私が愛した彼、僕を愛した彼│第一章
あらすじ
離婚した元夫の訃報を受け、葬儀に駆けつけた佳乃子。「元妻」という立場で葬儀に参列することに居心地の悪さを感じながらも、佳乃子にはやるべきことがあった。それは、離婚後の夫が「大切に思っていた人」を見つけ出すこと。その新しいパートナーもきっと、この会場に来ているだろう。元夫はどんな女を愛したのか、彼女と比べて、自分はどこが劣っていたのか。それを知るために、佳乃子は静かに目を光らせる。が、そんな佳乃子の前に現れた元夫のパートナーとは、静謐な雰囲気を漂わせる敬太――男性だった。そうして二人は、最愛の人を亡くした痛みと向き合うため、それぞれの思い出を語り始める。歪な交流の果てに、二人は何を見つけ出すのか。宿木雪樹と五十嵐大による共作。
第一章
読経は句読点もなく、続く。
嘘みたいに明るく照らされた祭壇で、花に囲まれている真樹の遺影を眺めても、涙腺がうまく働いてくれない。誰かがすすり泣く声が耳に障るたび、自分を責められている気がした。視線を手元に落とせば、左手の薬指がにぶく、細く光っている。過去の誓いの名残を、親指でなぞってみる。私自身の体温が移って、なまぬるい。せめて、冷たくあってほしかったのに。
真樹が交通事故で亡くなったという報せは、真樹の母親から届いた。離婚した相手の母親からの着信履歴が残っているのを会社で確認したとき、まるで状況が理解できず、混乱した。退勤後すぐ折り返し電話をして、涙ぐみながら事情を話す彼女の声を聞いているときも、やっぱり私は状況を理解できずにいた。突如としてひんやりした感情が胸を占めたのは、その話の中盤だ。
〈真樹が、エンディングノート……っていうのかしら、もしものときにどうしてほしいか書いてあるものを、遺していたの。私は受け取るまで、知らなかったんだけれどね……。中にはね、お葬式に呼んでほしい人の名前や連絡先……そういういろいろが、書かれていたの。佳乃子ちゃんも、その中の一人で。……離婚したとき、とてもつらい思いをさせてしまったことは、よくわかっているつもりだから、無理にとは言えない。けれど、真樹の最期のわがままだと思って、見送ってくれたら、嬉しいの〉
私が知るかぎり、真樹は先々のこと、それこそ自分が死ぬときのことを考えるような人ではなかった。少なくとも夫婦だったとき、私はエンディングノートの存在を知らされていない。そして真樹の母もまた、受け取るまで知らなかったのだという。
……家族ではない誰かが、エンディングノートを託されたということ、ですか?
そんな不躾な質問を、息子を亡くした母親にするわけにはいかない。ところどころ涙に詰まって聞こえづらくなる、受話器越しの細く老いた声に、ただ耳を傾けるしかなかった。だから葬式を迎える日まで、真樹が「この世にもういない」という事実と向き合うよりも、「誰がエンディングノートを託されたのか」という疑問に脳を焼かれ続けた。
葬式当日、開式よりも早く会場に到着した。真樹の家族は親族との付き合いを重視するタイプではなかったから、何かと人手が足りないのではないか、と考えてのことだった。お節介かもしれないが、一時とはいえ家族だった身だ。できることはしたいと思っていた。しかし、会場には予想よりも多くの親族が集まっていた。最低限の親族を招待した結婚式のときよりも多い。彼らは真樹のエンディングノートに名前が書かれていたからではなく、家族が報せたから参列したのだろうと想像する。
斎場のスタッフから「親族の方はこちらへ」と声をかけられ、私の体はわずかに反応してしまう。真樹の母は、その一瞬を見逃さなかった。
「佳乃子ちゃん、こっちに……」
私の肩に震える手を添える真樹の母親の表情は、離婚する前と変わらない。私のことをほんとうの娘のように受け入れてくれる人だった。しかし私は、戸籍上もう家族ではない。私の目は無意識に、彼女の周辺にいる親族の表情を確かめてしまう。
真樹の父は重い表情で斎場スタッフとのやりとりを始めており、真樹の姉は私たち二人と父、そして斎場全体の動向に気を配っているようで、視線を忙しなく往来させていた。そして親戚や祖父母と思われる人々は、私のことを訝しげに横目で観察している。
私は真樹の母親の皺が刻まれた指を丁寧に、優しくはらい、口元に曖昧な笑みを浮かべた。
「いえ、私はもう、家族ではないので」
「そんなこと、言わないで……」
「お気持ちだけで十分です。ありがとうございます」
こういうとき、いつも私は口角をほんの少し上げる、形式上の笑顔で場を繕ってしまう。どうすればいいかわからない、ほんとうは不安でたまらないとき。この場で泣いたり、この場から逃げたりするよりはましだろう、と言い聞かせながら。呼ばれたから恥を忍んで来たのに、「元嫁がしゃしゃり出てきて」「離婚したくせに」と言いたげな視線が、私に集まってくる。いいや、こいつらのために来たんじゃない、真樹のために来たんだ、心の中で繰り返し唱えながら、笑みを浮かべ続ける。
できるだけ目立たない位置の一般席に腰を落ち着けて、背筋を伸ばす。 横顔のラインが美しく見える角度をセットする。視線を落とせば、ウォータープルーフのマスカラでさりげなく、か細く伸ばされたまつげが、照明に照らされて物憂げな影を落としてくれるだろう。
一般席の席数は、それほど多いわけではない。ざっと三十席くらいだろうか。しばらく時が経ち、少しずつ席が埋まっていく。真樹の職場の上司、同じチームで付き合いの多い同僚数名、高校時代の親友二人組。彼らの顔は、私も識別できた。重く沈んだ空気は、人数が増えるごとに密度を増す。布のこすれる音、途切れ途切れのささやき声。すべて握りつぶしたように秘められている。
形式通りに葬式の段取りが進められ、読経が響き、やがて焼香が始まる。なるべく視線を動かさないように気を配りつつ、一人ずつ前に進む参列者を確認していく。特に女を。容姿の優劣、所作の美しさ。今ここで審査できる数少ない要素において、どの女に対しても「こいつじゃないだろう」と安堵を感じた。そんなことをこの場でしている自分自身に対する恥が、胸を焼く。けれど止めることができない。自分の死に思いを馳せて真樹が書いた、大切なノートを託された人物が誰なのか、想像することを。
自分の番が来る。そっと薬指の指輪を外した。遺族の前で、これを着けてきたことをアピールするほどみっともない女にはなりたくなかった。かといってこの指輪をしなければ、私はここに居ていい人間だと思えない。結婚していた証にすがらなければ立っていられないほど、私は弱かった。
席を立ち、祭壇の前へと歩み、遺族に一礼をする。真樹の父は唇を結んで眉間にしわを寄せたまま、斜め下を睨んでいる。真樹の母と姉は、私の目を見てくれた。彼女たちは真樹と目元がよく似ている。温もりを感じる目の奥に、形の定まらない思い出の輪郭がいくつかあって、私たちは確かに一度は家族だったのだな、と胸が疼く。
視線を中央に戻せば、真樹が明るい祭壇の中央で、笑っている。抹香がざらりと指に刺さる。額にそれを持ち上げたとき、ふと、額に真樹がキスをしてくれたときのことが、昨日のことのように蘇る。
――佳乃子、大好きだよ。
優しい感触だった。少しでも力を込めたら壊れるものを扱うような、丁寧さがあった。彼の唇は、とてもあたたかかった。唇以外の場所にそっと落とされるキスに、私は少なからず、愛情を感じた。……でも、あの人は、一度も「愛している」とは言わなかった。
遺影の真樹と、目が合う。ああ、この写真。そうだ。あの旅行のときの一枚だ。
結婚四周年記念という理由をつけて北海道旅行を提案したのは、私のほうだった。私たちはコロナ禍のタイミングで結婚して、私のほうは社会人になって間もなかったので、結局新婚旅行にも行っていない。生活も落ち着いてきたし、そろそろ羽根を伸ばしてもいいんじゃないか、と。五年のほうが区切りがいいのはわかっていたが、私はもう、我慢ができなかった。
真樹との生活は、穏やかで何不自由なかった。真樹は印刷会社の法人営業部門で働いていて、繁忙期は帰りが遅くなることもあったが、できるかぎり家族との時間を優先する人だった。一方の私も大学時代から真樹と交際していたので、定時に帰りやすくリモートワークも多いという条件がそろった、IT系企業の事務職に就いた。とはいえ、私が家事担当だったというわけではない。真樹は自然に家事をやる人で、彼が作ってくれる料理は美味しかったし、気づいたら洗濯物が畳まれていたり、トイレが綺麗になっていたりすることも多い。真樹がもともと暮らしていた1LDKで始めた二人暮らしは、決して贅沢ではなかったが、心地のいい日々だった。
じゃあ、何が我慢できなかったか。私はそれを、真樹に一度も言えなかった。
ベッドに入って真樹の腕の中に顔を埋めれば、「おやすみ」という優しい声が耳をくすぐる。その瞬間が、心から幸せだと思えていた時期もある。けれど、いつからかベッドが眠る場所でしかないことに気づいてからは、その穏やかさが不安につながるようになっていった。
最初からではない。少なくとも、結婚して一年間は順調だったはず。そういう行為をいつしたかなんて当時は意識していなかったから、正確なことはわからない。けれど「いつか家族がもう一人増えるんだろうな」と胸に淡い期待を抱いて、就職先の産休・育休制度なんかをチェックしていたのは、おそらく一年目だけだったと思う。
二年、三年と月日が経つにつれて、自然と体を求め合う夜が一切ないことが、明らかな違和感として浮かび上がってくる。いつかは新しい家族を、私たちの子どもを……という希望が薄くぼやけて、輪郭を失っていく。
二年目の秋頃、マンションの契約更新のタイミングで真樹が「そろそろ二人で暮らしやすいところに引っ越そうか」と提案したことがある。その話しぶりから、彼の中で家族が増える想定がないことを知った。見せられた間取りは2LDKで、それぞれの部屋にベッドが置けるゆとりがある。そこに強い意味を感じてショックを受けたことを、私は顔に出さないよう努めた。
「セックスレス」という言葉を当事者として受け止めたのは、三年目だったと思う。夜中に一人ベッドから抜け出しては、そのキーワードを入力してSNSの投稿を調べ尽くした。
どのくらいの期間が空いたら、問題なのか。自然と回復するものなのか。同じ不安を抱える人たちの内情や体験談を見るに、セックスレスという問題は、相手に開示した瞬間、解決の糸口を失うらしい。
行為を強要することが、より相手の性欲を減退させるという。その道を先に行った女たちは、終わりのない苦しみと絶望を、汚い言葉に変換して吐き出していた。インターネットの海にいくら吐き出したって、何も変わらないのに。その愚かさを見たからこそ、自分は絶対に真樹を責めない、真樹に本音を言わない、と心に決めた。
私がぐずぐずと言葉にできない感情を腐らせていく間、真樹は変わらず、私との生活を慈しんでいた。今にも口から飛び出そうな怪物を抑え込む私と、穏やかな笑みを浮かべる天使のような真樹。そのギャップが、さらに私を追い詰める。
真樹が望まないことを強要する自分勝手さを恥じる気持ちと、こんなに苦しんでいるのに救ってくれない彼に対する怒りが、交互に大波となって押し寄せ、心は左右にぐわんぐわんと大きく揺れ続けた。その揺れの真ん中で私は目を回して、嘔吐し続けていた。
私が北海道旅行を提案したのは、この苦しみに終止符を打ちたかったからだ。私たちは共に生活するパートナーになった。それが真樹の性欲のスイッチを切ってしまったのかもしれない。であれば、非日常に身を置けば、状況が変わるかもしれない。だから旅行に誘った。
それに加えて、容姿の魅力を最大値まで高めようと考えた。女としての魅力が足りないから抱かれない、というのが一番わかりやすいし、解決しやすい仮説だったからだ。自分ができる努力はすべてやる。新しい下着を買い、結婚式以降ゆるみ続けていた体を絞るために、退勤後にジムに通って運動をする。美容室、エステサロン。旅行に行くための準備とは思えないほど、自分の容姿を磨くことに専念した。
そうやってがむしゃらに努力を重ねることで、「あきらめる」という決断への準備をしていた。これだけ自分でできる努力をしてもだめなら、もう何をやってもだめだろう、と思えるように。あきらめることができれば、そのあとはきっと波風立てずに二人で暮らしていける。
そうまでして、私は真樹と離婚したくなかった。彼を憎みたくなかった。彼を好きな私でいたかった。どうせ墓に入るまで一緒にいるんだ。生理が終わって、白髪が増えて、腰が曲がっても一緒にいる人なんだもん。今、セックスできないことなんて、たいした問題じゃないだろう。そう、たとえ子どもがいなくたって……。
「……痩せた?」
旅行前日、ベッドの中だった。真樹が私の体に関わることを言うのは、初めてだったと思う。サイドテーブルの間接照明は、まるい、オレンジ色。枕に頬を預け、互いに向き合っていた。照明は真樹の後ろ側にあるから、私からは、真樹の柔らかい猫のような髪の毛に光る線が見えて、表情は逆光に沈んでいる。
「ちょっとね」
答えた瞬間、目頭が熱くなった。胸の奥底が、耐えられないほどに痛んだ。横向きで寝ていなければ、抑えられたかもしれない。けれど、涙が流れるまでの時間が短すぎて、止めることができなかった。目頭から鼻筋へと伝っていった涙は、やがて枕に吸い込まれていく。その一筋だけだった。
真樹の手が私の肩に触れて、抱き寄せられる。
「ごめんね」
腕の中で、くぐもった謝罪を聞いた。真樹の胸の中はあたたかくて、優しくて、私の本音をぶちまけるには、あまりにも美しすぎる。
ねえ、真樹。何に対する謝罪なの? もしも私を抱けないことに対する謝罪なら、女として生きている私のすべてを捨ててから、あなたの目の前で死にたいよ。
「……明日が楽しみすぎて、泣いちゃった」
私は真樹を精一杯抱きしめ返した。隙間がなくなるように、きつく、きつく。大きくて、分厚くて、私の腕には余る体だなあ、と思いながら。そうして私が抱きしめて、一つになりたいという欲望がそこにかすかに灯った瞬間、真樹の体は逃げるように、私の体から距離を置こうとする。それはほんのわずかな反応にもかかわらず、私の心は酸でもかけられたようにじゅわじゅわと激痛を伴って溶けていく。これ以上の痛みには耐えられないから、私は真樹の体を手放す。あきらめる。あきらめるんだ。私はサイドテーブルの間接照明のスイッチを、黙って切った。真樹の表情は、最後まで見えなかった。
読経。異様に明るく照らされた祭壇が、現実に私を引き戻す。
遺影の真樹は、あきらめた私が、嘘という武装をして二人で過ごした、最後のひとときを切り取ったものだ。
北海道の広大な景色に二人で声をあげてはしゃぎ、お腹がはち切れるほどに美味しいものを食べ尽くして、ベッドに飛び込んで気絶するように眠りに落ちた。数日間、私は彼を心から尊敬する友人だと思って接した。彼はずっと笑顔だったけれど、瞳の奥が潤んでいた。
旅行から一年も経たず、離婚を切り出したのは真樹のほうだ。一方的で、明確な理由も告げられず、話し合いの余地もない提案。泣いて縋る、怒りに任せて拒絶する、理由を問いただす。私は考えうるかぎりのすべてのアプローチを試した。私だけではない。互いの両親の介入もあったし、共通の知人が第三者として入り、話し合いを取り持ってくれた日もある。それでも真樹は、頑なだった。決して感情を荒立てることはないけれど、離婚する決断だけは変えなかった。
私は離婚を切り出されて以降も、セックスレスという問題について彼と話し合うことができなかった。女としての魅力をもう私には感じないのだろう、という絶望が先に立って、今さらそれを話題に出したって、何の解決にもならないと諦めてしまっていたからだ。
真樹にとってのターニングポイントはいつだったのか考えると、やはりあの旅行だった気がする。彼の体を求めないと決めた日から、真樹との心の距離は一気に遠くなってしまった。だからといって、拒絶されるとわかっていて求め続けるほど私は強くない。つまりもう我慢の限界だったし、真樹もそれを想像していたのだと思う。
……あの旅行。最高に幸せで、不幸だったよね。この写真でお別れするなんて、真樹、嫌だったんじゃない? もっといい写真があったんじゃない? 私と別れたあと、もっと心から笑った瞬間が、あったんじゃない? エンディングノートを託した人と一緒に。私は初めて、泣いた。遺影の前で、ぼろぼろと泣いた。鮮やかに蘇った過去は、ほんの一瞬で消えて、色とりどりの花に埋もれた祭壇だけが現実として眼前に迫る。
私は真樹から愛されていたんだろうか。確かに幸せな日々はあったはずなのに、今では全くわからない。そして真樹はもう、この世にいない。確かめることも、できない。
焼香の時間が終わり、僧侶が退場する。真樹の父による喪主の挨拶を上の空で聞きながら、泣きすぎて腫れた目の熱が、ようやく引いていくのを感じる。じんわりと鼻の奥がしびれている。
せっかく丁寧に仕込んできた顔は、きっとぐちゃぐちゃだ。エンディングノートを託された誰かが嫉妬するくらい、美しい女でありたかったのに。失敗だな。こんな汚い、浅ましい、愚かな私は、真樹に愛想を尽かされて当然だ。誰かもわからない誰かと、独り相撲をして勝手に敗北している自分が、笑えてしまうくらい無様だった。
出棺の儀が始まる。故人との最後の別れ。供花を棺に入れていく親族の背中を呆然と眺めていると、真樹の母親と目が合った。「佳乃子ちゃん」と、その口の形が私の名を呼んでいる。今回の様式なら、一般の参列者はこの流れに参加しないはずだ。動揺して周りの席を見ていると、今度は声にはっきりと出して彼女は「お願い」と言った。
ぎこちない動きで、立ち上がる。足元がおぼつかない。棺から視線を外すことができないまま、一歩ずつ近づいていく。角度が徐々に変わっていって、やがて真樹の顔が見えた。
穏やかに、眠っている。休日によくソファで昼寝をしていたときの顔だ。私は昼寝をしない主義だから、隣りに座って飽きもせず、ずっと見守っていた。
なんだ、眠ってるだけじゃん。
私は供花を一輪手に取り、そっと首筋に添えた。なだらかな輪郭、そこを撫でると、よく「くすぐったい」と逃げられた。
今は、微動だにしない。
せっかく乾いたはずの涙が再びこぼれ落ちて、漏れ出てしまいそうな声を、なんとか両手で抑えて殺す。いくつもの手に支えられて運び出されていく棺が、涙のせいで歪んでいく。
霊柩車のクラクションが空に響き渡る。青い。北海道で見た空を思い出す。どこまでも遠いくせに、手を伸ばしたらべったりと手のひらが青色に染まってしまいそうな、密度の濃さ。
もう二度と会えないってわかっていたら、意地でも離婚届を書かなかっただろうか。無理やり迫って、子どもをつくろうとしただろうか。違う、そうじゃない。そんなことを想像したら、たどりつきたくない答えが見えてくる。
結局、私と別れることが、きっと真樹にとって一番の幸せだったんだ。
それを受け止めてしまうことを、心が拒絶する。じゃあ、どうして私と結婚したのか。そもそもどうして私と交際したのか。過去へ、過去へと、すべてが後ろに倒れていく。ドミノみたいに。嫌だ。真樹との時間のすべてを否定したくない。どんなに疑問符を投げかけたって、本人から答えを聞くことはできない。こんなこと考えていたってどうしようもない。どうしようもないのに。
「あの」
私への呼びかけだった。霊柩車を見送ったあと、棒立ちのままだったことに気づく。周囲の一般の参列者は、おのおの帰路につき始めている。声をかけてきた相手は、見知らぬ顔の男だった。真樹と同じくらいの身長。目線をあわせるために上げる自分の顎の角度に、懐かしさを感じる。
喪服に包まれていることもあってか、男性の顔は妙に蒼白く見える。整った顔だけれど、疲労と悲しみが何層も重なった表情は、人形のようで、どこか怖さすら感じる。
「……佳乃子さん、ですよね」
静かながら、芯のある低い声だった。「はい」と肯定した声は、かすれた。
男性は私の目を見て息を吸い込んだあと、ためらうように視線を伏せ、しばらく沈黙した。まるで海が凪いでいるのを見つめているような、静かな気持ちになる。彼をまとっている雰囲気が、そうさせるのだ。やがて決心したように彼は唾をひとつ飲み込んだ。その喉仏の動きに、やけに目が引き寄せられる。
「真樹さんの、生前のパートナーだった、敬太です」
……ああ。
疑問と後悔、悲しみがないまぜになって、はち切れそうだった心が、瞬時に空っぽになる。何もない空間のように。焼香のとき、誰に対しても「こいつじゃないだろう」と傲慢な審査をしていた私の心が、今、すべてを受け入れている。
この人だ。エンディングノートを託されたのは、この人なんだ。
彼の目を見つめた。彼もまた、まっすぐ私を見つめ返している。その目で、真樹がほんとうに屈託なく笑う瞬間を、あなたは最近まで見られていたんですね。どうにも体温が高すぎて暑苦しいあの人に、最近まで触れられていたんですね。
嫉妬心が湧き上がるものだと思っていた。エンディングノートを託された人を前にしたら、もっと煮えたぎるような感情にのまれると想像していた。けれど、私の中に広がるのは、ただ、ただ静かに波打つ海のような気配だけ。震える唇を開いて、私は訊いた。
「……真樹は、幸せでしたか?」
愚かな質問だ。不幸にした当本人が、何を今さら。それでも、私は問わずにはいられなかった。私が死ぬまでずっと見ていたかった、幸せな真樹が、この人の前には存在したのか、それだけが知りたかった。
それまで無表情のままだった彼の顔が、わずかに表情を崩し、歪む。あきらめたような、あるいは。
「さあ、どうなんでしょう」
その一言には、私がどうしても真樹の前で言葉にしきれなかった、ぐちゃぐちゃにすりつぶしてきた想いと、似た色あいを感じた。
今ごろ、真樹は燃えているのだ。はりのあった肌も、大きな手も、私を見つめてくれた目も。灰になって、ただの骨になっていく。それなのに私たちは、こんなにも処理しきれないものを胸に抱えたまま、呼吸し続けている。
どうしてそうしたのかはわからないけれど、私はそっと、握手をする角度で右手を差し出した。彼は驚いたようにその手を凝視していたが、やがてぎこちない動きで、手を重ねる。
少しだけ握りしめてみると、真樹とは真逆の、冷たい手だった。厚みも、指の長さも、何もかもが違った。
この人はきっと、きっと真樹に愛されたのだ。この人の中に、答えはあるのだ。私は握手した手に一瞬力をこめ、すぐ脱力する。そして、言った。
「もっと、真樹の話を聞きたいです。……敬太さんにとっての真樹の話を」
今度は敬太さんの手に、力が入る。驚くほど、強く。
「僕もです。佳乃子さんにとっての、真樹の話を」
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