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私が愛した彼、僕を愛した彼│第二章

第二章

 ――敬太ってさ、雨男だよな。

 斎場の廊下にあるベンチで俯いていると、真樹が囁く声がした。いつも真樹に言われていた言葉だった。
 生温かい息遣いすら耳元に感じ、反射的に顔を上げる。しかし、真樹はいなかった。喪服に身を包んだ男女が目の前を通り過ぎていくだけで、どこにも真樹の姿はない。

 でも、もしかしたら――。

 あり得ない期待をしながら、僕は周囲を見渡す。心臓がゆっくり、少しずつ激しさを増しながら胸を打つ。僕は胸にそっと手を当て、何度か深呼吸した。
 いや、真樹がいるわけないじゃないか。そんなことわかっているのに、まだ信じ切れていない自分に苦笑がこぼれてしまう。

 葬儀が行われているホールへと続く廊下はガラス張りになっていて、いくつかのベンチが等間隔に置かれている。差し込む陽はとても柔らかい。見上げると、ガラスの向こうには斎場の中庭と青空が広がっていた。雲一つないなんて、皮肉なもんだ、と思う。
 綺麗に磨き上げられたガラスに映っている自分は、まだ三十手前なのに、この数日でいくらか老け込んでしまったように見える。クローゼットの奥に仕舞い込んでいた喪服はくたびれていて、埃っぽい臭いがした。あまり履き慣れていない黒の革靴には、乾いた泥のようなものがこびりついている。

 僧侶の読経がかすかに聞こえてくる。早く行かなければ。葬儀に遅れてしまうだなんて、社会人としてどうかしている。今の僕を真樹が見たら、なんて言うだろうか。いくらおおらかな真樹といえども、きっと眉をひそめたに違いない。
 それでも構わない、と思った。いっそのこと、こちらが立ち直れなくなるくらい叱りつけてくれたらいい。そんなの、一度もなかったけれど。でも、たとえ蔑まれたとしても、幻滅され嫌われたとしても、もう一度真樹に会えるのならばそれで構わないのに――。

 どうにも立ち上がれず、座ったまま中庭を眺めていると、横に気配を感じた。横目で盗み見ると、老婦人が腰を下ろしていた。仕立ての良さそうな喪服に身を包み、真っ白な髪の毛は綺麗にセットされている。でも、慌てて来たのだろうか、額に浮かぶ汗をハンカチで何度も拭っていた。

「間に合わなかったわ」
 老婦人は乱れた呼吸を整えるようにしながら、控えめに呟いた。
 おそらく独り言なのだろう。でも、なんとなく無視するのは感じが悪い気がして、応えていた。
「まだ始まったばかりですよ。遅刻っていっても十分くらいですし、受付もまだ開いてますから、大丈夫だと思います」
「そう、ならよかった。……あなたは? あなたは行かないの?」
 老婦人は何度か深呼吸すると、柔らかい笑みをこちらに向けてくる。
「僕は……、まだちょっと……」
「突然のことだったものね。お友達がこんなことになるだなんて、整理がつかないでしょう」
 お友達。老婦人の言葉が耳の奥で嫌な響きを持つ。
「真樹くん、まだ三十代だったのにね。どうしてそんなに早く……」
「そう、ですね。早すぎます」
「ええ。どうせならこんなおばあさんを先に連れて行ったらいいのに、神様って本当に意地悪よね」
 老婦人は外を真っ直ぐ見つめている。
「神様って……いるんでしょうか。すみません、僕はあまりそういうの信じていなくて」
「ごめんなさい、おばあさんの戯言だったわね。でも、神様がいるとしたら、真樹くんもまた生まれ変わらせてもらって、今度こそ長生きできるといいなって思うのよ」
 生まれ変わり、なんてあるだろうか。仮にあるとしたら、真樹はまた同じように生まれてきたいだろうか。

 黙ったままでいると、不意に老婦人が僕に顔を向けた。
「私ね、あなたの気持ち、わかるのよ」
「……え?」
「私もね、若い頃に大切な友人をなくしたの。中学時代の友人でね、いつも一緒に遊んでたんだけど、……その子も事故で。あの時はとにかく寂しかった。どうして、こんないい子がって。でも、私がいつまでも寂しがってたんじゃ、その子も心配するでしょう? だから、その子の分まで生きるんだって思ってたら、こんな年になっちゃったのよ。……あなたもあまり気を落とさないで、真樹くんの分まで生きるのよ」
「……真樹の分まで」
「そう。お友達の分までしっかり、ね」
 じゃあ、あなたも落ち着いたらね、と言って、老婦人は立ち上がり、ホールの入り口へと向かっていった。受付で記帳し、中へ入っていく。扉が大きく開いた一瞬、読経の声が大きくなった。

 老婦人を見送る僕のことを、受付担当者が訝しげに見ているのがわかる。
 いつまでもここに座ってはいられない。焼香だけでも済ませて帰ろうか。
 逡巡していると、ふと、先ほどの真樹の言葉の続きが、またどこかから聞こえてくる気がした。

 ――敬太って、雨男だよな。俺らがデートするとき、、、、、、、、、、、いっつも雨降らせるじゃん。

 その声に導かれるようにしてガラスの向こうに目をやると、中庭に真樹が立っていた。快晴の空を指差し、悪戯っぽく笑っている。

 ――デートの日は雨降らせんのに、なんで俺の葬儀の日は晴れなんだよ。

 そんな風に笑っている気がする。わからない。でも、そうに違いない、と思った。
 快晴の下で笑っている真樹に対して、だけど僕は弱々しく笑うことすらできなかった。


 真樹と出会ったのは、二年前のことだ。行きつけのゲイバーのカウンターの端っこで、大きな身体を丸めるようにしてビールを飲んでいた。気が弱い大型犬みたいな人だな。それが第一印象だった。

 その日はとにかくイライラしていた。ゲイ向けのマッチングアプリで二カ月やり取りしていた人と初めてのリアルだったのに、待ち合わせ場所に行くと、プロフィール写真とは似ても似つかないおじさんが待っていたのだ。年齢も体重もかなりサバを読んでいたことは明らかで、でも、会った瞬間に帰るのは失礼だと思い、食事だけは我慢して付き合うことにした。

 焼き鳥屋のカウンターに座り、酒を飲みながら話してみると意外といい人で、どうやら映像系の制作会社でディレクターをしているらしい。雑誌の編集者をしている僕からすれば隣の畑くらいの距離感で、親しみを覚えた。付き合うのは無理だとしても、友達にはなれるかもしれない。そんな風に思い始めていた矢先、おじさんは下心全開の顔で口を開いた。

「この後、どうする? 敬太くんさえよければ、うちで飲み直す?」
「いやぁ……、さすがに会ったばっかりですし」
 気分を害さないよう、やんわり断ったつもりだった。が、それが気に食わなかったのだろう。おじさんは態度を豹変させた。
「え? なにかされると思ってる?」
「いえ、別にそうは思ってないですけど……」
「いやいやいや、ちょっと待ってよ。さすがに調子に乗りすぎだよ。こっちにも選ぶ権利はあるしさ、はっきり言うけど、敬太くんのことタイプじゃないからね? 勘違いしないでほしいなぁ」

 その後もおじさんはウジウジと文句を垂れていたけれど、反論する気にはならなかった。こうやってプライドを保とうとしているのだろう、と思うと、惨めですらあった。
 言い訳と当てつけが混じり合って、やがて訳のわからない誹謗中傷に変化しだしたところで、僕はその場を離れた。文句を背中で受け止めながら、僕はおじさんのアカウントをブロックし、その足で馴染みのゲイバーへと向かった。本人にはぶつけられなかった悪口を吐き出さないことには寝られない、と思ったからだ。

 新宿二丁目の隅にある雑居ビルの三階。「ブックエンド」と名付けられたそのゲイバーは読書好きのママが切り盛りしていて、年齢層は広めだけれど比較的静かな客が多い。ひたすらカラオケで盛り上がるようなこともなく、一人で訪れた客がママや店子みせことの会話を楽しみながらグラスを傾ける店だ。だから気に入っていたし、自然と顔馴染みの常連も増えていた。

 そこにいたのが、真樹だった。目についたのは真樹が常連客の中で浮いていたから、だけではない。どことなく居心地が悪そうな顔をしていたからだ。

 ママに促されるまま、僕は真樹の隣の席に座った。
 おしぼりを渡しながら、ママはボトルを揺らす。
「敬太、いつものでいい?」
 頷くと、目の前に午後ティー割りのグラスが置かれる。
 飲もうとしたとき、ママから真樹のことを紹介された。
「この子、うちに初めて来てくれたのよ。ほら、みんなで乾杯しましょ」
 気持ちよく乾杯できるような心持ちではなかったものの、言われるがままにグラスをぶつけると、真樹はおずおずと自己紹介してくれた。

「はじめまして、真樹っていいます」
「……どうも、敬太です」

 なんの色気もない自己紹介だった。それも仕方ないだろう。おじさんとのやり取りを引き摺ってムシャクシャしていたのに加えて、真樹は僕のタイプではなかったから。僕のタイプは線が細く、アーティスティックな、悪く言えば不健康で神経質そうな男だ。それに対して真樹は、学生時代にはラグビーや柔道でもやっていそうな、体育会系で太陽が似合うような男だった。どこからどう見ても真逆。だからこそ油断してしまったのかもしれない。気づけば、僕は先ほどのおじさんとのリアルについて愚痴を吐き出していた。

「マチアプでの出会いなんかさ、こっちも期待してないんだよ。どうせ写真は加工してるだろうし、プロフも盛ってるんだろうなって思ってるし。……まぁ、こっちもそれなりに盛ってるんだけどさ。ただ、さすがに嘘にも限度があるでしょ。しかも完全にヤリモクだったし、なによりも、俺でもイケるって見くびられたのがガチで苛つく。イケるわけねぇじゃん!」
「ほぉら、あんた飲みすぎよ。水飲みなさい」
 ママからグラスを受け取ると、僕は一息で流し込んだ。カルキ臭い水道水が食道を流れていく。
 なんだか一気に虚しくなり、ママにグラスを返すと、「お会計」と呟いた。
「あら、もう帰るの?」
「うん。もう今日はいい。また来る」
 ちょっと待ってて、とママが伝票片手に計算を始める。

 と、真樹が僕の肩を叩いた。
 顔を向けると、真樹は少しも酔っていない顔で言った。
「あの、もしよかったら――」
 その先が聞こえない。決して大きくはないはずの店内のBGMに、真樹の言葉が掻き消されてしまう。
「え? なに?」
 言いながら真樹の口元に耳を近づけると、低く落ち着いた声が鼓膜を震わせた。

「もしよかったら、今度、肉でも食いに行きませんか」

 思わず顔を上げると、真樹はこちらを真っ直ぐ見つめていた。
 これはデートの誘いなのかどうか判断がつかない。仮にそうだとしても、タイプじゃないのだし発展性はないだろう。でも、その視線の熱にやられてしまったのか、あるいは想像以上に酔ってしまったのか、僕は顔が熱くなるのを感じていた。


 別れ際に連絡先を交換したものの、真樹からのメッセージは一向に届かなかった。
 あの誘いは社交辞令だったんだろうな。飲み屋でのつながりなんてそんなもんだ。第一、別に何も期待していない。次第に、真樹の印象も薄れていった。
 が、それから一ヶ月後のことだった。

〈この店でどうですか?〉

 真樹からの簡素なメッセージには、リンクも貼ってあった。タップすると、恵比寿の焼肉屋のホームページにつながる。

「遅っ」
 あの日の誘いがまだ生きていたことに驚きながら、思わず独りごちてしまう。
 ホームページを詳しくチェックしてみると、それなりに良い店らしい。今更面倒だな、とも思ったけれど、美味しそうなイメージ写真につられて、僕は色好い返事をしていた。

「お待たせしちゃってすみません」
 土砂降りの金曜日だった。十九時に店で待ち合わせの約束だったけれど、真樹は三十分ほど遅れてやって来た。仕事でトラブルが発生したという。
「遅い。もう二杯目なんだけど」
 ビールのグラスを見せつけると、真樹は大きな身体を縮こまらせながら何度も頭を下げた。肩先や足元がずぶ濡れになった状態で謝る真樹があまりにも不憫で、なんだかその様子がおかしくて、思わず噴き出してしまう。
「別にいいよ。怒ってないし。それより、早く注文しよう。お腹空いた」
「はい。お詫びに今日は奢るんで、好きなもの頼んでください」
「まじ? じゃあ、特上タンとハラミと、ミスジ、ザブトン……、あ、次からシャンパンにしようかな」
「あっあの、敬太さん。でも、多少は加減してもらえるとありがたいです……」
 こちらの勢いに青褪める真樹を見て、僕は再び声を上げて笑った。

 それから肉を焼き、ビールやワインのグラスを傾け、僕らはたくさん話した。真樹は印刷会社で営業をしているらしく、今日遅れてしまったのも、クライアントとの間でトラブルが発生したのが原因だった。

 第一印象に違わず、高校生の頃からアメフトをやっていて、大学生時代には全日本の大会にも出場したという。ただし、スタメンではなくベンチで。肝心なところで最前線にいられないのが、なんとなくこの人らしいな、と感じた。

 それから驚いたのが年齢だ。真樹は現在三十一歳で、僕より四歳上だ。どこか無邪気で素直な印象が強いので、なんとなく同い年か、もしかしたら年下の可能性もあると思い込んでいた。
「ごめん、思いっきりタメ口で話してた……。話してました」
 そう言うと、真樹は健やかな笑顔を浮かべる。
「いやいやいや、いいんです。そのほうが壁を感じませんし」
「えっと、その理論でいうと、そっちは今、思いっきり壁を作ってるってこと?」
「え? あ、いや、そういうわけではないんですが……」
「じゃあ、めんどくさいからもうタメ口でいいよね」
「ええと、じゃあ、そうします。……そうする、よ」
「なんで片言なの」
 反射的に返すと、真樹は規則正しく並ぶ歯を見せつけるようにして大声で笑った。その屈託ない笑顔を、可愛いと思ってしまった。そう思ってしまう自分に戸惑う。

 目の前にいるのは、僕よりも大柄でどこまでも健康そうな男だ。全然タイプじゃない。それなのに、可愛いなと思っている。
 きっと飲みすぎているのだ、と自分に言い聞かせ、僕はさらにアルコールを流し込んだ。

 それから僕と真樹は、定期的に食事に行くようになった。身体の関係はない。それどころかキスもしないし、指一本触れることもない。ただ、月に数回約束をし、ご飯を食べる仲だ。これはつまり、友達、なのだろう。真樹には仕事の愚痴どころか、ちょっと込み入った悩みも打ち明けられるようになっていった。どんな話にも耳を傾け、真摯な意見をくれるからだ。そんな姿勢をいつからか信頼し、安心するようにすらなっていた。

 もちろん、パートナーが欲しくないわけじゃない。でも、マチアプの画面を眺めていると、どうしても真樹の顔がちらついてしまう。いつからか僕は、マチアプで他の男とやりとりすることすら止めていた。
 
 もしかしたら僕は、真樹のことが好きなのかもしれない。自分でも自分のことがわからない。そんなの初めてだった。
 これまで、何人かの男と付き合ってきた。その始まりはどんなだったろうと記憶を遡る。初めて会った日に勢いでセックスしてしまって、なし崩し的に付き合ったこともあれば、何度目かのデートで告白をして交際に至ることもあった。いずれにしても、僕の中には多かれ少なかれ、相手への欲望があったように思う。この人と付き合いたい、自分のものにしたい。そんな欲望だ。でも、それと同じものを真樹に対して抱いているかと問われると、そうじゃない。そうじゃないのに、何故か気になってしまう。一体、この気持ちはなんなんだろう。
 そんな訳のわからない感情を抱いたままでは、そのうち身動きが取れなくなってしまうのではないか。だからいい加減、はっきりさせよう。真樹と出会って半年が経つ頃のことだった。

 その日、僕と真樹は新宿三丁目にある海鮮居酒屋を訪れていた。刺身がとても美味しいと、仕事相手に教えてもらった店だった。真っ先に注文した刺盛りは、蟹やイクラ、生海老が盛り付けられていて、予想以上に豪華だった。
 海老の頭を吸っていると、神妙な面持ちで真樹が口を開いた。

「俺、敬太に話さなきゃいけないことがあるんだ」

 まるで今にも死にそうな顔をしていて、僕は手を拭き、姿勢を正す。
「……どうしたの? もしかして、今日、財布忘れたとか?」
「茶化さないで聞いてほしい」
「えっと……、ごめん」
 真樹は弱々しく首を振ると、黙り込む。
 沈黙の合間に、どこかのテーブルから笑い声が聞こえてくる。真樹は俯いたまま、口を一文字に結んでいる。
 畏まった空気に耐えられず、思わず軽口を叩きそうになる。でも、真樹があまりにも真剣で、僕はぐっと堪えた。
 やがて真樹は顔を上げると、僕を真っ直ぐ見つめ、ゆっくり口を開いた。

「俺、結婚してるんだ」

 瞬間、周囲の雑音が遠ざかっていく。無音の中で、結婚、、という単語が何度も鼓膜を叩く。
 振り返ってみれば、気づくチャンスは何度もあったのかもしれない。こうして度々会っているけれど、土日に約束をしたことはなかった。終電を逃したとしても、真樹は絶対に家に帰っていった。ハンカチやワイシャツに皺一つなかったのも、家で待つ人が丁寧にアイロンをかけていたからなのかもしれない。

「敬太……、ごめん、ごめんね」

 目の前で慌てる真樹を見て、僕は自分が泣いていることにやっと気がつく。そっと頬に手をやると、生温かい雫がこぼれていた。
 同時に、僕はやっぱり真樹のことが好きだったんだ、と理解する。

「敬太、本当にごめん」
 真樹が謝る必要なんてない。だって、僕らは付き合っているわけじゃないから。互いに好きとも付き合ってほしいとも言っていないし、セックスもキスもしていない。だから、真樹は何も悪いことをしていない。それでも、僕は自分を抑えられなかった。

「騙してて、楽しかった?」
「え?」
「真樹はさ、僕のことを騙してて楽しかった? バイなのか既婚ゲイなのかなんなのか知らないけど、結婚もできずに一人で生きてるゲイのことを見て、馬鹿にしてたってことだよね。あ、もしかしてそのうちヤリ捨てようと思ってた?」
「違う! そんなんじゃなくて」
「真樹はいいよね。結婚して社会的な信用を得て、でも陰でこうやって男と遊んで。正直、真樹のこといいなって思ってたんだよ。だから、真樹さえよかったら、ちゃんと付き合いたいって思ってた。でも、そんなこと思ってたのは俺だけで、真樹はずっと笑ってたんだろ?」
「だから、そうじゃないって! 俺はバイっていうか、パンセク? ってやつなのかもしれない。好きになる相手の性別は関係ないっていうか」
「そんなの知らないよ! どっちにしたって、騙してたってことじゃん。ふざけんなよ。お前らの遊びに付き合ってられるほど、こっちは暇じゃないんだよ!」

 僕は立ち上がり、店を出た。背後から「敬太、待って!」という悲痛な声が聞こえてきたけれど、立ち止まることなんてできなかった。

 真樹のセクシュアリティなんてどうでもよかった。

 僕みたいなゲイには、結婚という選択肢が用意されていない。苦肉の策として生まれたパートナーシップなんて制度は形だけのものだ。好きな人と法的に結ばれ、祝福されたい。認めてもらいたい。そんなささやかな望みすら、叶えられない。
 ふだん、それを強く意識することはあまりない。半ば諦めているからかもしれない。それでも楽しい瞬間や幸福を感じる瞬間はたくさんあるし、人目につかず、小さな幸せに浸って生きていければそれでいいと思っていた。

 でも、信頼していた人にこういった形で裏切られると、どうしたって自分のセクシュアリティを意識してしまう。
 こんなにも屈辱的な思いをするのは、自分がゲイとして生まれてきたからなんだ――。
 帰り道、僕は真樹のことをブロックした。
 
 それから半年が経つ間、僕は三人の男とセックスをした。中には相性がいい男もいたし、付き合おうと言ってくれる人もいたけれど、そんな気分にはなれなかった。

 担当する雑誌の校了で帰りが遅くなってしまった日のことだった。校了直前、連載ページの原稿に重大な誤植が見つかり、大慌てで修正対応をした。なんとか間に合い、京王線に乗り込んだのは二十三時を過ぎる頃だった。八幡山駅で降り、自宅マンション近くのコンビニに立ち寄ると、そこに真樹がいた。入り口付近に立つ真樹は、僕を見つけると、眉尻を下げて駆け寄ってくる。

「敬太!」
「真樹……。何やってんの」
「敬太のこと待ってたんだ」
 もうすぐ日付が変わるところだった。
「こんな時間まで? てか、住所は教えてなかったよね」
「うん。でも最寄り駅は聞いてたし、駅の近くのコンビニにいれば、いつかは会えるかなって……」
「いや、コンビニって何軒もあるじゃん。それを虱潰しらみつぶしにしてたってこと?」
 真樹は申し訳なさそうにして頷く。
「……ストーカーじゃん」
 違うよ! と真樹は顔を上げ、でも、再び項垂うなだれる。
「そう言われても仕方ないよな……」
 悪さをして飼い主に叱られている大型犬みたいに悲しそうにする真樹を前にして、僕は噴き出してしまう。この頃にはもう、真樹への怒りも鳴りを潜めていた。
「とりあえず、うちに来る?」

 コンビニで缶チューハイを数本買い、僕は真樹を連れて帰った。真樹を家に上げるのは初めてのことだったし、家の中はあまり片付いていなかったけれど、もう別に気取る必要もないかなと思っていた。話をして納得すれば、真樹も大人しく帰るだろう。
 氷を入れたグラスにチューハイを注ぎ、真樹に差し出す。
 真樹はそれを一気飲みし、叩きつけるようにしてグラスを置く。

「ちょっ、大丈夫? 酔い潰れても泊めないからね」
「敬太」
 真樹はどこか覚悟を決めたような表情をしていた。それを受けて、思わずこちらも身構えてしまう。謝るのか、泣いて縋るのか、あるいは脅すのか。何をされたとしても、こちらは冷静に話をして、真樹を帰すだけだ。そして、今日が本当のおしまい。これっきり、真樹と会うことはない。
 そんな決意は、真樹の予想外の言葉で脆くも崩れ去った。

「俺、離婚したんだ」

「……は?」
「だから、離婚した。先月」
 結婚していると告白されたとき以上に、理解が及ばなかった。この男は一体何を言っているのだろう。
「離婚、したの……? なんで? もしかして、僕のせい?」
「違う。これは俺の問題。前から考えてたんだ。だから、敬太が気に病む必要はない」
「いや、気に病むも何も、そんなこと頼んでないし」
「うん。だから俺の問題なんだ。とにかく離婚して、俺はもうフリーになった。だから――」
 真樹は眉間に皺を寄せ、たっぷり間を置くと、やがて口を開いた。

「だから、もう一回、俺と向き合ってくれませんか?」

 その言葉に心が揺らぐのを感じる。この半年で真樹への思いは断ち切ったはずなのに、それでも、真樹との未来を想像してしまう。肉を焼きながらビールを飲み、たくさん笑った瞬間のことを思い出してしまう。もう一度あの時間を過ごせるかもしれない、あんな時間をこれから積み重ねていけるかもしれない。

「奥さん……、元奥さんの名前はなんていうの」
「……佳乃子」
 佳乃子さん。それが、真樹が一度は愛した女性の名前。真樹は彼女のことをどうやって愛したのだろう。彼女とどんな時間を過ごし、何度肌を重ねたのだろう。それを想像すると、身が焦がれていくようだった。嫉妬心が渦巻く。僕にはできない結婚、、というものを真樹との間で叶えた女性。たとえ別れてしまったとしても、佳乃子さんと僕との間には、到底越えることのできない壁がそびえているように感じた。
 無性に腹が立つ。この怒りは同性婚ができない制度に対するものか、佳乃子さん個人に対するものか判断がつかない。

 でも、とにかく、真樹が欲しいと思った。佳乃子さんが成し得なかった真樹との幸福な日々を僕が実現できたら――。

「佳乃子さんは納得してるの?」
「それはわからない。でも……、考えた結果、離婚するのが最善だと思ったから」
「二人の事情は知らないけど、それでも、真樹は一人の女性を傷つけたんだと思う。わかってる?」
 真樹は黙ったまま頷く。叱られている子どもみたいだ。
 そんな真樹を見て、庇護欲が掻き立てられる。

 僕は項垂れている真樹にそっと近づくと、両手で真樹の顔を掴み、こちらに向き直らせた。真樹は今にも泣き出しそうな表情をしている。そんな真樹に、僕はゆっくりキスをした。レモンサワーの風味がする。

「罪悪感があるなら、一緒に背負うよ」

 そう言うと、真樹は顔をくしゃくしゃにして泣きながら笑った。


 僕はようやくベンチから腰を上げ、受付へと向かった。先程まで訝しげに僕を見ていた受付担当者に会釈をし、記帳をする。
「このたびはご愁傷さまでした。突然のことだったので心の準備ができず……」
「とんでもないです。本日はお忙しい中、ご足労いただきありがとうございます。……真樹さんも喜ばれると思います」

 あらためて一礼し、僕はホールへの扉をそっと開ける。と、読経の声が一際大きくなった。
 会場を見回すと、親族席に座る遺族と目が合う。頭を下げ、僕は一般席の端に座った。
 気づかれないように、目線を親族席に向ける。手前に座っている高齢の男女はおそらく、真樹の両親だろう。恰幅のいい父親は毅然と前を向き、少しやつれた印象のある母親は俯き加減で、時折、目元をハンカチで拭っている。その隣に座っているのは真樹の姉だろうか。幼い頃からあまり喧嘩もせず、真樹は常に慕っていたと聞いたことがある。大きなマスクで口元を隠しているものの、眉と目の形は真樹そっくりだった。
 でも、元妻である佳乃子さんらしき人は見当たらない。それも当たり前か。元妻とはいえ、もう赤の他人だ。親族席になんて座っているわけがないし、そもそも葬儀に来ていないのかもしれない。

 僧侶の読経が終わり、焼香が始まった。参列者が一人ずつ前に進み、焼香をしていく。その列に加わる。
 なるべく見ないようにしようと思っていたものの、祭壇に飾られた真樹の遺影が目に入ってしまう。そこにいた真樹は満面の笑みを浮かべていた。でも、僕の前で見せる笑顔とはどことなく違うように見えた。笑ってはいるものの、どこかに心を置いてきたような、懸命に作り上げているような笑顔だ。

 前の人が深く頭を下げ、去っていく。僕の番だ。焼香台の前まで進むと、遺族に一礼し、抹香を香炉にくべる。目を閉じ合掌すると、真樹の声がした。

 ――敬太、ありがとうな。

 いつか言われた言葉だっただろうか。それとも、僕の想像だろうか。
 どちらかわからないまま、ぎゅっとつぶった両目から涙が滲む。

 今、真樹の親族たちは、僕のことを仲の良かった友人だと見なしているだろう。
 そうじゃない。そうじゃないんだ、と叫び出したいのを必死で抑える。

 真樹と付き合った一年間、本当に幸せだった。喧嘩もたくさんしたけれど、僕らは心から信頼し合えるパートナーになっていたと思う。互いに弱さも開示し、不確定な未来についての希望を口にした。結婚というゴールこそ見えていなかったものの、突き進む先にはそれに相当する何かがあるだろうと信じていた。

 でも、こうして最期の瞬間には、ただの友達、、だと見なされてしまう。実の両親にも見せられないような恥ずかしい姿さえ知っているし、心の深いところでつながっていたのに、パートナーとして過ごしてきた時間がなかったことにされてしまう。それはひどく屈辱的で無力感さえ覚える。
 仕方ない。そんな現実に抗うだけの強さを、僕は持ち合わせていない。そのことが情けなくて、真樹に対して申し訳ないとすら思う。
 打ちのめされたような心持ちになりながら深く頭を下げると、僕は席に戻った。

 そうして出棺の儀が始まった。一般の参列客として僕はただその様子を見守る。
 遺族たちが棺に供花を手向けていく。と、真樹の母親らしき女性が一般席を振り返り、口を動かしている。注意深く見ていると、その口は「佳乃子ちゃん」と動いているようだった。
 もしかして――と思っていると、斜め前に座っていた女性が、静かに立ち上がった。ハンカチを口元に当て、俯き加減で棺に近づいていく。艶のある長い黒髪が揺れる。

 あの人が、佳乃子さん――。

 佳乃子さんは控えめな態度で遺族に混じり、出棺の儀に加わる。
 そうか、やっぱり来ていたんだ。
 佳乃子さんは時折涙を拭いながら、それでも気丈な態度で真樹を見送ろうとしていた。
 別れた元夫のことを見送る気持ちなんて、僕にはわからない。でも、羨ましかった。たとえ関係が破綻していたとしても、こうして親族から元パートナーとして認められている立ち位置が、とにかく羨ましかった。どんなに望んだとしても僕には手に入らないものを、佳乃子さんはこうして手にしているのだ。

 やがて、真樹を収めた棺が運び出されていく。それに付いていくようにして、僕らもホールを出る。棺が霊柩車に乗せられると、大きなクラクションが鳴らされた。真樹の一生に区切りをつけるための句点のような音だった。
 霊柩車が発車すると、参列客が後に残される。いくつもの後ろ姿に、佳乃子さんのものもあった。
 参列客が一人、また一人と去っていく中、佳乃子さんはその場に縫い付けられたように突っ立っていた。
 このまま立ち去ろうかと逡巡し、でも、と踏みとどまる。そうして僕は、佳乃子さんに声をかけた。

「あの」
 振り返った佳乃子さんの瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。葬儀の場には不釣り合いなくらい完璧にメイクされていて、隙がない。でもそれが、彼女の弱さを際立たせているような印象だった。弱さを隠すための武装。そんな言葉が浮かぶ。
「……佳乃子さん、ですよね」
 僕の問いかけに、佳乃子さんは「はい」と呟く。

 別に言う必要なんてない。むしろ、言ってしまうことで、真樹の人生を汚してしまうかもしれない。
 でも、言わずにはいられないとも思った。この場にいるすべての人が僕のことを「真樹の友人」だと思っている。だからこそ、誰かに知ってもらいたかった。僕は真樹の友人なんかではなく、真樹のパートナーだったということを。
 それをよりによって佳乃子さんに伝えようとしているのは、僕の中に嫉妬があったからだ。
「真樹さんの、生前のパートナーだった、敬太です」
 言った瞬間、自分はなんて醜いんだろうと思った。
 あなたと別れた真樹は、その後、男を愛したんですよ。言外にそれを伝えることで、僕は佳乃子さんに対してマウントを取ろうとしている。
 どこまでも醜いエゴイズムの塊。
 取り乱されてしまうだろうか。気持ち悪い、今すぐ消えてとさえ、言われてしまうかもしれない。それでも構わない。

 でも、佳乃子さんは泣き喚くでもなく、怒りを滲ませるでもなく、ただただ脱力したようだった。ああ、そうだったんだ、とでも言うように。
 そして、とても穏やかな目で僕を見つめた。

「……真樹は、幸せでしたか」

 想定外の返事だった。
 真樹と付き合っていた一年間、僕はとても幸せだった。でも、真樹が同じように感じてくれていたかはわからない。こういうとき、嘘でも「幸せでした」と答えるのが大人なのかもしれない。それが僕にはできない。
 だって、佳乃子さんのような女性が与えられる幸せを、僕は真樹に与えられなかったから。あのまま付き合っていたとしても、それが叶う未来なんて、やっぱり見えていなかったから。

「さあ、どうなんでしょう」

 そう答えるので精一杯だった。悔しいけれど、それしかできない。
 でも、佳乃子さんは優しく笑って、こちらに手を差し出す。指先までピンと伸びており、爪は淡い桃色で塗られていた。
 どうして? 拒否されても、蔑まれてもおかしくないのに、どうして?
 困惑しながら、でも、僕も同じように手を差し出していた。そうして僕らは固く握手をする。
 佳乃子さんは言った。

「もっと、真樹の話を聞きたいです。……敬太さんにとっての真樹の話を」

 この人は一体なにを考えているんだろう。
 穏やかな微笑みの裏にある感情がまったく読めなかった。
 でも、共感できる部分があった。

 ――真樹の話を聞きたい。

 僕もそう思っている。
 真樹の死を受け入れるには、知らないことが多すぎる。僕と出会うまでの真樹がどんな人生を送ってきたのか、それをたっぷり話してもらう前に、真樹は逝ってしまった。だから、僕の中には空白がある。それを埋めなければ、真樹を見送ることなんてできない。
 そう思ったら、自然と口が開いていた。

「僕もです。佳乃子さんにとっての、真樹の話を」


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