私が愛した彼、僕を愛した彼│第三章
第三章
これほど化粧と服選びに迷った朝はない。今日は友人とランチに行くわけでもなければ、特別な関係を期待する異性とデートに行くわけでもない。元旦那の最後のパートナーと、生前の彼の思い出話をしに行く。
真樹との思い出の場所を紹介しあって、そこを歩きながら話そう、と提案したのは私だ。自分から「話を聞きたい」と言ったが、ほぼ初対面の男性と、カフェやレストランで向き合って同じ相手との過去を語り合うところを想像すると、あまりにもハードルが高かった。何かしながらのほうが話しやすそうだと思って立てた、苦肉の策である。
今日の予定を改めて考えると、不思議な気持ちになった。自分から敬太さんと連絡先を交換して、間髪入れず日程調整を進めて、週末に会う約束まで取り付けたというのに。その場に向かう自分が、どの程度女の武装をすれば適切なのかがわからず、クローゼットの前に棒立ちになった。
待ち合わせ場所には、とうきょうスカイツリー駅を指定した。真樹と行ったデートの中で、心がときめいた瞬間を振り返ったとき、大水槽を泳ぐ魚たちの姿が真っ先に浮かんだ。すみだ水族館。結婚する前、真樹に心の奥底から惹かれていた頃に二人で見た、夢のような景色。
あの日着ていた服を思い出し、クローゼットの片隅にかかっている一着を手に取る。当時の私が一番美しく映えると自信を持っていた、体の輪郭がくっきりと出るベージュ色のロングワンピース。もう何年も着ていないのに、これを着ている自分が好きだったから、どうしても手放せなかった。袖を通してみると、当時に比べて体型が緩んだから全体が締め付けられる。それでも着られないことはなかった。むしろ不健康なほど食事制限をしていたあの頃よりも、形がはまっているように感じる。
記憶をたぐりよせながら、あの日のメイクを再現してみる。年上の真樹に釣り合う女になりたくて、大人びた色のリップを選び、髪のゆるやかなウェーブを作ることに時間をかけたのを思い出す。背伸びをしたメイクは、今の自分にはしっくりきた。肌の艶と弾力が衰えたことが、月日の流れを感じさせるけれど。
あの日と同じ格好と顔をした自分が、鏡の前に立っている。今日、会うのは真樹じゃないのに。もう、真樹はいないのに。喉の奥が熱くなって何かがこみ上げるけれど、必死に飲み込む。
アクセサリーをまとめてあるラックの端には、結婚指輪が無造作に置いてある。葬式のときは、この指輪を着けなければあの場には居られないと思った。けれど今は逆に、これから会う敬太さんの前でこの指輪を着けていることがひどく無様に思えて、着けられない。一度は指輪を取った手を戻し、隣のピアスホルダーから、耳元で揺れるこぶりなパールのピアスを選んで着けた。
週末のとうきょうスカイツリー駅はそれなりに混雑していたが、正面出口に立っている敬太さんはすぐに見つけられた。パーカーにTシャツ、チノパン。カジュアルな出で立ちの敬太さんは、喪服で出会ったあの日よりも血色がよく、健康そうに見えた。改めて全身を眺めると、バランスが整っていて目を引く男性だ。遠目に観察していると、敬太さんがその視線に気づき、軽く会釈して近づいてくる。
「こんにちは」
「今日は、よろしくお願いします」
向き合うと、微妙な距離に戸惑う。敬太さんもそれは同じようで、緊張した表情を浮かべたまま次の言葉に迷っているようだ。待ち合わせをしていた周りのカップルや友人同士は、笑顔で挨拶を交わし、スカイツリーの方向へと軽やかに歩いていく。一方の私たちは、葬式以来二度目、共通の男性を愛したという特殊な関係性だ。傍目にはマッチングアプリか何かで知り合って、初めて会ったように見えるかもしれない。
「……じゃあ、さっそく行きますか」
思い出の場所を先に紹介するのは私なので、当然私がリードすることになる。ぎこちない動きのまま、すみだ水族館への道を示し、一歩先に進み始めた。二人の間に流れる沈黙を埋めるように、私の口からは自然と説明がこぼれていく。
「すみだ水族館は、真樹と何回目かのデートで行った場所なんです。どこに行こうかって話しているときに、私が水族館に行きたいって言って……そう、確かあの日は雨予報で、朝からどんよりしていて」
私が思い出しながらそう言うと、敬太さんがふと空を見上げる。まるでその日の雲を、今は晴れ渡っている空に探すように。私はその視線を追いながら、記憶を辿っていく。
「私、雨の日に外を歩くのが大嫌いだから、屋内で楽しめる場所を考えて、水族館って言ったんだった。そうしたら、真樹がすみだ水族館に行こうって。水族館のあとも、濡れずにそのままソラマチに行ってショッピングが楽しめるから」
「なるほど……よく考えてますね」
敬太さんは感心した声で相槌を入れながら、どこかさみしそうな表情を浮かべる。真樹のことを思い出しているのだろうか。私は、自分が覚えている真樹を、少しずつ言葉にしてみる。
「真樹は、私がどこか行きたいとか、何かやりたいとか言うと、それを受けて具体的なプランを提案してくれる人でした。私のわがままを受け入れて、実現してくれる、頼もしくて優しい人です。でも、自分からどこか行きたいと言うことはほとんどなくて、それを物足りなく感じることもありました。もしも私が何も言わなかったら、どこに行きたかったんだろうって……」
話しているうちに、喉の奥がキュッと締まる。言葉にすればするほど、真樹との関係が浅かったような気がしてきて、恥ずかしさと悔しさが混ざり合った苦い気持ちが心を満たしていく。おそるおそる隣の敬太さんの表情を横目で確かめると、真剣なまなざしで私の言葉を受け止めていた。そして私の視線に応えるように、口を開く。
「自分が行きたくないところには、行かない人だったと思います。だから真樹は佳乃子さんと、すみだ水族館に行きたかったはずです」
思わず目頭が熱くなり、涙をこぼさないよう視線を上げた。敬太さんに、不要な気遣いをさせてしまったかもしれない。私は、きっと救いを求めてしまっている。毅然としていなければ。このままだと敬太さんに甘えるばかりで、このあと私の知らない真樹の話を引き出すことができなくなる。背筋を伸ばし、視線を戻してチケット売り場に向かった。
「……確かにあの日の真樹は、水族館に入ってすぐ、子どもみたいにはしゃいでいました。魚が好きだって言って」
そう言いながらエントランスを抜けていくと、薄暗い空間にぽつぽつと四角いシンプルな水槽が浮かび上がり、道となる。快晴なので家族連れは屋外のスポットに集中しているのか、館内は若い女性グループや、カップルらしい二人組が多い。思っていたより混雑していないことにホッとした。
海草の合間を小型の魚類が泳ぐ水槽がいくつか展示されていた。ここはまだ玄関にあたるゾーンで、言ってしまえば地味だ。けれど真樹と私は、ここですでに喜んでいたのだった。「わあ」と声を重ねて、二人で顔を見合わせ、水槽に近づいていったのを覚えている。
「……私の地元、水族館がなくて」
あの日の感動を思い出しながら、私は敬太さんに話しかける。少し驚いた表情で、敬太さんは私に視線を送った。
「出身、どちらですか?」
「佐賀県です。他県に移動すればあったので、一度も行ったことないわけじゃなかったですけどね。水族館って昔から憧れていて、真樹と来られたことが、ほんとうに嬉しかったんです。それに真樹も、魚が泳いでいる姿が好きだって喜んでいたから、お互いの心が通ったような気がしました。そう、それで……」
真樹はここの水槽を眺めながら、「ずっと泳いでいられたら、いいのになぁ」と言ったのだった。いつもの真樹らしくない声で。横顔を見上げると、その目に映っているのは、ゆらゆらと舞う魚たちだけ。私に話しかけたのではないと気づいて、少しさみしかった。けれど、隣にいる私のことなど忘れて、揺らめく青に瞳を染めている真樹は、生まれ変わったら魚になりそうだった。いつも私を泳がせてくれている海のような人が、ちいさな魚に憧れていることにも独特の魅力を感じた。私はしばらく、私のほうを見向きもしない、ふだんは見せない横顔に見惚れた。
魚と男は、私の中でもともと遠い二点だった。なぜなら男という生き物は、二本の太い足で地面にどっしりと構えているものなのだと、幼い頃から感じ取っていたからだ。
父、母、兄との四人家族。寡黙な父は地元の建設会社で働いていた。私は彼の紙煙草と汗が混じった匂いが苦手で、幼い頃から好きだと思えなかった。母はいつも何かにおびえているようで、台所の形に切り取ったような小さな背をした人だった。兄のことは、小学校低学年の頃までは慕っていたように思う。けれど、成長と共に明らかに自分とは異なる生き物になり、野球部のエースになった頃には、もう一言も話さなくなった。
父は母を所有物、あるいは奴隷のように扱うことがある。当然のように命令を下す。内容は「あれ取ってこい」といった些細なものだが、抗うことなく母が言いなりになる姿がみじめで滑稽だった。困ったことに、兄は父の態度を、妹である私に対して真似た。「逆らわせない」という強い意志を感じた。意志を受けて抵抗できず、曖昧に笑って従う自分は、もうすでに母と同じ道を歩んでいるのかもしれない。
一度、次こそ兄の指示を無視しようと思ったことがある。決心して睨んだとき、兄はたまたま風呂上がりで、パンツ一丁だった。布から飛び出した二本の足は、筋肉の形があらわで、血管が浮き立っていた。私のことなど、一蹴すれば粉々にできそうだった。そんな想像をしたのは、母が父に蹴られている姿を、ほんとうに幼い頃、ドアの隙間から盗み見てしまったからだと思う。父は恒常的に暴力を振るう男ではなかったが、振るわないわけでもなかった。
彼らは生まれ変わっても絶対に泳がない、魚にはならない男たちだ。彼らと対等には渡り合えないし、向き合ってもいけない。一方で、男と交わらなければ女としての役割の大半がまっとうできないように、社会の仕組みと生物としての機能が成り立っている。
年齢を重ねて男を意識すればするほど、女という役割を果たさなければならないという責任感に縛られていった。男への恐怖と嫌悪感が強く根付いた心は、女としての価値が低いことで彼らから蔑まれることを拒絶する。その結果、女として価値を高めようと躍起になる自分が、母とは違う形で、みじめで滑稽で嫌いになっていく。そんな日々にすり減っていた私の心を救ったのが、真樹だった。
真樹は私が恐れた父や兄よりも大きな体をして、隆々と生える二本の足で体を支えていたけれど、私の自由を一度たりとも奪わなかった。彼は私を重力を感じない水中に誘い、一緒に泳いでくれるような人だった。
「……真樹となら、いい家族になれそうだと思ったんですよね。なんでかわからないけど」
私がそうつぶやいて、敬太さんを見上げると、唇がわずかに歪んでいた。その表情を隠すように、敬太さんは足早に次のエリアへと歩いていく。歩みを進めていくと、くらげの大群が七色にライトアップされた大水槽が浮かび上がる。
私はその大水槽を見下ろすスポットに足を止め、眼下で揺らめくくらげをうっとりと眺めた。真樹と来た頃は、このくらげの大水槽が誕生したばかりで、真樹がリニューアルのことを熱心に説明してくれていたっけ。きっと、真樹は何度もこの水族館に足を運んでいたのだろう。大切な場所に、私を誘ってくれたのかもしれない。くらげの生態系や、展示方法の素晴らしさについて楽しそうに話す真樹を見ているうちに、自然と笑みがこぼれていた。
「いい家族になれそうっていうのは、つまり結婚したいってことですか?」
過去に意識を取られていた私は、敬太さんから投げかけられた質問が前の会話の続きであることに、しばらく気づけなかった。その数秒の沈黙を、答えに迷っていると判断したのか、敬太さんは小さく首を振り、言葉を重ねる。
「……ごめんなさい、質問が悪かったです。プロポーズは、真樹がしたんですか?」
「あ、えっと……微妙ですね。私が結婚したそうにしていたからプロポーズしてくれた、っていう感じです。プロポーズさせた、というほうが合っているかも。私がしたいことに彼が具体的なアクションをくれる、いつものパターンでした」
私はそう答えながら、当時の記憶を手繰り寄せる。
私が結婚を考えた一番の理由は、二人の時間をつくるために一緒に暮らすほうがいいから、だった。交際し始めた頃の私は学生だったけれど、社会人になるとライフスタイルが一変する。コロナ禍ということもあり、家族でなければ会いづらくなることを想像すると不安だった。
交際期間中、彼の家に長く滞在したことは何度もあり、真樹の習慣や家事のやり方、家計に対する考え方などへの理解はできていた。しっかりした生活基盤がある人だと思ったし、互いの価値観が大きく異なることもなさそうだった。今まで見てきた姿から、一緒に暮らして問題ない確信が持てていたのだ。それはつまり、結婚できる相手ということ。突然ストレートに伝えたわけではないけれど、「ずっと一緒にいたいな」といった遠回しな言葉で、彼にアピールし続けていた。
真樹だって乗り気だったと記憶している。私が望んでいる未来を察してからは、そう長いこと待たせず、不安にさせない行動を起こしてくれた。指輪のサイズをそれとなく調べたりしている姿には、愛しさを感じたのを覚えている。
プロポーズの言葉はシンプルに「結婚しよう」だった。その日、プロポーズされるだろうという予測もついていた。だって、その日だけはデートのプランもレストランも、私に訊かずに彼が全部決めていたから。それも含めて嬉しくて、私は泣いて喜んだ。
結婚式の手配や二人で生活する準備など、すべて二人で相談して決めていく。そのプロセスで、やっぱり真樹が相手でよかったと何度も思った。真樹は決して何かを強要しないし、私が笑っていられること、私が納得して進めることを確かめながら、言葉や行動を選ぶ人だ。
真樹となら、小さな水槽でも自由に泳いでいける。心の底からそう思っていた。
「へえ……いいですね」
私の思い出話に、敬太さんは力のない相槌を打つ。その相槌には暗い色が滲んでいるように感じられた。話しすぎたかもしれない。私は口をつぐむ。お互い生前の真樹のことを聞きたいとは言ったものの、そんな幸せに満ち溢れた時期のエピソードを垂れ流されたら、私が逆の立場でも、多少は嫌な気持ちになるだろう。肩をすくめて、一言付け加えた。
「まぁ、ご存知のとおり、離婚しちゃったんですけど」
ペンギンがたくさんいるエリアに、人だかりができている。この水族館の目玉のひとつだ。ペンギンたちは歩くだけで歓声を集め、スマホを向けられる。その様子を人も含めて見守るように、私たちは群衆の一歩後ろで立ち止まる。
「今なら思います。結婚しないほうが長く居られたんじゃないかって」
私はそうつぶやきながら、まだ結婚していなかった頃の真樹と私が、ペンギンたちを前にはしゃいでいる姿を、群衆の中に紛れ込ませていく。あのときの会話が、耳の奥で響いてくる。
「ペンギンって、なんでこんなにかわいいんだろう」
私が困り顔に手を添えてオーバーな声で言うと、真樹もうなずきながら続ける。
「体型がかわいいよね、飛べない感じのお腹と羽のバランスが」
「かわいそうだけどね、飛べないのは」
「そうかな?」
「だって、鳥なのに飛べないんだよ。鳥じゃなければよかったのにね」
なんてことない会話だったのに、私の言葉のあと、しばらくの沈黙が流れた。ペンギンたちに夢中で、どのくらい沈黙が続いたかは覚えていない。はたと彼の表情をうかがうと、その視線で真樹は初めて自分が黙っていることに気づいたようだった。
「ああ、ごめん。飛べなくてもペンギンが幸せなら別にいいじゃん、って考えてて」
「そっかぁ……確かに、飛ばないと鳥としてかわいそうって決めつけてるの、人間かぁ」
ペンギンたちは、まんまるな瞳を斜め上方に向けたままじっとしている。私たちの会話の内容を理解できたら、なんて答えを返すのかな。
真樹はいつの間にか場内にあるカフェに視線を移しており、「喉、乾いてない?あそこ、限定ドリンクもあるらしいよ」と、ペンギンの話などもう忘れてしまったかのように、私の手を引いたのだった。手を引かれてペンギンゾーンから遠ざかっていく自分の後ろ姿が、記憶の波と共に薄れていく。
「もしも、もっと長く一緒に居られるとわかっていたら、結婚しなかった?」
敬太さんの問いで、我に返る。私は目を丸くして何度も首を縦に振る。
「当たり前じゃないですか。一緒に居ることのほうが目的ですもん」
「……なるほど」
敬太さんの顔に浮かんだのは、やっぱりいびつな表情だった。その表情が何を示しているのかわからないまま、金魚が展示されているエリアへとゆっくりと歩いていく敬太さんの後ろを追う。
さっき私は、『長く一緒に居られるなら結婚しなかったか』という敬太さんの問いに対し、迷うことなく肯定した。けれど、これは正確な答えではない。敬太さんの背に話しかけるように、あるいは独り言のように、金魚たちが舞う水槽を見つめながら私は付け加えた。
「……でも、結婚したいとは、確かに思っていました。だって、真樹と家族になりたかったから。子どもも欲しかったから。その欲望が『ただ一緒に居る』ことよりも小さかったか、優先順位が低かったか……今振り返ると、正直わかりません」
金魚の尾ひれが左右に揺れるリズムに合わせて本音を話してみたら、意外と軽やかに言葉が前進してくれた。むしろ、止まらなくなる。今まで胸のうちに秘めていたことまで、溢れ出してくる。
「私の兄は大学卒業後、社会人になってすぐ結婚しました。相手の女性を妊娠させたのが原因で、家族に知らされてからの日々は慌ただしいものでした。やっぱり兄は自分勝手で無計画な人だと私は呆れたけれど、望んだ結果だったのか相手の女性は喜んでいて、初孫だと騒ぐ父も珍しく表情が明るかった。母は兄嫁と急激に仲良くなり、家族の輪郭が突然くっきりと濃くなりました。そして私に無言のバトンが渡された……『次はおまえだよ』と言われた気がしたんです。だからって家族のために結婚したいとか、親に孫の顔を見せたいとか思ったわけではありません。ただ、私は安心したかった。結婚しなかったり子どもを産まなかったりすることで、両親に心配されたり何か言われたりするのが嫌だったし、女としての賞味期限が切れるのを恐れながら、生きていくことに耐えられな……」
敬太さんからハンカチを渡されて、自分が泣いていることに気づいた。変わらず金魚が、優雅に泳いでいる。ゆらゆらと。ずっと泳いでいられたら、いいのになぁ。真樹の声が、遠く、響いている。
「……外、出ますか」
敬太さんの提案に従い、私たちは出口へ向かう。薄暗い施設内から自然光の下に出ると、突然、現実に引き戻されたような気がする。日はわずかに傾きかけていた。まるで水族館の中で、タイムトラベルをしてきたような疲労感がある。実際、そうだった。水槽の前でだけ真樹がまだ生きていて、魚を愛しそうに眺め続けている。また涙があふれてきて、止まらない。あの日のまま時を止めておくことができたなら、真樹と離婚することも、真樹を永遠に失うこともなかったのに……。
「少し待っててください」
言われるがまま、私はぼんやりと人が流れていくのを見つめる。みんな生きていて、楽しそうで、時間は流れている。鼻水をすすって乱れていた呼吸も、火照っていたまぶたも、やがて落ち着いてくる。バッグからコンパクトミラーを出して、それほど化粧が崩れていないことを確認する。よく考えてみたら、敬太さんは私をあえて一人にしてくれたのかもしれない。気が利く人だな、と素直に感心する。さすが、真樹が好きになった人だ。そう思ったら、今すぐこの場から消えてしまいたい衝動に駆られた。
数分経って、敬太さんは水のペットボトルと、缶コーヒーを両手に一本ずつ持ってきた。コンビニのシールが貼られている。
「好み、わからなかったので……」
「ありがとうございます」
私は水のほうを受け取り、かなりの量を一口で飲んだ。思いもよらないことまで話してしまった自分が恥ずかしかったけれど、どこか胸の奥がすっきりしていた。勝手にすっきりしている自分に対する罪悪感も、同時に抱えている。
私は真樹に対して、家族に関わる想いを一度たりとも打ち明けなかった。それがいかに身勝手な欲かわかっていたし、その身勝手な欲を満たすために真樹を巻き込もうとしていることを、悟られたくなかった。
でも、果たしてどうだろう。いつも私の願いを叶えることに全力を尽くしてくれていた真樹は、早期の段階で気づいていたかもしれない。私が自己中心的な理由で家族になりたがっていることも、その先に子どもを欲しがっていることも。
「真樹の話をするために時間をもらっていたのに、自分の話ばかりして、すみません」
「いいえ、話してくれてありがとうございます」
敬太さんは手短に答えたあと缶コーヒーのプルタブを開け、わずかに角度を傾ける。
「……佳乃子さん自身の話も含めて、僕が聞きたかったことだと思いました。真樹がどういう世界で生きてきたのか、間接的に知ることができたから」
「世界って……敬太さんだって、同じ世界で生きているじゃないですか」
「いいえ、違いますよ」
私の声に重ねられた否定は、静かだけれど重かった。絶対に相手からの切り返しを許さない。そんな強さがあった。だから私は、話題を変えることにする。
「私が見てきた真樹の話を聞いて、どう感じました?」
敬太さんは思案顔をしてから、柔らかい表情で答える。
「正直、背伸びしていたというか、かっこつけてたんじゃないかな、と思いました」
「え、じゃあ、ほんとはもっと子どもっぽかったってこと?」
「子どもっぽいというか……なんだろうな。とにかく佳乃子さんの前では、いい顔を見せたかったんだろうなって思いました」
「そうなんだ……いや、確かにかっこよかったですけどね。なんか悔しいな、素をもっと見せてほしかった」
私がふくれると、敬太さんは困り顔で笑った。さきほどの重たい空気は、この会話の流れで解消できたようだ。飲みかけの缶コーヒーを持った手の指先で、敬太さんは隅田川のほうを指す。
「今度は僕の思い出の場所に案内しますね」
「よろしくお願いします!」
先ほど泣いてしまったから、そのお詫びに、精一杯明るい笑顔で答える。駅前から言問通りへと抜けながら、しばらく真樹の口癖やちょっと困ったところなどについて話す。私が後悔や嫉妬を交えなければ、話は深刻にならずに済んだ。具体的なエピソードを交えながら話しているうちに、私と敬太さんの間に流れる空気もあたたかなものになっていく。
「真樹ってほんと周りの人のことはよく見て考えるくせに、自分のことになると全然考えきれないじゃないですか。もっと自分のこと大切にしてよって思うの」
私が勢いよく指摘すると、敬太さんにも何か思い当たるエピソードがあったようで、何度も頷きながら笑う。
「ほんとに。しっかりしてるんだか、抜けてるんだか、わからないときありますよね」
「ですよね!私とデートに行くとき、ウェットティッシュとか折りたたみ傘とか、もしものときに私が困らないためのアイテムはめちゃくちゃ持ってきて、荷物が大きくなるくせに、自分の家の鍵を閉め忘れたりするんですよ!」
敬太さんは声をあげて笑いながら、「あいつ自分の荷物も多いくせに、並んで歩くと佳乃子さんの荷物も持とうとしたりするでしょ」と続けて、私は「そう! なんでわかるの……私たちのデート、もしかして見てました!?」と目をギョロッと動かして口に手を当てる。
私たちがこんなに楽しく話していたら、どこかから真樹本人が登場して「おいおい、やめろよ、二人とも話しすぎだよ」と会話に入ってきそうだった。
敬太さんと居ると、真樹の話をなんでも共有できるからか、真樹の気配のようなものを感じずにはいられない。でも、もしも真樹が生きていたら、私は敬太さんの存在すら知らなかった。
今、こうして隣に敬太さんが並んでいるほうが、パラレルワールドのような浮遊感がある。私が知らないほんとうの世界のほうでは、真樹は敬太さんと楽しく暮らしているのかもしれない。その世界では、私が真樹と会うことは許されない。さみしい。もっと真樹と話したかった。もっと。
「敬太さん、さみしい?」
思わず口からこぼれ落ちた問いに、敬太さんはこれまでで一番大声で笑った。
「……そんなバカみたいなこと、改まって訊かないでくださいよ」
笑いすぎて吊り上がった頬には、涙が流れていた。
「……だよね、ごめんなさい!」
私が真剣になってしまったら、彼が笑って誤魔化した努力をふいにしてしまう。そう思って、できるだけ明るく応じながら、先ほど敬太さんから借りたハンカチをそっと返す。私がつかったあとで申し訳ないな、と内心思いながら。
離婚してから一度も会わなかった私ですら、真樹の気配をありありと感じているのだ。敬太さんはきっと、もっと濃く彼の存在を感じているだろう。思い出す、ではない。すぐそこにあった現実が、突然なくなったのだから。
目の前に、隅田川が広がる。ここが、私の知らない真樹と敬太さんの思い出の場所。私が雨を極端に嫌っていたからか、屋外のデートに行った記憶はほとんどない。深呼吸をして、敬太さんが踏み出した一歩についていった。
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