私が愛した彼、僕を愛した彼│第四章
第四章
隅田川沿いに整備された隅田川テラスへ降りると、僕らは空いていたベンチに座った。
目の前に広がる隅田川は夕焼けに染め上げられ、怖いくらいに美しかった。それをこうして真樹の元妻である佳乃子さんと一緒に眺めていると、現実感がどんどん薄れていく感じがした。
振り返れば東京スカイツリーが望める。対岸には複数のカップルがいて、みんな、談笑しているようだ。日没まではあと少し。きっと、スカイツリーがライトアップされるのを待っているのだろう。
隅田川から吹いてくる風は少し湿っていて、冷たい。初夏とはいえ、この時間はまだまだ肌寒い。隣に座った佳乃子さんは、自分を抱くようにして両腕を擦っていた。
「あの……、よかったら、これ」
僕が脱いだジップアップパーカーを差し出すと、佳乃子さんはとても驚いた表情を浮かべた。
「え? いやいや、大丈夫です」
「寒そうだし。……あ、よく知らない男のパーカーなんて、ちょっと気持ち悪いですよね」
「いや、そういう意味じゃなくて、それだと敬太さんTシャツ一枚になっちゃうし」
「僕は大丈夫なので、もし嫌じゃなければ着てください。こんなところに連れ出したの、僕なんで」
「……じゃあ、遠慮なく」
佳乃子さんは僕のパーカーを受け取ると、ワンピースの上から羽織った。
「あ、てか、ごめんなさい。こんなところに座らせちゃって」
「え、ううん! 気持ちいいです」
その姿を見ながら、僕は思わず吹き出してしまう。
「え? なにかおかしいですか?」
「いや、僕、女の人と付き合ったこともデートしたこともなかったから、こういう時どうすればスマートにできるのかわからなくて。自分、すごいぎこちなく見えてるんだろうなって思ったら、なんかおかしくなっちゃいました。すみません」
佳乃子さんは曖昧に微笑む。
と、次の瞬間には、神妙な面持ちでおずおずと口を開いた。
「あの……、踏み込んだことを質問してもいいですか?」
「もちろん」
「敬太さんって、一度も女性と付き合ったこと、ないんですか? そういう気持ちになったことも?」
「ないですね。……あ、いや、厳密に言うと、中学二年生の頃にクラスメイトの女子から告白されて、三週間だけ。でも、そんなの付き合った、には入らないですよね」
相手はバドミントン部のエースで、ショートカットがよく似合う快活な子だった。一方の僕は帰宅部で、取り立てて目立つようなタイプでもなかった。周囲と比べて、勉強は少しだけできたけれど、それでもその他大勢の一人、スクールカーストの上位にいるような生徒たちからすればただのモブキャラみたいな存在だっただろう。だから、放課後に呼び出され、思いを告げられたときには狼狽えてしまった。
同級生の中にはカップルが何組もいたし、親しい友人が女子とデートしたことを意気揚々と打ち明けてくることもあった。キスやセックスの話題が少しずつ増えてくることにも慣れていた。思春期というのはそういうものらしい。でも、自分には無縁なことだと思っていた。
だって、その頃にはもう、自分は普通じゃないと自覚していたから。僕は、女の子を好きにならない。なんとなく覚えたマスターベーションの最中に思い浮かべるのは、格好いい男子生徒や男性アイドルの顔だ。最初のうちこそ戸惑ったものの、自分がゲイなんだと受け入れるのに時間はかからなかった。親から持たせてもらっていたスマホでこっそりSNSを覗けば、自分と同じような人たちが大勢いることがわかったから。だから、これが僕にとっての普通だ。ただし、周囲に知られちゃいけないこともわかっていた。
僕が生まれ育った東北の田舎町では、同性愛者なんて異端中の異端だった。所謂オネエタレントと呼ばれる人たちが活躍するようになり、家族も友達もみんな、それを笑顔で受け止めていたように思う。でもそれは、身近にそういう人がいないと信じているからだ。あの頃の同性愛者は、動物園の柵の向こう側にいるような存在だった。ライオンやヒョウのような猛獣を見て、笑っていられるのは、あっちの世界とこっちの世界とを区切る柵があるから。その柵が取っ払われて、猛獣たちの世界と自分たちのそれとが地続きであることに気づいてしまったら、みんな途端に恐怖する。もしも自分の同級生が、家族が同性愛者だと知ってしまったら、とてもじゃないけれど笑えないだろう。
多様性を受け入れられるのはいつまで経っても他人事でしかないからで、身近に迫った時、それはただの厄介事に変化してしまう。悲しいけれど、子どもながらにそう感じていた。
だから僕は、大学進学で地元を離れるまでは、自分のセクシュアリティを隠し通さなければいけないと思っていたのだ。
そんな自分に、同世代の女子からの熱い視線が向けられている。どうしたらいいのか、困惑した。
今思えば、きちんと断るべきだったのだ。でも、僕が呼び出された放課後の教室には、件の女子生徒の他に何人か同じバドミントン部の子たちがいて、告白を断るだなんて許さないという空気を醸し出していた。それに呑まれてしまった僕が頷くと、彼女たちは抱き合うようにしてはしゃいでいた。好きだと言われた僕だけが、なんだか取り残されているような気分だった。
そうして生まれて初めてできた彼女と一緒に帰ったり、昼休みには二人きりでお喋りしたりするようになったものの、三週間後にフラれた。
「敬太くん、私のこと好きじゃなかったの?」
最後に潤んだ瞳で見つめられ、僕は固まってしまった。
そう問い詰められる理由は容易に想像できた。僕が一向に手を出さなかったからだ。彼女のほうからそれとなく、「三組のあの二人、こないだキスしたんだって」とか「手とかつなぐのってまだドキドキするから、もうちょっとしてからだよね」などと水を向けられているのには気づいていたけれど、彼女に対してそんな欲求が沸き起こらなかった。彼女と一緒に帰った日はひどく気疲れしていて、そんな日に限って、お気に入りのゲイ向けエロ動画で何回も抜いた。脱力して何も考えなくて済む。僕にとっての賢者タイムは、罪悪感から解放される時間でもあった。
それ以来、僕は女性に気を持たせないよう、好意があると勘違いされないよう、細心の注意を払いながら生きてきた。それでも思いを寄せられることが何度かあったけれど、いずれもきっぱり断ってきた。
だから僕は、大人の女性と二人きりでこうして出かけたことがほとんどない。どうしたらいいのか、よくわからない。
「男同士だと、なんていうか雑にしても構わないというか、相手も自分と同じ身体を持ってるわけだから、多少しんどかったりしてもまあ男だし大丈夫だよね、って思っちゃうんですよね。だから寒いからといって上着を貸してあげることなんてなかったし」
「そっか……」
僕の言葉に納得したのか、佳乃子さんは隅田川の水面を見つめていた。
そして、「真樹も?」と呟く。
「真樹に対しても、そうでしたか?」
真樹は僕よりも身体が大きくて、溌剌とした印象がある男だった。だから、上着を貸してあげるような気遣いなんてしなかったし、それが気楽だった。
「そうですね。真樹なんて、ほっといても大丈夫そうじゃなかったですか?」
「それはたしかに」
笑いながら、佳乃子さんは目を細めた。目線の先には、真樹の姿があるみたいだった。
「でも……、真樹はいつだって、僕のことを気遣ってくれるような人だったんです。女の子扱いするというわけじゃないけど、僕を一人の大切な人として特別に扱ってくれた。……あの花火の日もそうでした」
「花火の日?」
「そう、隅田川の花火大会の日。あの日、僕らは二人で花火を見るつもりだったんです」
「……だから、ここに連れてきてくれたんですね。隅田川が、真樹と敬太さんにとっての思い出の場所、なんだ」
少しずつ夕日が沈んでいく。こちらを向いた佳乃子さんの瞳は、水面に反射する夕焼けを映し出すように煌めいていた。
真樹と付き合いだして半年が経つ夏の日だった。いつものように仕事終わりに待ち合わせをして、僕らは安居酒屋で焼き鳥をつついていた。
「敬太ってさ、花火とか好き?」
ほろ酔いで頬を赤く染めながら、真樹が言った。
「花火? う~ん、普通かも。子どもの頃は親と一緒にやったけどさ、あれって結構後処理面倒じゃん。今思えば、親もよくやってくれたなって思うよ」
「そうじゃなくて、打ち上げ花火。今度の土曜にさ、隅田川で花火大会があるんだよ。一緒に行かない?」
「ああ、そっちか。でも、めちゃくちゃ混むよ? 毎年ニュースでやってんじゃん。行きも帰りも超混雑して、ぐったりするんだろうなって思ってたけど」
「いいじゃん、見に行こうよ。ビールでも飲みながらさ、たまやーとか言うの」
「いや、あんなところでビール飲んだらトイレ大変だよ。並んでるうちに漏らすかも」
「漏らしてもいいから、行こ! 決まりな!」
正直、花火なんかどうでもよかった。ただ、計画を話すだけで楽しそうにしている真樹を前にして、この人はどんな顔をして花火を見上げるんだろう、その横顔を見てみたいな、と思った。
当日、僕と真樹はとうきょうスカイツリー駅で待ち合わせをした。
「お待たせ」
「えっ、気合い入りすぎじゃない?」
目の前に現れた真樹は浴衣姿だった。一方で僕は短パンにTシャツというカジュアルな格好で、落差が激しい。
「てか、敬太も浴衣着てくると思ったのに」
「いやいやいや、わざわざ着ないでしょ。それに――」
言いかけて口ごもる。
「ううん、なんでもない」
「なんだよ、言えよお? あ、もしかして俺の浴衣姿に惚れ直しちゃったかな?」
目の前で真樹はわざとらしくおどけたポーズを取ってみせる。
「全っ然。無理やり浴衣を着せられた、小学生みたいだなって思って」
「ひでぇ!」
開始時間よりも少し早めに集合したのに、駅周辺はすでに人でごった返していた。真樹と同じような浴衣を身に纏ったカップルや子連れの夫婦、学生らしきグループなど、さまざまな人たちが期待に胸を膨らませているのが分かる。コンビニで飲み物を買って、僕らは人の波に紛れるようにして会場へと向かった。
向かっていたのは隅田公園だった。しかし、公園内は立入禁止になっていて、そこで花火を鑑賞するのは不可能だった。自分たちの計画性の甘さをぼやきながらも、仕方なく、人の波に流されるようにして一般道を歩き出した。
それでも、なかなか身動きが取れないほどだった。思わず前の人にぶつかりそうになり、後ろの人にスニーカーの踵を踏まれる。ため息を吐きながら立ち止まるものの、至るところにいる警備員からは「立ち止まらないでください」とアナウンスされてしまう。
「立ち止まらないでって、これどうすりゃいいんだよ」
ため息をこぼすと、真樹は眉尻を下げる。
「やっぱり有料席を取れば良かったかなぁ」
「それはそうだけど、物凄い倍率なんでしょ。しかも、取れたとしても無事にそこまで辿り着ける気がしないわ」
気温だけじゃなく、人の熱気で蒸されるようだった。額に汗が滲んでは、頬を伝う。
亀の歩みで進んでいくと、やがて桜橋が見えてくる。腕時計の針は十八時五十分を差していた。周囲には薄い闇が静かに落ちてきていた。
「真樹、もうちょいではじまる。なんだかんだで見れそうだね」
声をかけると、真樹は嬉しそうに頷いた。
その瞬間だった。真樹の頬に涙がこぼれたように見えた。
あれ? と思っていると、涙の粒が一滴一滴増えていく。――雨だった。
「え? まじ?」
見上げると、先程まで光っていた月が雲に覆われていくところだった。晴れの予報だったのに、どうして。
みんな同じことを思ったようで、あちこちから「まじかよ」「なんで」という声が上がる。
やがて、針のように細かな霧雨が僕の顔を濡らした。
「いよいよ本格的に降ってきたけど、花火はどうなるんだろ――」
心配して真樹に話しかけた矢先、僕らを覆うようにアナウンスが響き渡った。
「誠に申し訳ございません。本日、予定していた隅田川花火大会は雨天により中止となります。繰り返します、本日、予定していた――」
人混みが一斉にどよめく。みんなの落胆や怒りの感情で地面が揺れたように感じて、思わずよろめいてしまう。と、真樹が支えてくれた。
「ごめん」
「ううん。残念だけど、仕方ないよね」
真樹は泣きそうな顔で笑っていた。上げていた前髪が濡れ、萎れたように垂れている。
僕らは一斉に向きを変え、これまで歩いてきた道を遡るようにして駅へと向かう。でも、混雑していることに変わりはないので、なかなか前に進まない。
土砂降りとまではいかないものの、このままだと駅に着く頃にはずぶ濡れになりそうだ。
と、真樹が浴衣に合わせていた巾着袋を漁り、中から小さな折りたたみ傘を取り出した。
「こんなこともあろうかと」
「真樹、準備良すぎない?」
「だってさ、敬太って雨男じゃん」
一度それについて話し合ったことがあったのだけれど、他の友人や一人で外出するときには雨に見舞われたことがないと胸を張る真樹に対して、外出時にはしょっちゅう雨が降る僕とでは、どちらが雨男なのか言うまでもないことだった。
「でも、さすがに今日は降らないと思ったんだけど。だって、せっかくの花火だし、そもそも晴れの予報だったし」
「そこで降らせるのが敬太さんの実力なんですよ」
「いらない力過ぎるね……」
肩を落とす僕に一歩近づくと、二人を入れるようにして真樹は傘を差した。傘はあまりにも小さくて、密着するようにしても互いの肩がはみ出てしまう。
「ありがたいんだけどさ、どうせ濡れるし、いいよ」
「だめだよ。ここから駅まで戻るのに時間かかりそうだし、風邪引くって」
でも、と言いながら周囲を見回す。ぽつりぽつりと傘の花が咲いていたけれど、持ってきていない人たちも多いようで、どうしたって僕らは目立っている。しかも、男同士で一つの傘に入っているだなんて、真樹には申し訳ないけれど居心地の悪さを感じてしまう。
僕は俯き、先ほど、真樹と駅で落ち合ったときのことを思い出していた。
浴衣に身を包み、満面の笑みで現れた真樹を前にして、僕はありえない、とさえ感じていた。真樹は「敬太も浴衣着てくると思ったのに」などと言っていたけれど、そんなの絶対にありえない。
だって、浴衣を着た男二人が花火大会の会場にいたら、どう考えたってゲイカップルだと思われてしまうだろう。僕らはお揃いのコーデで花火を見にきた同性愛者です、とカミングアウトするようなものだ。好奇の眼差しを浴びながら花火を楽しむなんて、僕にはできない。
でも、そんなこと言えなかった。僕と二人で花火を見られることを楽しみにしていて、張り切って浴衣まで着てきてしまう真樹に対して、水を差すことなんてできなかった。
黙り込んだ僕を見て、真樹は傘の柄を差し出す。
「ちょっと持ってて」
言われるがままに傘を受け取ると、真樹はコンビニの袋からビールを取り出し、プルタブを起こす。
「ほら、飲みながら帰ろ」
真樹は歯を見せながら満面の笑みを浮かべていた。僕を元気づけようとしてくれているのだな、と思った。
ビールを受け取り、乾杯と言いながらぶつけ合う。
真樹は何度か喉を鳴らすと、小さなゲップをしながら「美味い」と笑った。「汚いなぁ」と僕も笑い、ビールを流し込む。温くなってしまったそれは大して美味しくもなかったけれど、でも、今まで飲んだことがないような味がした。
隅田川沿いを流れる風の匂いも水の音も、あの夜と何も変わらない。僕の状況は変わってしまったのに、僕のそばにはもう、真樹はいないのに。世界は信じられないくらいに残酷だ。
そんな感傷に浸ってしまうのは、誰にも話したことがなかった真樹との思い出を、こうして佳乃子さんに打ち明けてしまったからだろうか。
「やっぱり、死んじゃったんですよね」
僕の言葉に、佳乃子さんが顔を僅かに歪めた。
「こうやって思い出を口にすると、真樹が過去になっていくような気がします。真樹の一挙手一投足をなぞるようにして話すことで、ああ、死んじゃったんだなぁって思い知らされる」
「……ごめんなさい」
「謝らないでください。佳乃子さんだって大切な思い出を話してくれたし、そもそも、こうして話したかったんです。……じゃなきゃ、いつまで経っても真樹のことを探しちゃうから。出社する時も家でダラダラしてる時も、一人でご飯を食べてる時も、どこかに真樹が隠れていて、僕のことを見てるんじゃないかって思うんです。でも、どこにもいない。もういないんですよ。早くそれに慣れなきゃいけない、そうじゃないと僕は僕の人生を生きられなくなっちゃうから。だから、良い機会だったと思います」
「あの」
佳乃子さんは居住まいを正すと、僕に身体を向ける。
「真樹の葬儀で、私、聞きましたよね。真樹は幸せでしたかって。あの時、敬太さんは『さあ、どうなんでしょう』って言った。でも、敬太さんの思い出を聞いて思いました。真樹は敬太さんと過ごせて、とても幸せだったんだろうなって。少なくとも、私と一緒にいた頃よりも、お二人の間には愛情が満ちていた。……そう感じました」
「それこそ……、どうなんでしょう」
「どうして! どうしてそう思うんですか。なんで、幸せだったって言い切れないんですか」
佳乃子さんは悲痛な表情を浮かべていた。眉間に皺を寄せ、唇がかすかに震えている。それは寒さのせいではないのだろうな、と思った。
「確かに僕らの間には愛情があったと思います。でも、愛情があることと幸せとは必ずしもイコールではない、じゃないですか」
「どうして――」
「僕らの関係には結婚というゴールがなかったから。もちろん、それがすべてだとは思いません。結婚しなくても幸せに暮らしているカップルは大勢いますよね。ただ、僕らは結婚しないんじゃなくて、できないんです。最初からその選択肢が用意されていない。僕からすれば、愛する人と結婚し、社会的な承認を得られていた佳乃子さんが羨ましいです。その……、たとえ、関係が数年で終わったとしても、です。僕はどんなに望んだって、佳乃子さんが立っていた場所に立つことはできないから」
「そんな……」
真樹の葬儀を思い出す。あの時、佳乃子さんは元妻として参加していた。一度社会的承認を得たことによって、関係が終わったとしても、一般客とは違う立ち位置にいられた。その立ち位置を周りから認められていたのだ。
でも、僕はそうじゃない。あの会場にいた人たちはみんな、僕のことをただの真樹の友人と見なしていただろう。真樹と過ごした日々を、真樹からもらった愛情を、真樹に向けていた愛情を、みんなの眼差しがすべてなかったことにしてしまう。それがどれだけ屈辱的なことか、佳乃子さんは知らないのだ。おそらく、一生わからないままだろう。
「愛し合っているなら結婚しているかどうかはどうもでいい、なんていうのは、異性愛者の欺瞞です。どんなに愛し合っていたとしても、この社会の中で認められなければ、時には、そんなの無いのと同じにされてしまうじゃないですか。もちろん、自分がゲイなんだって自覚した瞬間からそれは覚悟してきました。ああ、僕は誰かへの愛を隠しながら生きなきゃいけないんだって。その愛を第三者に認めてもらおうなんて思っちゃいけないんだって。僕と付き合ったことで、真樹にもそれを強いることになってしまった。勿体ないですよね。真樹は女性と結婚できる人だったのに」
「敬太さんは間違ってます。たとえ結婚していたって、愛されていなかったら意味がない。……ううん、むしろそっちのほうが悲しくて、地獄です。私は敬太さんのように愛されなかった。だから惨めにも縋り付いて、最後にはボロボロになって。……形だけの結婚がなんだっていうんですか?」
佳乃子さんは絞り出すように呟く。今にも泣き出しそうで、でもそれを堪えるようにして、川の水面を睨みつけていた。
真樹は本当に佳乃子さんを愛していなかったのだろうか。
――俺はバイっていうか、パンセク? ってやつなのかもしれない。好きになる相手の性別は関係ないっていうか。
結婚していることを打ち明けられた時の真樹の言葉が蘇る。それを信じるならば、真樹は僕とは異なり、女性のことも愛せるセクシュアリティだったということだ。実際、真樹の口から、佳乃子さんとの関係はカモフラージュ婚だったなんて聞いていない。それどころか、佳乃子さんを悪く言ったことさえなかった。
それを伝えようと思った矢先、佳乃子さんが口を開いた。
「私も男だったらよかった」
風の音が遠ざかっていき、佳乃子さんの言葉が耳の奥で反響する。
「……は?」
「男同士だと結婚できないから、社会的承認を得られないから不幸なんだって敬太さんは言うけど、それって裏を返せば、公的な関係になれないからこそ、互いの愛情を信じて、愛情で結ばれるしかないってことじゃないですか。つまりそこには確実な愛があるってことでしょう? だから、私も男だったら、男として真樹に出会っていたら、結婚なんて制度に寄りかからず、愛情だけで結ばれる関係を築けたのかもしれない。真樹が自分と一緒にいるのはそこに愛情があるからだって、疑わずに済んだかもしれない。それってすごく幸せなことじゃないですか」
「それ、本気で言ってますか?」
「だって、そうじゃない!」
日本には同性愛者差別なんて存在しない、と喧伝している人たちがいる。
確かに、海外では同性愛者を狙ったヘイトクライムがたびたび起こっている。同性を好きというだけで暴行を受けたり、時には殺されてしまったりもする。中には同性愛を犯罪だとする国もあるくらいだ。それに比べれば、日本はまだ寛容なのかもしれない。
「……だったら、だったら、どうしてこんなに苦しいんだよ!」
大きな声を出してしまったことで、佳乃子さんが小さく身体を震わせたのがわかった。でも、止められなかった。
「男同士だって愛情があるから、愛情で結ばれるから幸せ? 愛している人の存在を隠して、自分はモテないんですとか、恋愛には興味ないんですとか言って誤魔化さなきゃいけない状況が、本当に幸せだと思いますか? 僕は自分がゲイだってこと、必死で隠してきた。どうしてかわかりますか? バレれば好奇の目を向けられるからですよ。世間じゃ多様性だなんだっていうけど、実際にゲイを前にしたらみんな、気持ち悪いとか、俺のことは狙わないでねとか言うんですよ」
話しながら、今の会社に入る前に新卒で勤めていたところでの出来事を思い出してしまう。
仕事にも慣れ、プライベートを充実させることに意識が向くようになる三年目のある日、同期の中で最も親しかった男性社員と二人で飲みにいくことになった。
「俺、今度結婚するんだ」
乾杯して早々に、その男は嬉しそうに報告をしてくれた。大学時代から付き合っている子がいて、いずれは結婚したいと話していたので、僕も自分事のように嬉しくなった。
「おめでとう!」
「ありがとう。式には来てくれるよな」
「当たり前じゃん」
「……ところで、お前はどうなの? そのへんの話、あんま聞いたことなかったけど」
今となれば、どうして打ち明けてしまったのだろう、と思う。でも、その時は、同期の嬉しい報告に半ば浮かれてしまっていたのかもしれない。
できる限り軽い口調で、こんなのどうってないことですよという態度で、僕は自分のセクシュアリティをカミングアウトした。
男は最初こそ驚いていたものの、僕が話し終えると、「言ってくれてありがとうな」と笑った。そうして僕らは互いに幸せになろうな、と再び乾杯をした。
でも、その男から飲みに誘われることは、それっきりなくなった。こちらから誘っても、「今日はちょっと忙しくて」と曖昧に断られてしまう。それだけではない。社内で会っても、よそよそしい態度をみせる。
カミングアウトしたからだ、とは思いたくなかった。たまたまタイミングが合わなくなっただけだと、自分に言い聞かせた。
後日、先輩社員に呼び出された。
「今度、うちでも社内研修をしようと思ってるんだ。LGBTについて理解しようっていう内容で。それをお前に仕切ってもらいたい」
「……どうして僕なんですか」
「え? だってお前、ゲイなんだろ?」
それから三カ月後、僕は会社を辞めた。もちろん、研修なんてやらなかった。
退職当日、あの同期は僕のところに顔も出さなかった。
「そんなの、ごく一部の無理解な人たちでしょう?」
「ああ、そうかもしれませんね。時代が変わって、流石にそんな古臭い反応をする人は減りましたよ。じゃあ、どうなったか。多くの人は、私、理解あるからとか言うんです。あなたたちみたいな人のこと、認めるよ、受け入れるよって、上から目線で口にするんです。まるで施しを差し出すみたいに。なんでそんなこと言われなきゃいけない?」
どうして僕が受け入れてもらう側なのだろう。男として生まれて男を好きになって、ようやく見つけた相手と静かに生きようとしているのを、ただそれだけのことを、どうして異性愛者からジャッジされなければいけないのだろう。
「僕が僕として生きているだけなのに、どうしてあんたたちの許可を得なきゃいけないんだよ! たまたま同性を好きになるように生まれてきただけなのに、いつだって肩身が狭い思いをしなきゃいけない。それがどんなにしんどいことか、異性愛者のあんたにわかるか? わかるわけない。だから、男として生まれて、真樹に愛されれば、なんてくそみたいな仮定の話ができるんだよ」
これが差別じゃないなら、一体何が差別だというのか。
「もしも……もしも、同性同士でも当たり前に結婚ができる世界だったら、こんな風に葛藤しなかった。でも、現実はそうじゃない。同性同士でいくら愛し合ったってそんなの想定外で、結婚なんてできない。だって、この世に生まれた男も女も、普通は異性を好きになると思い込まされてるから。そして、いい年こいていつまでも結婚しないやつは、もしかして……って囁かれる。そう、どんなに時代が進んだって、僕らはいつまでもイレギュラーな存在なんだよ!」
だから、僕と付き合っていた真樹は、幸せになれるはずがなかった。僕と違って一度結婚しているからまだマシだったとはいえ、いつかは言われていたかもしれない。「再婚はしないんですか?」と。あるいは、常にそばにいる僕の存在を嗅ぎ取った人から、「真樹さんってもしかして」と勘ぐられたかもしれない。
僕と真樹は、一緒にいて幸せだったけれど、一緒にいればいるほど不幸な存在だったんだ。これまで付き合ってきた相手に対して、こんなことは思わなかった。どうして真樹に対してだけ、こう思ってしまうのか。
それは、真樹が結婚していたから。普通に生きられる可能性があったのに、それを僕が奪ってしまったからだ。
もしも真樹が佳乃子さんと出会っていなければ。佳乃子さんを好きになっていなければ。
佳乃子さんがいなかったら、こんな風に思い悩まずに済んだかもしれないのに――。
怒りの奥底から、仄暗い感情が立ち上り始める。それを止めることができない。
その瞬間だった。佳乃子さんが悔し紛れ、みたいな感じで吐き捨てた。
「……ノートを託されてたくせに」
「は? なんて?」
「真樹からエンディングノートを託されるくらい、あなたは信頼されてたじゃない! 愛されてたじゃない! それ以上何を望むのよ!」
エンディングノート? 佳乃子さんは一体何を言っているのだろう。
「ちょ、ちょっと待ってください。エンディングノートって何のことですか?」
「真樹があなたに託したんでしょ!? 自分が死んだら、葬儀に呼んでくれって私の名前も書いてあった。だから、元妻の分際で、私は真樹の葬儀に参列したの!」
真樹がそんなものを残していただなんて、知らない。第一、真樹は自分が死んだ時のことを考えるような人じゃなかった。遠い未来よりも、目の前にある今を楽しもうとするタイプだ。……少なくとも僕にはそう見えていた。
そもそも、真樹の死因は交通事故だ。大きな病気を患っていたならまだしも、どこからどう見ても健康体だった真樹にとって、死なんて遥か遠くに存在するものだっただろう。僕だってそうだ。
だから、わざわざエンディングノートを残そうとするなんて信じられなかった。
僕が混乱を隠せずにいると、佳乃子さんの興奮は次第に収まっていった。
「もしかして……、違うの?」
「はい……。僕は受け取っていないし、そもそも真樹がそんなものを用意していたことすら知りませんでした」
「そんな……。じゃあ、一体誰が真樹からエンディングノートを受け取ったっていうの」
佳乃子さんの問いかけに答えられずにいると、対岸に座っていたカップルが歓声を上げた。
その目線につられるようにして振り返ると、スカイツリーが綺羅びやかにライトアップされていた。
〈続きを読む〉
〈最初から読む〉
いいなと思ったら応援しよう!
読んでいただき、ありがとうございました!もしコンテンツに「いい!」と感じていただいたら、ほんの少しでもサポートしていただけたらとってもとっても嬉しいです。これからもよろしくお願いいたします。