親の顔を見て、今、真っ先にやるべきことを思い出す。
「すみません、まずは真樹にお線香を上げさせてもらってもいいですか」
「ああ、そうだったね」
父親が反応すると、こちらへやってくる。
そして、リビングを仕切っていた引き戸を開く。四畳ほどのスペースが現れ、小さな祭壇があった。その上には、真樹の遺影が置かれていた。葬儀の日に見た、どこか作り上げているような笑顔の真樹。
「真樹に挨拶してやってください」
父親が弱々しく言う。
僕は頭を下げると、仏壇の前に座った。
線香に火をつけ、香炉に立てる。細い煙が天井までゆらゆらと昇っていく。
おりんを鳴らすと、手を合わせ、目を閉じる。
不意に真樹の顔がちらついたけれど、僕はそれを振り切るようにして目を開けた。
振り返ると、父親も母親も、テーブルについていた。「敬太さん、ほら」と呼ばれ、僕は立ち上がる。
テーブルの上には色とりどりの料理が並んでいた。ちらし寿司、肉じゃが、青菜のおひたし、糠漬け、ハマグリのすまし汁。どれもこれもご馳走だ、と思った。
「わざわざこんなご馳走を用意してもらっちゃって、申し訳ないです」
頭を下げると、母親が快活な笑い声を立てる。
「やだ、そんなんじゃないわよ。適当に作っただけ。お酒も用意してるから遠慮しないで飲んでね。うちのお父さん、お酒好きなのよ」
父親は嬉しそうにビールの入ったグラスを持ち上げていた。
「持ってきてくれた和菓子は最後にいただきましょ。じゃあ、ほら、敬太さんもグラス持って」
薄張りのグラスを持ち上げると、琥珀色の液体が並々と注がれる。炭酸が弾けるような音がかすかに鼓膜をくすぐった。
「じゃあ……、はじめましてに」
父親の音頭に合わせるようにして、僕らは静かにグラスを掲げた。
なんて穏やかな時間なんだろう。この場に真樹がいないのが不思議で仕方ない。まるで真樹が帰ってくるのをみんなで待っているみたいだった。
母親が用意してくれた料理はどれも心の奥底を解してくれるような味わいだった。塩気は控えめで、野菜や魚が持つ本来の味を引き出している。食べれば食べるほど、もっと食べられるような錯覚を覚えるようだった。まるで学生時代に戻ったみたいだ。
お皿を次々に綺麗にしていくと、真樹の母親は嬉しそうな声を上げた。「よかったら、私の分も食べて」と言われ、笑顔で頷いた。
用意された料理をほとんど平らげてしまうと、香り高い緑茶とともに、僕が持参した和菓子が出された。ガラス製の透明な皿に、淡い色合いの紫陽花が咲いている。
お茶を一口啜ると、僕は姿勢を正し、真樹の両親に向き直った。
「あの……。今日はありがとうございます。こんな風に言うのは図々しいかもしれませんが、なんていうか……、その、真樹のお母さん、お父さんと一緒にご飯が食べられて、ほんの少しだけ、僕自身も家族の一員になれたような感じがしました。そんな日が来るなんて想像したこともなかったから……、本当に嬉しかったです」
言葉が胸でつっかえてしまって、スムーズに出てきてくれない。それでもどうにか思いを伝えると、母親が目を細める。
「もっと、もっと早く来てくださっていたら。そうしたら、あの子と一緒に、みんなで食卓を囲む時間が過ごせたかもしれないのにって、こうやって敬太さんとご一緒しながら、そんなことばかり考えていたのよ」
「それは……、本当にすみません」
「ううん、責めているわけじゃないの。ただ、敬太さんと一緒にいる時の真樹も見てみたかったなって。あの子は一体、どんな顔をしていたのかなって思ってしまって。……敬太さん、あの子が私たちにカミングアウトしていたこと、ご存じだったんでしょう?」
「あの、はい。知っていました」
嘘だ。真樹はそんなこと、一度も話したことがなかった。
でも、別に必死に隠していたわけではないのだろうな、と思う。ただ、タイミングを見計らっていただけなのではないだろうか。「実は家族にカミングアウトしてるんだ。だから、よかったら今度、俺の家族に会ってみない?」というタイミングを。
そんな話をするには、僕らの付き合いは短すぎた。そして、その機会を得られぬまま、真樹は死んでしまった。
カミングアウトしていたことも、実家の連絡先も、教えてくれたのは佳乃子さんだ。でも、それは伏せておいたほうがいいような気がした。
元妻である佳乃子さんと、同性のパートナーである僕がつながっていて、交流を持っている。そんな事実を理解してもらうのは、さすがに難しいのではないかと思う。だから、言わない。言わなくてもいいことだ。
「ただ、僕に勇気がなかったんです。同性のパートナーとして、真樹のご両親に会うなんて、その……、やっぱり怖くて」
「そんなこと……。敬太さん、真樹の葬儀にも来てくださっていたわよね?」
「え? ……はい」
「ちゃんと覚えてるのよ。あの日、きっと真樹のパートナーも来ているはずだって思って、参列してくださる方々の顔を一人ひとり確かめたんだから。敬太さんがお焼香してくださっている時、もしかしてって思った。母親の勘って鋭いのよ――」
だってね、と続ける母親の言葉に、僕は小さなため息をこぼした。そうだったのか。
「でもね、それでも、どうしても確信が持てなかったから、声を掛けることはできなかった。……ごめんなさいね」
不意に目の奥が熱くなった。
あの日、あの斎場で、僕は真樹のただの友人と見なされていることが悔しくて仕方なかった。二人の間には時間をかけて育んできた愛情があったのに、それが存在しなかったことにされてしまうのが、とてつもなく悔しくて、寂しかった。
でも、そうじゃなかったのだ。真樹の母親は、ちゃんと気づいてくれていた。
僕はただの友人ではなく、パートナーとして、あの場所に立てていたんだ――。
「そうだ、今日はこれを渡してあげなきゃって思ってたのよ」
言いながら、母親は小さく折りたたまれた紙を差し出す。薄っすら罫線が見える。
「これね、エンディングノートの一部分なの。葉月から――真樹のお姉ちゃんからね、敬太くんに渡してくれって預かったのよ」
逡巡しながら、僕はそれを受け取った。そうして、ゆっくり開いていく。
〈敬太〉という文字が目に入る。真樹の字だ。
僕は慌てて目を逸らし、深呼吸をした。鼻の奥がツンとするのをどうにか堪え、睨みつけるようにして紙面に目を戻す。
〈これを読んでるということは、きっと俺に何かあったってことなんだと思う。どんなことが起こっちゃったのか、今は想像もつかないけど、ごめんな。敬太のこと、一人にしちゃって、ごめん。
本当は敬太のためにわざわざこんなノートを残す必要がないくらい、世の中が変わってくれたらいいんだけど、なかなか難しいから、俺は俺にできる方法を選んだんだ。びっくりさせてたとしたら、それもごめん。
これを読んでいる敬太が何歳になっているのか、そもそも俺への気持ちがどんな風に変化してるかもわからないんだけど、今の俺は、敬太のことが大好きです。あの日、敬太に出会えて本当に良かった。
そんなことを言いながら、一つだけお願いがあるんだ。
敬太、俺のことは早く忘れてください。忘れて、さっさと好きな人を作って、そいつと幸せになってください。
いや、俺が生きてるんなら、俺が敬太を幸せにしてあげたいんだけど、これを読んでるってことはもう無理な状況だろ? だとしたら、次の幸せを見つけてほしい。それが俺にとっての幸せでもあるからさ。
本当はもっと伝えたいことがあるんだけど、俺は敬太と違って文章のプロでもないから無理みたい。ごめん。
敬太、これまでありがとう。愛してます。
敬太の人生が幸せなものであるように、離れたところから見守ってます。〉
読み終えると、嗚咽が漏れた。我慢なんてできるわけなかった。
「真樹……、どうして、真樹っ」
次から次に零れ落ちる涙が、真樹の綴った文字を滲ませていく。
子どもみたいに泣いている僕の背中を、真樹の母親がゆっくり擦ってくれた。
「敬太さん……。真樹と一緒にいてくれて、ありがとう」
「そんな、僕のほうこそ、ありがとう、ございます」
なんとか呼吸を整えながら、震える声でそう絞り出した。
と、横から静かに父親が口を開いた。
「母さん、せっかくだから、真樹の部屋を見せてあげたらどうだ?」
「ああ、そうね。敬太さん、どう? 真樹が一人暮らししてからも、部屋はそのままにしてあったの。よかったら。きっとあの子も喜ぶわ」
予想外の提案に驚くとともに、泣いている僕を少しでも慰めようとしてくれている二人の温かさに、頬が緩んだ。
「……見てみたいです」
頷くと、二人はホッとするように笑った。
二階にある真樹の部屋は、どこにでもあるような、少年の部屋だった。大学卒業までそこで生活していたらしく、小さな本棚には少年マンガが隙間なく詰め込まれていた。オープンクローゼットにかけられているシャツやパンツは派手なものばかりで真樹の趣味じゃないように感じたけれど、おそらく、大人になったことで好みも変化していったのだろう。あとはベッドに机と、別に代わり映えしないインテリアだ。
でも、特別なものだ、と思った。
少年時代の真樹は、ここで生きていた。
友人と喧嘩し、ベッドで塞ぎ込んでいる真樹。テスト勉強で追い込まれ、焦っている真樹。マンガを読みながら、暇を持て余している真樹。あらゆる瞬間の真樹の姿が脳裏に浮かび、消えていく。
ちゃんと生きていたんだな、と思う。
初めて足を踏み入れた場所なのに、何故か懐かしさを感じていた。一年余り付き合ってきて、僕の一部分は真樹と同化しつつあったのかもしれない。その身体のどこかが、この部屋を訪れられたことに郷愁を覚えながらも、喜んでいた。
そんな奇妙な感覚に戸惑っていると、母親に肩を叩かれる。振り返ると、母親はクッキーの缶を持っていた。
意図がわからず、かすかに首を傾げると、母親は嬉しそうに缶を開けてみせた。
そこには無数の紙切れ――よくよく見てみると、便箋が入っていた。
「これって」
「あの子が母の日に贈ってくれた、手紙なの」
「え、こんなに? 真樹って、誰かに手紙を書くの、好きだったんですね。……知らなかったです」
「意外とそういうところもあったのよね。私には毎年、こうして手紙を書いてくれてたの。いつも五、六枚の分量でね。でもね、最初は『お母さん、ありがとう』なんて感謝の気持ちが綴られてるんだけど、途中から自分の悩み相談になっちゃうのよ。おかしいでしょう? だから、いちいちそれに応えてあげて。手紙をもらえるのは嬉しいんだけど、ちょっと負担でもあったの」
母親は声を上げて笑った。目尻に浮かぶ涙を拭きながら。
「真樹は子どもの頃から、本当に優しい人だったんですね」
「……そうね、あの子はいつだって優しかった。優しすぎるから、あんな選択を取ったのかもしれない」
「……選択って?」
「敬太さん、真樹がもともと結婚していたことは知ってるのよね?」
佳乃子さんの顔が浮かぶ。それを悟られないように、僕は頷いた。
「はい。付き合う前にお聞きしました」
「離婚したのもね、あの子なりの優しさだったのよ。そうしなければ、佳乃子さん――ああ、真樹の元奥さんね。彼女が不幸になってしまうかもしれないって、だから真樹は離婚したの。私たちは止めた。でも、あの子はきかなかった。俺が一緒だと、幸せにできないからって」
そうして、母親は話しだした。
それは、真樹が佳乃子さんとの離婚を決意した、真実だった。
真樹の実家を訪ねた翌日、僕は佳乃子さんを呼び出していた。この日も朝から雨が降っていた。誰かが泣いているみたいだな、と思った。
待ち合わせをしたのは渋谷の外れにある純喫茶。店内で喫煙ができるため煙臭いのが玉に瑕だが、日中もあまり人がいないので、よく打ち合わせで使っている店だった。
待ち合わせ時間の十五時を少し過ぎて、佳乃子さんは現れた。
軽く挨拶を交わし、互いの飲み物を注文すると、佳乃子さんが言った。
「どうしても話したいことがあるって、どうしたんですか?」
「実は昨日、真樹のご両親に会ってきたんです」
佳乃子さんは驚きながらも、「よかったです」と安心するような表情を見せる。
「二人とも、敬太さんのことを快く迎えてくれたでしょう?」
頷きつつも、違う、そんな話はどうでもいい、と思っていた。
「そこで聞いたんです」
「……なにを?」
「真樹が佳乃子さんと別れた理由を」
まるで理解できない言葉を前にしたかのように、佳乃子さんは唇を半開きにしたまま固まってしまう。
沈黙が漂う中、愛想のない店主が僕らの前にコーヒーカップを置いていった。カップがテーブルにぶつかる音がやけに大きく聞こえた。
ややあって、佳乃子さんが呟く。
「理由って……、そんなの、私に対する気持ちがなくなったから、でしょ」
「違うんです」
「違わない。今更、敬太さんからわざわざ教えてもらわなくたって、誰よりも私がわかってる。わかりすぎるくらいで、だから苦しかったのに。どうして、どうして今更そんなこと言うの」
俯き、呪詛を吐き出すように口元を歪める佳乃子さんを見て、僕は一つ深呼吸する。
正直、迷った。でも、やはり伝えるべきだ。じゃないと、佳乃子さんは誤解をしたままだ。
「真樹は、無精子症だったんです。正確に言うと、非閉塞性無精子症……というものだったみたいで、真樹の身体では精子がまったく作られていなかった」
佳乃子さんが顔を上げる。両目は瞬きを忘れてしまったようで、やがて瞳に薄い涙の膜が浮かぶのがわかった。
「真樹は子どもを作れない身体だった。でも、佳乃子さんが子どもを欲していることは痛いくらい気づいていた。……だから、離婚を決意したんです」
「そんなの……、じゃあなんで結婚する時に言ってくれなかったの? 私のことを騙していたってこと?」
「それは違います」
昨日、真樹の母親が苦しそうに打ち明けてくれたことを胸のうちで反芻する。
真樹自身、自分が無精子症であることなんて想像もしていなかったという。だから、佳乃子さんと結婚した当初も、そのうち自然に子どもができて、自分は父親になるものだと思っていた。では、どうして無精子症であることがわかったのか。結婚から一年が経つ頃、真樹はある検査を受けるために病院を訪れた。それは遺伝子検査だった。
「遺伝子検査? なんでそんなものを――」
佳乃子さんは曖昧に笑おうとして、でも、不安を隠しきれない様子だった。
「わかりませんか? 真樹のお姉さんには口唇口蓋裂という先天的な疾患があったから、その弟である真樹は、自分の遺伝子にも障害因子があるのではないか、と思ったんです」
そこまで言うと、佳乃子さんはハッとして、青褪めていった。
「もしも、私たちの子どもにも口唇口蓋裂が遺伝したらどうしよう、と考えていたってこと? そんなの信じられない。だって真樹はお姉さんのことも誇りに思っていたし、障害者を差別するような人じゃなかった」
「もちろん、真樹は誰かを差別するような人じゃなかった。じゃあ、どうして検査を受けたのか。それは――」
真樹が初めてお姉さんに佳乃子さんを紹介した時のことだ。食事会自体は終始和やかな雰囲気だった。
その帰り道、佳乃子さんは言った。
――お姉さん、子どもの頃、いじめられたりしなかった? 大変だったんじゃないかな……。
その言葉は、真樹の心の片隅でくすぶり続けていた。でも、気にしないようにもしていた。
それが再燃したのは、結婚から一年が経ち、佳乃子さんが本格的に子どもを欲しがる様子を見せはじめた頃だった。一緒に食事をしている時、買い物に出かけている時、ドライブをしている時、佳乃子さんの口から自然と子どもに関する話題が出てくる。しかも、そこで想定されているのは、何の病気も障害もない健康な子どもだった。
でも、もしかしたら自分は――。
不安になった真樹は、だから佳乃子さんには内緒で検査を受けることにした。
「そんな! 私、そんなつもりじゃなかったのに……」
「わかってます。佳乃子さんはお姉さんを労るようなつもりで言ったんですよね。でも、真樹には、『もし、自分たちの子どもにも口唇口蓋裂が遺伝してしまったらどうしよう』と聞こえていたんだと思います」
「そんなことって……」
発症リスク検査の結果はなんとも言えないものだった。そもそも障害というものは遺伝子要因だけでなく環境要因も大きく関係するため、検査だけで遺伝するかどうかを明言することは不可能だ。
そして、真樹にはそれ以上の問題が発覚した。流れで受けた不妊検査の結果、無精子症であることが判明したのだ。無精子症にもさまざまなタイプがあり、場合によっては妊娠できる可能性が残されることもある。でも、真樹の身体では精子がまったく作られていないことがわかった。それはつまり、佳乃子さんとの間に子を成すことができない、という宣告だった。
「真樹はその事実をご両親に伝えて、佳乃子さんと離婚することを考えはじめたそうです。ご両親は止めた、と言っていました。子どもができなくても幸せな夫婦はたくさんいるから、って。それを受けて、真樹も迷ったと思います。でも、最終的には決断した……」
「私が必死になっていたから? 必死で子どもを欲しがっていたから?」
苦しそうな佳乃子さんの呟きに、僕は頷く。否定してあげたいけれど、そんなの無意味だ。
「佳乃子さんが求めていたのは、普通の幸せですよね。普通に結婚して、子どもを持ち、暮らしていくこと。そうじゃないと、女性として認められないんじゃないかと思っていたから。でも、真樹はそんな普通の幸せを佳乃子さんにもたらすことができなかった。だから、離婚したんです。……佳乃子さんのことを思って。自分なんかじゃなく、他の誰かと、ごく当たり前な普通の幸せを得てほしい、と思って」
「そんな……、真樹と一緒じゃなきゃ、意味ない、のに……」
佳乃子さんの瞳からガラス玉みたいな涙が溢れていく。完璧に仕上げられたメイクが徐々に崩れていくのも構わず、佳乃子さんは僕を真っ直ぐ見つめ、ただひたすら涙を流した。
「真樹は佳乃子さんのことを嫌ったわけでも、愛情を無くしたわけでもなかったんです。むしろ、一人の人として佳乃子さんを愛していたからこそ、どうすれば佳乃子さんが幸せになれるのかを考えた。二人が別れることになったのは、その結果だったんだと思います」
言いながら、僕は確信していた。
真樹はどこまでも相手の幸せを考えられる人だったんだ。
あのノートに残されていた僕へのメッセージが、そんな真樹の人柄を証明している。
鼻を真っ赤にしたまま泣き続ける佳乃子さんに、僕はそっとハンカチを渡す。
佳乃子さんは受け取ると、それで顔を覆うようにして、必死で泣き声を押し殺していた。
すっかり温くなってしまったコーヒーに口を付けると、最後に僕は言った。
「佳乃子さんは、ちゃんと愛されてたんですよ」
ハンカチから顔を上げた佳乃子さんは、まるで迷子になってしまった少女みたいに不安げな表情を浮かべていた。それでも、僕の言葉に何度も頷いた。
真樹からの愛情を確かめるみたいに、何度も何度も、頷いた。
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