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私が愛した彼、僕を愛した彼│エピローグ

エピローグ

 季節がひとつ過ぎたのだと、吹き抜けていった風の冷たさで知った。うなじが冷える。髪の毛を切ってから、まだ日が経っていない。慣れないけれど、鏡の前に立つたびにすっきりとした自分の顔周りを「好きだ」と思えていた。
 収納棚があふれるほど持っていた化粧道具も、一日がかりで整理した。真樹に関わる予定で休日が埋まっていた夏が終わって一息ついた頃、ふと身の回りの整理をしたくなったのだ。自分に似合うと心から思えるものだけを厳選したら、「なんだ、こんなにも少ないんじゃん」と呆れた。季節が変わって、日々の私を守ってきた武装は、ずいぶん少なくなったと思う。私は何と闘って、何から自分を守っていたのか。今となっては、よくわからない。

 目的地だった墓地は、ずいぶんと遠かった。小田急線の急行に乗って新百合ヶ丘駅で降り、さらにバスに乗って、そこから徒歩10分ほど。墓地に近づけば近づくほど、ずいぶんと遠くまで来たな、と旅情が湧き上がるほど風景が変わっていった。

 墓地の場所を真樹の母親から電話で聞いたとき、どうしてこんなにアクセスの悪い場所に……という疑問がよぎった。それを察してか、〈エンディングノートよ〉と彼女は付け加える。私は隅々まで読んだわけではないので気づかなかったが、墓地について希望が書いてあったらしい。〈できれば、見晴らしがよく空がひらけていて、公園みたいな場所がいい〉と。
〈そんな場所、都内のアクセスがいいところにあるわけないでしょう。いつも人のことばかり考えている子だったのに、死んだあとの話には、たくさんわがままが書いてあってね。もっと生きているうちに言ってほしかったわ〉
 気丈な声のあと、鼻をすする音がかすかに聞こえた。

 現地に着けば、こここそ真樹が希望した眠る場所だろうと納得する。どんなにアクセスが悪くても、彼が望む場所にしようと心を尽くした家族の気持ちが伝わってくる。広がる青空は、北海道旅行に行ったとき、大きな口を開けてからりと笑っていた真樹の顔を思い起こさせた。

 あの頃の私は、自分のことしか考えていなくて、真樹の心の中など一切想像していなかった。自分が本音を隠すことに必死だったから、すべてが嘘のように見えていた。けれど、きっと真樹は、あの空の美しさに心から笑っていたと思う。それに気づいてあげたかった。一緒に、楽しめれば……。

 私は首を小さく横に振る。これから来る冬に備えて、木々は葉を落としつつある。整然と並ぶ墓石の間を歩み、ようやく真樹を見つけた。墓石には、大きく〈游〉という一文字が刻まれていた。これも、真樹が家族に託したわがままのひとつなのだろう。

 ――ずっと、泳いでいられたら、いいのになあ。

 水族館の水槽を前にして、真樹がつぶやいた一言。その思い出が吹き抜けていく風に溶けて、無数の透明な魚たちが、ゆらゆらと泳いでいく。
 目を細め、水槽のように広がる空を眺めたあと、墓前に舞う枯れ葉を一通り片付ける。彼の家族がここに来てからしばらく経ったのだろう、少し元気をなくして頭を垂れた花が供えてあったので、用意した花に入れ替えた。
 打ち水をして、線香に火をつける。一つひとつの儀礼的な動作が、この世にはもう真樹はいないのだということを実感させる。
 真樹のことをいつも見上げて歩いていたけれど、今度は私がしゃがんで視線を合わせる。なんだか変な感じだね、と心の中で真樹に語りかけながら、そっと手を合わせた。

 目を閉じれば、忘れかけていた小さな日々の破片が、きらきらと光を受けて輝く。二人並んで歯磨きをしながら、何を話しているのかお互いわからないくせに、会話を続けていたことだとか、名作だと話題になった小難しい映画を並んで観ていたら二人で寝落ちしてしまって、結局結末がわからずじまいだったこととか、ランニングに一緒に行こうと誘われても頑なに私が断って、彼がしょんぼりしていたこととか。
 幸せだったじゃん。私、幸せだったんだよ。二人きりだって、幸せだったはずなのに。ごめんね。真樹。気づけなくて、ほんとうにごめん。
 合掌している手が震えて、私は息を大きく吸う。閉じていた目に力を込めて、あふれてしまった涙が一筋こぼれたあと、私は心の中でちいさく輝く欠片を丁寧に拾い集め、心の一番大切な引き出しの中に、そっとしまった。
 違うんだ、真樹。私が伝えたかったのは、ごめんじゃなくて。
 
「お誕生日、おめでとう」
 
 小さく声に出してみた。何年も前の同じ日、小さなホールケーキをサプライズで用意して、ろうそくを立てたら、はしゃいでいたよね。ケーキごと吹き飛んでしまうんじゃないかってくらい、大きく息を吹いたね。それもまた、輝く記憶のうちの特別な一片だった。

 真樹、生まれてきてくれてありがとう。私は、あなたのことを愛することができたから、あなたを失うことができたのだと思う。二度と戻らない日々を忘れる日などないから、今の自分を幸せにしようと、あなたに約束できる。

 ゆっくりと目を開けた。魚たちがゆらゆらと泳ぐ水中から、現実へと戻ってきたような感覚。ゆっくりと立ち上がって、頬に伝う涙を払う。深呼吸を一回。もう一回。荷物をまとめて、背筋を伸ばして振り返ると、そこには見慣れた人が立っていた。

「……敬太さん」

 私が目を見開くと、敬太さんはばつが悪そうな顔で頭を下げる。

「まさか、同じタイミングで来ているとは、思わなくて……すみません」

 敬太さんと会うのは、真樹の家族と会って、お互いにそのとき聞いた話を共有し合って以来だ。それほど月日が流れたわけでもないけれど、あの頃、一時的に頻繁に会っていたからか、ずいぶんと長く会っていないようにも感じた。

 私は堪えられず、笑う。
「そりゃあ、真樹の誕生日だもんね」
「……来ますよね、お互いにとって、大切な人が生まれた日だから」
 敬太さんがそう言う。彼の優しいまなざしが、秋風に溶けていく。

 敬太さんは、友達ではない。もちろん、恋人でもない。じゃあ、知人とか顔見知りとか、そんな遠い関係に分類されたら、全力で否定するだろう。
 関係性に名前なんて要らない。私に大切なことを教えてくれた人。私と向き合って、私が大切なことに気づく手助けをしてくれた人。

 私は真樹の前で、真樹が心から愛した人に、感謝の気持ちをこめて手を差し出す。初めて会ったときに、そうしたように。

 敬太さんは差し出された手を少し目を丸くして見つめてから、くしゃりと笑って、握り返す。あたたかくて、丸い輪郭をした絆のようなものが、つながれた手の中で息づいている。力を少し強めると、敬太さんもそれに応じた。大丈夫、私たち、きっと幸せになろう。それは真樹の前でひとり手を合わせたときより、もっと心強い、私たち二人の間で立てた誓いになる。


 真樹の墓前で固い握手を交わすと、佳乃子さんは「それじゃあ」と呟く。穏やかな笑みを残すようにしてゆっくり去っていった。しばらく会わないうちにロングだった髪の毛は肩先で切り揃えられていた。金木犀の香りがする風が、佳乃子さんの髪を静かに揺らす。
 その後ろ姿を見つめながら、僕は佳乃子さんと初めて出会った日のことを思い出していた。真樹を見送った、あの日。

 覚悟を決めて話しかけた僕に、佳乃子さんは手を差し出してきた。元夫の同性のパートナーに対して握手を求めるなんて、一体なにを考えているんだろう。そんな風に戸惑ってしまったのは事実だ。でも、僕を見つめる瞳に敵意は感じられなかった。佳乃子さんは穏やかな笑みを浮かべ、ただ、僕を見ていた。

 だから僕も、ついそれに応じてしまったのだ。どうして? 真樹を見送るには、あまりにも僕は彼を知らなすぎると思ったから。真樹と付き合った一年はとても濃かった。でも、やはり短い。彼を知るには、短すぎた。だから、佳乃子さんと話すことで、真樹の断片を集められるのではないかと思った。
 そういう意味では、僕と佳乃子さんは同じだったのかもしれない。

 そして、知ることができた。僕には見せることがなかった、真樹の一面を。
 それだけじゃない。真樹という人間が愛した、佳乃子さんのことも知った。
 ……そう、僕は知ったのだ。佳乃子さんは理想的な家庭を持ちたいと願っていたこと。真樹と結婚し、子を成すことで、それが叶うと信じていたこと。そんな思いに囚われるようになったのは、女性であることに縛られていたからだということ。
 それを知ることができたのは、何度も佳乃子さんと対話を重ねたからだ。
 初めて会った時には、そんなこと想像もできなかった。元夫の同性のパートナーを前にしても、僕の前ではただただ穏やかに笑ってみせるだけだった。本当は複雑な思いを抱えていたのに、相手にそれを悟られないように振る舞う。もしかしたら、佳乃子さんの処世術なのかもしれない。

 だとすれば――。ついさっき、別れ際に見せた微笑みはきっと――。

「佳乃子さん!」
 もう見えなくなってしまった彼女に呼びかけながら、僕は走り出していた。いくつもの区画を分けるようにして通された小道を走り抜け、霊園の出口へと向かう。途中、すれ違う墓参者からの冷ややかな目線を感じたけれど、そんなのどうでもよかった。
 そうして出口付近で佳乃子さんの後ろ姿に追いつく。

「佳乃子さんっ!」
 呼びかけながら肩に手をかけると、佳乃子さんは驚きながら振り返った。泣いていた。
「よかった……、追いついて……」
 大して走ったわけじゃないのに息が切れる。
 呼吸を整えながら佳乃子さんを見つめると、彼女は慌てて手の甲で涙を拭い、笑顔を作る。

「敬太さん、どうしたの」
「佳乃子さんに、まだ、言ってないことがあった、から」
 少しずつ呼吸が落ち着いてくる。
 次の言葉を待つように、佳乃子さんは眉尻を下げ、僕を見ていた。
「佳乃子さんは、本当に真樹から愛されてたんですよ」
「また……、どうしてそんなこと。もう、もうわかったから」
「ううん、わかってない。佳乃子さん、信じてないですよね。本当はまだ不安なんですよね? 自分は真樹から愛されてなかったんじゃないかって」
「どうして……」
「だって、佳乃子さん、不安な時に微笑むじゃないですか。僕と初めて会った時もそうだった。本当は不安だったのに、真樹の同性のパートナーっていう得体の知れない男を前にして、自分の存在意義が揺らぎそうになるくらい不安だっただろうに、笑ってたじゃないですか。さっきもそうですよ。真樹のお墓の前で別れた時、佳乃子さん、初めて会った時と同じ顔してた。だから、だから、ちゃんと伝えなきゃって思って」

 佳乃子さんは首を振った。
「ううん、もういい。もういいの。敬太さんと真樹の間にあった絆を知ってから、ああ、私には敵わないんだなってわかったから。だから、もういいんだ」
「違うよ。……真樹が僕に愛情をくれたのは本当。でも、真樹が佳乃子さんを愛していたのも本当だって、僕はそう確信してる」
「もうやめて。そんな気休め、今更いらない」
「気休めなんかじゃないよ! ねぇ、知ってた? 僕と佳乃子さんはすごく似てるって」

 真樹の母親は、葬儀に参列する僕を見て、もしかしたらこの人が真樹のパートナーなのではないかと思ったそうだ。
 母親が僕に言ってくれた言葉が蘇る。

 ――母親の勘って鋭いのよ。だってね、敬太さんって、真樹の元奥さんと似てたから。顔立ちがどうってことじゃなくて、なんていうのかしら、佇まい、みたいなものが。

 それを聞いて、腑に落ちる思いがした。
 確かに、僕と佳乃子さんはよく似ている。

 女性として生まれたからには、女性としての魅力を磨いて、周囲が羨むような夫を見つけ、健康な赤ちゃんを産む。そうして理想的な家庭を築くことで、やっと、女性として生まれてきた自分自身を認められる。でも、それは決して容易なことではない。そんな生き方を誰もが普通の人生、、、、、、なんて呼んだりするけど、大間違いだ。だから佳乃子さんは苦しめられた。この時代、すでに普通ではなくなってきている生き方を普通のものだと押し付けられ、なかなか手に入らないことに焦り、苛立ち、やがては自分の価値を見失ってしまった。普通の人生を手にできないのは、自分が女として劣っているからだ、と。

 世間は劣っているものに厳しい。周囲と比べて劣っていると見なされたものには、蔑みの眼差しが向けられる。

 だから佳乃子さんはいつだって武装するように生きてきたのだろう。舐められないように、見くびられないように、自分は余裕なんだと虚勢を張るようにして。

 そんな佳乃子さんの生き方は、そのまま僕に重なった。

 僕のこれまでの人生は、圧倒的な絶望と常に隣り合わせにあった。自分のセクシュアリティがゲイであることに気づいた時、そしてそれを周囲に知られてはいけないのだと理解した時、僕にはもう普通の人生が用意されていないのだと思った。それでも、SNSを介して同じような仲間が大勢いることを知り、実際に東京に出てきてからは、それなりに楽しい時間を過ごすことができた。ただ、真樹と出会ってから、僕は、僕と真樹の未来に結婚が存在していないことを強く意識するようになった。それはつまり、いくら真樹と幸せな時間を積み重ねたとしても、それは世間一般でいう普通の幸せ、、、、、とは異なるということだ。幸福な瞬間を味わうたびに、不幸の予感に怯えなければいけない。真樹とは一緒にいたいけれど、一緒にいればいるほど、苦しかった。

 世間ははみ出しているものにも厳しい。周囲と足並みを揃えられないものは、いつだって眉を顰められてしまう。

 だから僕は、なんでもないフリをして生きてきた。マイノリティであることを必死で隠し、日々の生活で感じている不公平さから目をそらし、僕は平気ですよというポーズを取って。それもまた、虚勢だったのだ。

 そう、僕と佳乃子さんは、写し鏡のような存在だ。
 世間で謳われる普通というものに囚われ、苦しめられ、それを心の底から欲しながらも、なんとか武装して生きてきた。

「だから――、僕と佳乃子さんはすごく似てるんだ。そんな僕と佳乃子さんを、真樹は愛した。つまりね、有り体に言うとすれば、僕も佳乃子さんも、真樹にとって好みのタイプだったんだよ。真樹はきっと、この社会の中で上手く生きられなくて、それでも必死に生きようとしている人がほっとけなくて、そういう人を好きになったんじゃないかな。……自分で言うのは若干照れくさいんだけど」
「そんな……」
「佳乃子さん、僕は真樹に愛されてたんだって思うよね?」
「……うん」
「だとすれば、僕によく似てる佳乃子さんだって、愛されてたって考えてもおかしくないよね」
「それは……、どうなんだろう……」
「佳乃子さん」
 一呼吸置き、僕は、あの日、佳乃子さんにいわれた言葉をそのまま繰り返した。

「気づいてますか? 佳乃子さんが自分のことを否定するたび、それはつまり、一緒の時間を過ごしてきた真樹を否定することになっているって」

 佳乃子さんはハッとした表情を浮かべると、再び涙を流し始めた。
 でもその涙は、先ほどまで流していたものとは違う。今の佳乃子さんは、ただただ嬉しくて泣いている。そう思った。

 冷たい風が吹き、足元の落ち葉を遊ばせた。随分高くなった空からは、鳥の甲高い鳴き声が落ちてくる。
 ひとしきり泣くと、佳乃子さんは顔をぐいと拭って、笑顔を見せた。不安を誤魔化すための曖昧な微笑みなんかではなく、歯を見せて太陽みたいに笑った。

「敬太さん、ありがとう」
「ううん、こちらこそ」
 佳乃子さんが手を差し出す。爪にはもう何も塗られていなかった。
 僕も手を伸ばし、再び、固い握手を交わす。
「敬太さん、じゃあ……」
 佳乃子さんは言い淀んだかと思うと、力強く続けた。
「じゃあ、また。どこかで」
 別れの言葉が、胸の奥で小さな灯火をともす。
「うん。また、きっとどこかで」
 そう言って、僕らは手を離す。霊園を出て、右と左に別れて歩き出す。
 つい、振り返りそうになったものの、ぐっと堪えて、僕は歩き続けた。

 見上げた空はどこまでも青く、雨の予感なんてどこにもなかった。

〈了〉



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宿木雪樹 読んでいただき、ありがとうございました!もしコンテンツに「いい!」と感じていただいたら、ほんの少しでもサポートしていただけたらとってもとっても嬉しいです。これからもよろしくお願いいたします。